嘘も方便




 東方司令部のロイ・マスタング大佐からエドワード・エルリックに電話があったのは、暑い夏の日であった。「賢者の石の手掛かりがあるかもしれない」一も二もなく汽車に飛び乗ったのが、一昨日のことである。

 東方司令部の大佐の執務室に飛び込んだエドワードとアルフォンスを、マスタングは常の涼やかな笑みで迎えた。

「やあ、鋼の。早いな」
「当たり前だろ。で、賢者の石の手掛かりってなんだよ」

 エドワードの問いに、マスタングは椅子に深く座りなおした。

「イシュヴァール殲滅戦で賢者の石が使われていた可能性がある、と君は言ったな」
「ああ」
「気になる件がある」

 卓上を滑りこちらに送られる書類を、エドワードは手に取る。手の平がじとりと汗ばんでいるのは、決して暑いからだけではない。
 内容は、イシュヴァール人の町を攻め落としたこと、その作戦は国家錬金術師が指揮を執っていたこと、作戦は成功したこと、作戦の核を担った士官が一人重体に陥ったことだけが、簡潔に書かれていた。特に奇妙なことはない。幾百の死も、紙面では鎮圧の一言でしかない。

「なんだ、これ」

 エドワードが首を捻ると、マスタングは不快そうに眉をひそめた。

「その作戦は、ある実験の集大成として行われた。その実験というのが、錬金術の遠隔使用」
「それが、賢者の石と何の関係があるんだよ」
「作戦は成功したが、実験は失敗だった。陣は錬成途中で崩壊し、成果は予想の半分以下。――だが、建築物の全壊22件、半壊107件、死者不明者約300人。およそ半径1キロ圏内は文字通り不毛の地となった」

 淡々と告げられた言葉に、エドワードはひゅうと息をのんだ。死ぬ。300人が。一度の錬成で。言葉が出なかった。人間兵器という言葉が双肩にずしりとのしかかるのを、改めて自覚した気さえする。
 マスタングは言葉を続けた。

「いくらなんでも規格外すぎる。賢者の石の存在の可能性は捨てきれない」
「あ、ああ! なら、この指揮官の国家錬金術師を――」
「それは無理だな」

 にべもなく切り捨てられ、エドワードは身を乗り出した。

「なんでだよ!」
「指揮官は紅蓮の錬金術師、ゾルフ・J・キンブリー。君も名前くらい聞いたことはあるだろう。上官殺しで投獄されている。面会は不可能だ」

 ゾルフ・J・キンブリー、と、その名を口にするのも憚られるかのように、マスタングの表情が苦渋に歪む。

「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
「私に感謝しろ。手は打ってある」

 マスタングはわずかに笑んだ。言い終わるのとほぼ同時に、ノック音が響いた。

「シハナ大尉です」
「入りたまえ」

 ぎ、とドアが開く。青い軍服姿の女性が、背筋を伸ばして敬礼した。

「やあ、シハナ大尉、また会えてとても嬉しいよ。かけたまえ、ああ、コーヒーは苦手だったね。今、お茶を持ってこさせよう」

 急ににこやかに甲斐甲斐しくなるマスタングに、エドワードは呆れてため息をつく。シハナは折り目正しく促された通りにエドワードの向かいに座った。エドワードと目が合うと、冷たげに見える灰色の瞳が優しく細められた。どことなく異国風な顔立ちの女性である。

「シハナ・S・キンブリー大尉であります」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! キンブリーって……」

 目を見開くエドワードをちらと見、マスタングはシハナの肩に手を置いた。

「シハナ・ゾルフ・キンブリー大尉は先の戦中に実験体を志願し、辛くも一命を取り留めた。ゾルフ・J・キンブリーの元部下で、娘だ」

 血は繋がっておりませんが、というシハナの言葉を最後まで聞くことなく、エドワードの驚愕は怒りに変わった。

「娘を実験体にしたってのか!」

 エドワードの脳裏に、異形と成り果てたニーナの悲しげな呻きがこだまする。そんなことは、絶対に許されない。書面の文字であった「重体」の文字が、本人を目の前にしてひたひたと恐怖として実体を持った。

「お言葉ですが、それは違います」

 静かに、穏やかに、シハナは笑んだ。気勢を削がれてエドワードは口ごもる。

「親子とはいえ戦場では上官と部下ですから」

 エドワードは、灰の瞳を見つめる。ひどく穏やかなその眼は、真意がどこにあるのかを窺わせてはくれない。なんだか背筋がぞわぞわした。戦争、とは、そういうものか。

「シハナ大尉、こっちの小さいのは――信じられないだろうが――エドワード・エルリック。鋼の錬金術師だ」
「ああ、あの、資格試験で大総統閣下に武器を向けたという。存じております」

 少し面白そうにシハナは言った。エドワードは指先で頬をかく。

「うあ、あれは、まあ、若気の至りというやつで……」
「何を言う。君は今でも十分小さいぞ、鋼の」
「うるせえぞ大佐!」

 騒ぐエドワードを抑えながら、マスタングは何気ない風に切り出す。

「彼は、君の父上のこの研究にとても興味があるようでね。少し話をしてくれないか」

 シハナの方に、件の遠隔錬成の書類を差し出す。受け取ったシハナは、ああ、と呟いた。

「それは……しかし、私は錬金術のことについては全くの門外漢でありますが」

 シハナは眉尻を下げる。エドワードも真剣な面持ちで席に着く。

「いや、知ってる範囲で構わないんだ」

 シハナは目を伏せた。何か思い出す風であった。

「知っている範囲と言われましても……ゾルフ・J・キンブリーは、私の皮膚に無数の入墨を彫らせました。ちょうど、その、大佐の手袋のような。ああ、ゾルフ・J・キンブリーの掌にも同じような入墨がありましたが」

 エドワードは唾を嚥下する。何が錬金術の遠隔利用だ。要は、兵士を動く錬成陣に仕立て上げただけだ。先の大佐の「陣の崩壊」という言葉を思い出すと、脳髄がわずかにくらりとした。

「あとは、イシュヴァール人の町の中心部で、自分の周囲にぐるりと円を描くだけでした。ご覧のとおり、私はあまりアメストリス人らしくない容貌で。適任だったのです」

 エドワードはマスタングと一瞬目線を交わす。まだ、あの、法外なエネルギーの出所が分からない。

「そっか、……なんか、辛いこと聞いちゃったかもしんねえけど」
「いいえ、私こそお役にたてず申し訳ございません」
「あ、そうだ、その入墨って見せてもらえねえかな」

 エドワードの申し出に、シハナは目を丸くした。

「お見せしたいのですが、火傷の治療で大部分が消えてしまいましたし、手足の部分はそっくり吹っ飛んでしまったのです」
「ふ、ふっとぶ……?」
「この有り様で」

 シハナは両手の手袋を外した。鋼の両手が覗く。
 沈痛な表情のエドワードに、シハナははっとしたように顔をあげた。

「あ、いえ、その、全てその時に失ったわけではなくですね! 右腕は幼い時に親父殿の錬成に巻き込まれまして! 思えば私の四肢は全て父親に爆破されているのですね! ですからそんなに大変でもないのですよ!」

 沈痛な表情を通り越して消し炭のようになって椅子に沈むエドワードを見て、マスタングはシハナを制止した。

「そのへんにしておいてやりたまえ、シハナ大尉。そのフォローは逆効果だ」
「あああ……失礼いたしました」

 おろおろと視線を泳がせるシハナに、エドワードは吹き出す。笑ったエドワードに、シハナは安堵したように息をついた。そのとき、マスタングが、静かに口を開いた。

「シハナ大尉」
「はい」
「悪いが、君の医療記録を見せてもらった」
「イエスサー」
「全身にV度の熱傷。しかし、それにしては、君の膚は綺麗すぎる。そもそもこの熱傷の範囲と深度では、生存は絶望的なはずだ」

 エドワードの血の気がひいた。追い求めたものが眼前に迫る感覚に身を固める。

「錬金術師の方が治療してくださったそうです。素晴らしい技術です、錬金術というものは」

 エドワードは逸ってシハナに詰め寄った。

「その錬金術師って誰だ! 教えてくれ!」
「聞き及んでおりません。マスタング大佐、私の医療記録に記載はありませんでしたか」
「いいや、なかった」
「そうでしたか。ただ一つ言えるのは、その錬金術師はゾルフ・J・キンブリーではありえないということだけです」
「なんでだよ、父親だろ?」
「…………性格的に?」

 シハナの呟きに、マスタングは数度深く頷いた。随分と人徳のない男のようだ。

「なあ、キンブリーって、どんな奴だったんだ?」

 思わず疑問が口をついて出た。終始穏やかであったシハナの表情が曇る。

「――これは尋問でありますか?」

 エドワードは慌てて両手を振った。

「ちがう! 紅蓮の錬金術師じゃなくて、シハナ大尉の父親の話が聞きたいんだ! 単純な興味だから、答えたくないなら答えなくていいし……」

 それならば、とシハナは手袋をはめ直しながら、話し出す。

「よい、父親であったと思います。――私にとっては、ですが」

 シハナはマスタングの方をちらりと見て、意外に思われるかもしれませんが、と苦笑した。

「マスタング大佐はご存知の通り、少しばかりイカれ……いえ、キチ……いえ、エキセントリックな――」
「少し?」
「……だいぶ」
「だいぶ?」
「かなり。かなりエキセントリックな人でしたが――」

 マスタングに反駁されたシハナは何度か言葉を選んだ。

「頭の切れる、意志の強い人でありました。反逆者にこんなことを言うのは問題ですが――尊敬しておりましたし、愛しておりました」

 微笑むシハナは、少し寂しそうに見えた。

「恨んだり、してないのか?」
「恨む、とは」
「こんな体にして、って」


 ああ、とシハナは数度鋼の掌を握ったり開いたりした。その様子をエドワードはじっと見つめる。どこか、彼女を弟と重ねているのかもしれない、と、ふと思った。

「……何しろ、育ての親があれでしたから。そういうことを考えるように育ちませんでした。ダルマ状態で目覚めて、ゾルフ・J・キンブリーが投獄されたことを知った時には、あの野郎皮を剥いでなめして靴にしてやると思いましたが。機械鎧のリハビリ中もずっと思っていましたが」

 穏やかな笑顔で靴にしてやると言い切るシハナにエドワードは表情をひきつらせた。一瞬「兄さんを靴にしてやる」と息巻くアルフォンスがよぎった。弟に限ってそれはない。大丈夫だ。多分。

「特に、恨むような気持ちはありません」

 その返答を聞いて、エドワードは少しだけ安心した。

「そっか、……うん、ありがとな」
「つまらぬ世間話でした。聞き苦しくて申し訳ありません」

 黙って聞いていたマスタングが、椅子に凭れかけさせていた体を起こした。

「話は終わったかね」
「あ、ああ。大佐もありがとな、だいぶためになった」
「そうか。だ、そうだ、シハナ大尉」
「お役にたてて光栄です」

 立ち上がろうとしたシハナの手を、マスタングは優しく掬い取った。シハナの目が、くるりと丸くなる。

「久しぶりに会ったのだから、どうだい、食事でも。美味しい東部の田舎料理を出す店があるんだが」

 エドワードの呆れた視線をものともせず、マスタングはにこりと笑う。シハナは柔和な笑みを取り戻した。

「お気持ちは嬉しいのですが、イーストシティではマスタング大佐に手酷くふられた女性がどこで見ているか分かりませんので」
「誤解だよ」
「手足は惜しくありませんが、命は惜しいのです」

 マスタングは口の端を引き上げ、シハナの手を解放する。

「そうか、残念だよ。気が変わったらいつでも連絡してくれたまえ」
「お気遣い痛み入ります」

 シハナは敬礼するとドアに向かった。閉まったドアからマスタングへ視線を移したエドワードは「なんだよ、俺達のためとか言っておきながら、あれが目当てだったのかよ」と呟く。マスタングは片眉をあげて「何か問題があるかね、鋼の」と嘯いた。