喧嘩するほど……
ひとをころすということが、こんなにつらいとは、おもいもしなかった。
リザ・ホークアイは、ちらちらと瞬くたき火を見つめる。今日は、13人、撃ち殺した。
覚悟はあったはずだった。軍人となると決めた時に。
「リザ!」
焦げた外套を纏った人影が、ホークアイの傍らに屈みこむ。
「リザ、コーヒー、飲みませんか?」
「……シハナ、少尉」
「シハナで構いませんよ。どうせキンブリ―少佐のごり押しで手に入れた階級です」
ホークアイは笑みにもならぬ笑みを、差し出されたコーヒーの黒い水面に落とした。
「シハナは、相変わらずコーヒーが苦手なのね」
シハナは苦笑する。
「ええ、子供と笑ってください」
シハナとは士官学校での同期であり、同室であった。
柔らかな灰色の瞳が、ゆるりと細められる。士官学校生の実習として前線まで引っ張り込まれた己と違い、シハナは――どんな手を使ったのか――父の下で少尉として仕事をしている。上も下もバタバタと死んでいく混乱した戦局で、どさくさに紛れて訓練生をねじ込むのは、容易いといえば容易いのかもしれない。
父の威光と彼女を嗤う者は多かった。だが、それもすぐに止んだ。半分は、シハナが訓練生であることを知る者の多くが死んだから。もう半分は、その昇進が決して彼女の益になるものではなかったからだ。
射撃手として戦場を俯瞰するホークアイは知っている。その少尉の地位は、確実にシハナの命を脅かしていた。ホークアイの知る限りでも、シハナは2度、その父親のせいで死にかけていた。「イシュヴァールの民より、キンブリー少佐に殺されかけたことの方がよほど多いのですよ」と、シハナはやはり穏やかに笑っていた。
「リザ」
穏やかに、穏やかに、シハナはホークアイの名を呼ぶ。まるで寄宿舎のベッドで、美しい未来を語った時と同じような調子で。どうしてだろう、そんな彼女を、少し、怖いと思った。鏡を見るたび、己の目は、荒み、淀んでいく。彼女の灰の目は、常と変らず温和であった。
「キンブリー少佐に言われたの」
ぽつり、とホークアイが呟く。シハナは数度瞬きした。
「仕事だから割り切れ、と。それが軍人の仕事だ、と」
自分の弱さを、甘えを、突きつけられた。そうだ、屍を見るのが、築くのが嫌ならば、軍人になど、なるべきではなかった。
ふ、とシハナは鼻で笑った。常に柔和で折り目正しいシハナの、初めて見る表情であった。
「誰も彼も親父殿のようにイカれているわけではありませんから」
そんな世の中いやですよ。と、シハナはいつものよう茶目っぽく笑う。
「色々な人がいて、色々な考え方があるのです。何が正しいとか、何が善いとか、そんなの無いんです」
ね、とシハナは口の端を吊り上げる。学生時代と何も変わらぬ笑み。己は日々人殺しの目になっていくというのに――。
ああ、そうだ。ホークアイは、シハナの瞳を見つめる。優しく、穏やかで、奥底を覗き込ませてはくれない瞳を。
――ああ、そうか、彼女はとうの昔から…………
「シハナ少尉!」
連絡兵が、シハナの前で敬礼した。シハナはホークアイの方を見て、やはり慣れぬとでも言いたげにホークアイに視線を送り、敬礼を返した。
「キンブリー少佐がお呼びであります!」
「はい、ありがとうございます」
走り去る兵の背を見送りながら、シハナは「ああ、キンブリー少佐のお呼びか、いやだなあ、どうせ碌な用じゃないんですよ」と、肩を落とす。ホークアイは、それに小さく作り笑いを返した。
自分が上手く笑えていたのか、よく、分からなかった。
******
ひどく不機嫌な面持ちでコーヒーの水面を見つめるキンブリーに、シハナはどうしたものかと逡巡する。
「キンブリー少佐――」
「シハナ」
キンブリー少尉ではなく、シハナ、とキンブリーは呼んだ。嫌な予感にシハナは体を強張らせる。
「シハナ」
「……なんです、ゾルフ」
公私混同を好まぬキンブリーであるから、普段は軍中でそう呼ぶことはない。だが、何故か拍子にそう返してしまった。
「恋人がいるそうですね」
コイビト。はて、そんな装備が、作戦が、あっただろうか。シハナはぐるぐると考える。恋人、とそれに思い至り、シハナは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「はあっ!?」
「恋人が」
「だからなんだっていうんですか」
「いえ、父として看過できぬ事態か、と」
「どおっでもいいじゃないですか」
「よくないです」
「私を幾つだと思っているのですか」
「さて」
「……言っておきますが、初めての恋人ではありませんからね」
シハナが言うと、キンブリーは露骨に驚愕の表情を浮かべた。
「なんですか、私がそんなにモテないとでも?」
「いえ、その男たちは無事ですか?」
「ええ、きちんと、穏便に、放流しております」
「フラれたのか」
「……放っておいてください」
はあ、とキンブリーは妙に綺麗なままの軍服姿で溜息をついた。
「そうですか、恋人。私の恋人を、殺してステーキにした貴女が恋人などと高尚なものを持つとは」
「お言葉ですがキンブリー少佐、ステーキではなくフリカッセであります」
ああそうですか、とキンブリーはいかにも興味なさそうに鼻を鳴らす。
「それで、私の恋人がどうかいたしましたか」
「いいえ、別に」
「……そうですか。それでは失礼いたします」
「待ちなさい、シハナ」
本当ならばさっさと逃げたいところだが、上官命令とあっては従わないわけにはいかない。反発しているつもりでも、この身体に仕事は矜持を持って全うしろという父の教えが染みついているのだろうか、とぼんやり考える。
「恋人とは、仲よくやっていますか」
「はい」
「楽しいですか」
「……何がですか」
「恋人と一緒にいて」
「正直に答えるべきですか」
「もちろんです」
ふう、とシハナは息を吐く。
「特には」
年頃の女には恋人がいる方が周囲の視線が煩くない。士官学校も軍も男所帯であるから、寄り付く秋波を跳ね除けるには、恋人がいるとしておいた方がいい。それだけだ。
「親父殿もそうであったでしょう」
「何を言いますか。私は恋人をいつでも愛しておりましたよ、心の底からね」
「はははは、ご冗談を」
この男が愛しているのは爆音と殺戮と悲鳴だけだ。
頬のあたりにねちっこい視線を感じる。
「……いやに、つっかかりますね」
「そうですねえ、恋人、ねえ。貴女に」
「軍律は犯しておりませんが」
「ギル・メッサー。中央軍技術班。なるほど、貴女の機械鎧が急に良いものに変わったのは、そういうわけですか」
「調べたのですか。いやな人ですね」
「口のきき方を弁えなさい。キンブリー少尉」
「部下のプライバシーに必要以上に立ち入るのはどうかと思います。キンブリー少佐」
しばし、睨みあう。
「技術班、とは。そういうタイプが好みなのですか」
「関係ありません」
「ええ、ただの独り言ですよ」
「優しくて、知的で、素敵な男性だと思いますよ」
「物は言いようですね。ただのオタクでしょう」
「……親父殿、そればかりは人のことを言えな――」
耳のあたりがちりりとざわつく。とっさに伏せると、己の頭があったはずの場所が小さく破裂した。
「さすがの私も義娘を営倉舎送りにするのは忍びない」
「だからって――!」
殺すことはないだろ! と言いかけ、慌ててワイヤーフックを軍用トラックに引っかけ退避する。自分が伏せていた地面の砂が、ボッと炸裂する。さすがにトラックを爆破させるのはまずいだろう。攻撃の手が緩んだところで、キンブリーの左手をワイヤーでからめ捕る。本当は掌に穴を開けてやるつもりであったが。シハナは舌打ちする。
「親父殿、言いすぎました、ここは少し落ち着い、て――」
ワイヤーごと引っ張られ、油断していたシハナは宙に舞う。砂に嫌と言うほど背を打ち付け、シハナは咳き込んだ。
「お、お、親父殿……」
******
どおん、と至近距離から爆発音がした。ホークアイは小銃をとり、身構える。
「や、やばい! キンブリー少佐が!」
「な、なにい!? おい、シハナ少尉を呼べ!」
「そ、それが、シハナ少尉が――!」
「はぁ!? 親子喧嘩ァ!?」
ホークアイは小銃をブン投げそうになった。