ロールシャッハ




 隣のベッドが空であるのを見て、ホークアイは小さく息を吐く。
 シハナ・キンブリーは、ホークアイの同期である。紅蓮の錬金術師、ゾルフ・J・キンブリーの娘であるとのことだが、本人は錬金術の素養は無い。なんだか親近感を覚える身の上であった。
 だからというわけでもないが、入学以来仲は良い。
 射撃ではホークアイに大きく後れをとるシハナであるが、対人格闘では並み居る大男を差し置いて常にトップである。所詮は女、ルールのある疑似戦闘でしか戦えぬと揶揄する声もあったが、それもこの数日で消えた。
 シハナに暴行を加えようとした士官学生が血だらけで発見されたのが、四日前の晩である。
 ホークアイは見ていないが、惨憺たる有り様であったらしい。命に別状こそないものの、軍人としての人生は絶望的である、とか。その惨状を見た友人が「あれでは死んだ方がマシだ」と呟いていた。
 状況からシハナの正当防衛が認められたが、カウンセリングと称して衛生棟に引き止められている。



「はい、これ、何に見えます」

 白衣を纏った初老の紳士に、白地に左右対称の黒い染みを記したカードを示される。
 シハナはゆるゆるとそれに手を伸ばした。触れる寸前で、引っ込められる。
 やりすぎたかな、とシハナは内心うんざりする。男一人半殺しにしたくらいで精神鑑定を受けさせられるなど、軍とは窮屈な場所である。親父殿もよくやってるよ、と感心しきりだ。

「そんなに考え込まずに、さあ」
「さて……牛ですか?」
「なるほどね、次は、これ」

 誤って零したインクのような染みを、見続けるもの飽きてきた。もやもやとしたそれに、一瞬鮮烈な記憶が蘇る。シハナは顔をしかめた。

「そう、ですね……キレイなチョウチョ」

 キレイなチョウチョ、とでも、そう答えてほしかったのだろう。だから、そう答えてやる。

 ああ、だが、それは、どう見たって――


******



 警邏の持つライトの光を眼下に見た。暴動跡の荒れ果てた建物――もとは大きな水屋であったそこの、屋上にある貯水タンクから、足下の闇を見下ろす。規則正しく一定の歩様からして、軍人さんだろうか。シハナは嬉しくなって少しだけ笑った。いけない、とシハナは自分の緩んだ頬に触れる。しゃんとしなくては。
 シハナは貯水タンクの縁ギリギリに立つ。南部の国境付近にあるこの地でも、冬が近付いてきて肌寒い。その人影が真下に来たのを見計らい、煉瓦の塊を落とした。悲鳴というより、ひしゃげた肺から空気の抜ける音がした。その音を聞いて、シハナは階下へ急ぐ。
 軍服の男がうずくまっているのを確認した。やった、やっぱり軍人さんだ。シハナが駆けよると、"それ"になりかけた彼は、くしゃっとなった目でシハナを見上げた。

「お……ゴボ、おじょ……ざん、に、げ……」

 殺人犯がいるから逃げろと促す男を見下ろしながら、シハナは腰に提げた出刃包丁を手にする。充血した目がこれ以上なく見開かれた。地面にてらてらとこびりつくものが、夏にこの辺りに飛来する赤い蝶に似ていた。シハナはその蝶が好きではない、においに惹かれるのか、腐肉に集るからだ。気味が悪い。
 両手で持っても支えきれないほど重い包丁を、もがいているのか痙攣しているのか分からない男の首にあて、一息に頸動脈を掻き切った。噴水のように血がほとばしる。男はしばらく生きていたようだが、すぐに動かなくなった。シハナは血が流れきるまで、しばらくそこに立っていた。命がとろとろと流れ出すのを、見つめていた。

「驚きましたね」

 男の声がして、シハナは飛び上がった。足下の男は――確かに死んでいる。

「巷を騒がすシリアルキラーが、こんな小さなお嬢さんだとは」

 はっとして振り返ると、男がいた。ダブルのスーツをきっちりと着込み、短い髪を後ろに撫でつけた男だった。お金持ちそうだな、と出で立ちを見て思った。次に、歩み寄ってくる様子を見て、軍人さんかな、と思った。
 叱られるだろうか、捕まるだろうか、とシハナは身を固くする。だが男はシハナの傍らにかがみ、大きな手でシハナの頭を撫でた。

「その齢にして、見事な手腕です」

 少し言葉が難しかったが、褒められたのはなんとなく分かった。気をよくしたシハナはにこにこと笑う。

「おじさん、軍人さん?」
「よく分かりましたね、そうですよ」
「私を捕まえるの?」
「いいえ、それは私の仕事ではありませんから」
「そっか、じゃあ、いいもの見せてあげようか」

 シハナは男の手をひく。男は黙ってついてきた。
 歩きながらシハナは男を見上げる。優しくて、穏やかで、街にいる偉そうな軍人よりずっと良い人に見えた。だが、どうしてだろう、何か恐ろしかった。

「おじさんは――」
「よしてください。私はまだそんな齢ではありません。私はゾルフ・J・キンブリーです」
「うん、ゾルフジェイキンブリーは、どうしてこんなところにいるの?」
「散歩です。月が綺麗だったので」

 シハナは空を見上げる。刃のような細い月が、暗い空に浮いていた。

「ゾルフジェイキンブリーは、変な人だね」
「初対面で看破されたのは初めてです」

 褒められたのかな、とシハナは悩む。暴動ですっかり荒らされた自宅の裏に回る。裏と地下は無事だったから、まだ住んでいた。


「来て」

 きゅ、とキンブリーの手をひく。
 地下室に降りると、ひんやりした空気が頬を撫でる。灯りをつけると、キンブリーが息をのむのが分かった。

「君がやったのですか?」
「君じゃない。シハナ」
「これは失礼。シハナがやったのですか?」
「うん」

 地下室にずらりとぶら下げられた、肉。シハナが抱える包みの中身のような枝肉が、塩と香辛料をまぶされ干されている。

「食べるのですか?」
「ううん、こんなに食べられないよ」
「では、なぜ」
「売るんだよ。表に看板、あったでしょ?ここ、お肉屋さんだから」

 シハナが言うと、キンブリーはああなるほどと頷いた。シハナは少しがっかりする。もっとびっくりしてくれるかと思ったのに。この肉の人みたいに、信じられない、と血走った眼を見開くかと思ったのに。シハナは頬を膨らませる。
 今日の収穫物を天井のフックからぶら下げ終わると、キンブリーが壁に紐でかけてあったノートを見ていた。

「ねえ、見ないで。私の秘密だよ」
「日記ですか?」
「違うよ、ギョウムニッシだよ」

 キンブリーはぱらぱらとページをめくっていく。シハナはむすっとしてそれを見ていた。

「なるほど、軍人ばかり狙われた理由が分かりました」

 シハナは目を丸くする。

「若く、健康で、品質が均一だから。この辺りは移民や混血が多いですからね」
「そう、あと、軍人さんは夜でもたくさんいるから」

 暴動後、家畜を卸してくれていた農民も街に寄り付かなくなってしまった。猫や犬より、人間の方がニブくてノロくて捕まえやすい。イシュヴァール人は固くて不味い。アエルゴ人は筋っぽい。シン人は美味いが、あまり見かけない。この辺りは貧しい人間が多いから、痩せぎすで不健康で食いでが無い。
 一番高値で売れるのは、柔らかくてクセのない子供だが、最近ではこの辺りで子供を見かけなくなってしまった。だから、軍人が一番いい。
 そう言うと、キンブリーは声をあげて笑った。

「背筋が寒くなるほど合理的ですね」

 シハナは曖昧に頷く。

「ここ、寒いから、上に行こう」
「ああ、そうですね。おや、手が汚れていますよ。どうぞ」

 白いハンカチを差し出されるが、辞退する。

「上に流しがあるから」

 数か月前までは家族で囲んでいた食卓に向かい合って座った。灯りの下で、キンブリーのアイスブルーの瞳がよく見えた。冬の朝のような色だった。

「シハナ、一つ聞いていいですか」
「いいよ」
「なぜ人間を食肉にして売るのですか。生活の糧が欲しいなら、死体から財布を盗んだ方が楽でしょう」
「どうして? 私の家は肉屋だもの。泥棒じゃないよ」
「……これはこれは、とんだ無礼を」

 キンブリーは地下室にぶら下がる肉を見た時よりよほど驚いた顔をした。
 シハナは続ける。

「あとね、面白いから」
「面白い?」
「夜は、一人だと寂しいでしょ? 何もないから、退屈でしょ? 人を捕まえるの、楽しいよ。失敗したらどうしようって、どきどきするのが好き。それから、街の人が私が売った肉を美味しいって言うのが楽しみ」
「工夫すればするほど、皆が喜んでくれるからですか」

 キンブリーはノートに事細かく記された、人肉の臭みを消す試行錯誤の跡を思い出す。シハナは頷いた。

「うん。それとね、みんなが人の肉だって知らずに食べてるのがおかしいの。本当のこと知ったら、どんな顔するかなって考えると、すごく楽しい」
「そんなに大事な話を、私にしてよかったのですか?」

 キンブリーの目に、灯りが反射してちろちろ揺れた。赤い蝶が羽ばたくように。

「だって、ゾルフジェイキンブリーも私と一緒でしょ?」
「……何がです」
「わかんない」

 シハナは自分の発言の取り留めなさに自分で顔をしかめた。
 あははははは、とキンブリーは笑った。大人の男がそういう風に笑うのを、シハナは初めて見た。それも、きちんとした身形の立派な人が、まるで子供のようにお腹の底から笑うのを見て、シハナは目をぱちくりさせた。

「私が、寂しくて退屈そうに見えますか?」

 問われ、シハナは首をかしげる。

「わかんない」

 キンブリーの目がすっと細められる。口の端が吊り上る。優しい笑み。でもやっぱり少し怖い。

「シハナ」

 名を呼ばれる。

「この街は、退屈ですか」
「うん。何もなかったけど、もっと何もなくなっちゃった」

「両親は?」
「連れてかれちゃった」

「友達は?」
「死んじゃった。残りは街を出て行ったよ」

「私と一緒に来て、もっと楽しいこと、しましょうか?」
「うん、しよう」

 今度はキンブリーが目をぱちくりさせる番だった。

「ほんの少しも悩まないのですね」
「私、ゾルフジェイキンブリーのこと、好きだもの」
「おやおや、会ったばかりの男に、なんてはしたない」
「ゾルフジェイキンブリーも、私のことすきでしょ?」
「ええ、好きですよ、とても」

 シハナはキンブリーの目を覗き込む。たまらなくきれいで、こわくて、つめたい目。
 キンブリーは組んでいた手を、テーブルの上に広げた。その両の掌に入墨があるのに、シハナは初めて気づいた。いれたばかりなのか、線の周りがまだ赤く腫れている。

「それ、なに」
「これは私の秘密です。あとで説明してあげましょう」

 それだけ言うと、キンブリーは外に出て行ってしまった。
 しばらくぼんやりして待っていると、キンブリーは浮浪者のような風体のがりがりに痩せた男を連れて帰ってきた。男はいやらしく目を細めて揉み手する。

「へへ、旦那、いただける仕事ってのは……」

 男はシハナに気付いて目を剥く。

「まさか、子守りですかい」
「ええ、そうですね。そんなようなものです」
「まあ、報酬さえ頂けるなら……」
「報酬は、この店です。商品も、全部、全て」
「……は?」

 男はわけが分からないという顔をしたが、すぐに馬鹿にされたと思ったのか眉を吊り上げた。

「シハナ、来なさい」
「うん」

 呼ばれ、シハナはキンブリーの横に立つ。キンブリーは屈み、両の掌をシハナに向けた。「私の秘密を教えて差し上げましょう」と、耳打ちすると、その掌を合わせる。ぱちん、と、蛍光のような光が散る。それに目を奪われていると、耳をつんざくような音とともに男の足下が爆発する。人のものと思えぬような悲鳴が上がる。男は血まみれでのた打ち回った。

「あああああ……俺の、俺の脚! 脚! 脚!」
「あまりジタバタすると失血死しますよ」

 キンブリーが言うと、男は大人しくなった。ひー、ひー、と荒く息を吐きながら、腹の痛い子供のように体を丸め、しくしくと泣いている。
 シハナは室内をぐるりと見渡した。食器棚の前とテーブルの下に、脚が一本ずつ落ちていた。

「すごいね」

 シハナはキンブリーにこっそりと囁く。

「すみません、貴女の大切な店をこの男に勝手にあげてしまいました」
「いいよ、もういらないから」

 外では犬が吠え、騒ぎを聞きつけた憲兵が集まる気配がする。だが、そんなこと、どうだって良かった。



******

「キレイなチョウチョ?」
「ええ、はずれですか? なんでしょう、花束ですかね」
「ははは、クイズじゃないよ。思った通りに答えればいいから」

 始終和やかにそれは終わった。初老の男がカルテに「異常なし」と書き留めたのを、手の動きから読み取る。

「大丈夫、大変だったね。少し休んだら勉強に戻りなさい」
「ありがとうございます」

 シハナは笑む。上着を着て席を立ち、男に背を向けた途端、その笑みはすうと消えた。