哀れな仔羊にスパイスをひとつまみ





 士官学校の短い休みを縫うようにして帰宅すると、殺風景なはずの狭い玄関に花が飾られ、硝煙と硫黄のにおいばかりがしていた室内からふうと良い香りがした。
 シハナはつい最近まで長らく埃をかぶっていたキッチンに足を向ける。くつくつと湯気をあげる鍋の前に立つ女に声をかけた。

「ただいま帰りました。エドナさん、お久しぶりです」

 そばかすの浮いた顔が、ぱっとこちらを振り向く。あたたかな鳶色の目が、みるみる喜色に満ちた。

「シハナちゃん、早かったわね! ゾルフさんにシハナちゃんが帰ってくるって聞いてね、頑張ってごちそう作ったのよ」

 にこにこと邪気ない笑顔に、シハナは曖昧に笑んで見せた。身寄りのない針子である彼女は、どこで知り合ったのかここ半年ほど義父の恋人であった。あのイカれた義父とよく付き合っていられたものである。もっとも6年の付き合いになる己が言えた義理ではないが。

「エドナさん、父は……」
「奥でお仕事よ」
「そうですか。ありがとうございます」

 エドナは、くるりと鍋に向かう。擦り切れた小花柄のスカートが、ふわりと揺れた。
 シハナは慣れているはずなのにどこか空気の違う部屋の中を、滑るようにキンブリーの研究室へ向かった。
 ドアをノックすると、どうぞと短く返された。右腕が吹き飛んでからこちら、義父の研究室を訪れるのにノックを欠かしたことはない。

「親父殿、ただいま」
「早かったですね」

 キンブリーはかけていた眼鏡の、銀色の細いフレームをつまんでデスクにおいた。

「ひとつ早い馬車に乗りました」
「いけませんね、士官学生たるものこれしきの距離走り抜けるようでないと」

 冗談めかして口元を綻ばせながら、キンブリーが言う。シハナはわざとらしく肩をすくめた。

「不必要なエネルギーの消費はしない主義です」
「口ばかり達者になって。何を学んでいるのやら」

 言いながらキンブリーはデスクの上をざっと片付け、シハナに部屋の隅の大きな箱に腰掛けるように促す。シハナは眉をひそめた。

「爆発しませんか?」
「しませんよ。多分ね」

 片眉をあげて、キンブリーは笑う。

「まだ続いていたのですね」
「何がです? ああ、研究ですか」

 シハナの問いにキンブリーはそう答えた。シハナは茶化すように笑ったが、キンブリーが至極真剣であるのを感じとり、すぐに笑みを引っ込めた。

「エドナさん」
「ああ、そっちでしたか」

 キンブリーの返答はあまりにも気のないものだった。ひどい男だな、と思う。自分ならば絶対に交際はしたくない。恐ろしいまでに他者に興味の無い男であるのだ。人間にあくなき興味を抱き、人間を愛しているけれど、隣のその人には毛ほども関心のない、そういう男である。なぜそれが分かるのか。己もまた、似たようなものであるからだ。先日フラれたばかりの元恋人の顔を思い出そうとするが、ぼうやりとしてよくよく思い出せなかった。

「そうですね。そろそろ私も身を固めた方がいい歳ですから」

 シハナは目を丸くした。

「え、結婚するんですか」
「……なんですか、その顔は。先日プロポーズも済ませましたよ」
「ちなみに、プロポーズの言葉は?」
「そんなこと、どうだっていいでしょう」
「後学のために」
「なんの後学ですか」

 ちぇ、とシハナは唇を尖らせる。すでに三十路も近いキンブリーである。これはこれで良い家の子息なのだ。周囲の圧力は免れまい。なんだか可哀想に思った。義父が、ではない。エドナが、だ。
 苦労のためか歳より少し老けて見える彼女が、陽気な鼻歌とともに揺れる流行おくれな丈のスカートが、温かくて美味しい料理が――どうしてだろう、ひどく哀れだった。こんな気持ちは初めてだった。

「思春期の義娘がいるのに、勝手に決めるなんて、ひどい親父殿ですね」
「おや、相談が必要でしたか」
「……別に」
「何をすねているんです」
「違います。すねてなんていません」

 ふうん、とキンブリーは訳知り顔ににやついた。我が義父ながら腹立たしい顔である。刺青の入った大きな掌が、子供をあやすように頭に乗せられる。シハナはそれを、思わず振り払った。静かな怒りの視線を受けて、キンブリーは低く笑った。シハナはむっとして立ち上がる。何か言いたかったが、何も言葉が出てこなかった。しばし睨みあうと、こんこん、と控えめなノックの音がした。

「ゾルフさん、シハナちゃん、夕食が出来たわよ。冷めないうちに召し上がってちょうだい」

 キンブリーはすっと立ち上がり、シハナの傍らを抜けるとドアを開けた。恋人用の穏やかな笑みが、義娘さえ騙せそうなほど完璧に顔に張り付いている。

「ええ、今行きます。シハナ、準備をしなさい」

 シハナは黙って頷く。エドナの優しい瞳が、とろけるような幸せをたたえてキンブリーを見つめていた。ただその視線の先は紛い物の笑顔で、返される視線はぞっとするほど冷たいのだ。胸のあたりがきゅうとなった。義父からエドナと結婚する、と聞かされたときと同じ感じがした。よくわからない。すごく、いやだった。

 二人用だったダイニングテーブルには、新しい椅子が一脚ふえていた。一つだけ真新しく、一回り小さい。色も違った。シハナは少し迷って、その新しい椅子に座ろうとする。だが、キンブリーがごく当たり前な動作でシハナにいつもの椅子をすすめた。一瞬、シハナはキンブリーと目が合う。逡巡している間に、エドナが仲間外れの椅子に座ってしまった。後ろめたさを感じながら、シハナは席に着く。

「すごく、美味しそうですね」

 それでも、己はそう言って笑うことが出来る。義父そっくりの笑顔で。義父そっくりの口調で。エドナははにかみ、口にあうか分からないけれど、と言った。少女のような、純朴な、愛らしい笑顔だった。

「あのね、シハナちゃん、報告があるの」

 シハナは身を固くする。それをおくびにも出さず、続きを促した。エドナは眉尻を下げ、キンブリーに目配せをする。このタイミングで言うつもりであることも、義父は忘れていたのであろうか。先回りして言われてしまっていては、驚く演技をする手間が増えるではないか。

「ええ、結婚します。祝福してくれますね」

 あっさりとしたキンブリーの言葉に、シハナは殊更驚いて見せた。

「そうですか!」

 シハナは完璧に、完全に、嬉しそうな顔をして見せる。エドナは嬉しさと幸福にほんの少しの安堵を混ぜたような顔で破顔した。目元にくしゃりと皺の寄る、他意のない幸福に満ちた笑顔。

「私も嬉しいです。エドナさんが、家族に、――――」

 言葉が続かなかった。エドナとシハナのやりとりに関心薄そうにスープを口にする義父を見ると、言いかけた言葉は胸のあたりで詰まって出てこなくなった。こめかみのあたりをつうと汗が伝う。

「とても、……とて、も」

 ひゅ、と妙な感じで息を吸った。エドナが心配そうにシハナとキンブリーを順に見る。キンブリーは冬の朝のような冷たい目で、嘲笑うかのようにシハナを見据えた。

「私の義娘ともあろう者が情けない」

 冷水をかけられたかのように脳髄がクリアになる。これしきの嘘も吐き通せないなど情けない。これまで義父の傍らでいったい何を見、学んできたのか。おろおろと視線を移ろわせるばかりのエドナを見て、シハナはふっと笑った。
愚かな女だ。どうしようもなく愚鈍で、鈍感で、危機意識に欠ける。隣にいる狂人に気付くことが出来ない。――――だが、その愚鈍さゆえに、シハナは彼女が好きだった。義父が彼女を思うよりずっと。

「すみません、なんだか、感極まってしまって」

 シハナはテーブル越しにエドナの手を握る。手袋の下の鋼の感触に、エドナが一瞬ぎょっとしたのを感じた。それでも彼女は、あの白痴なまでに純な笑顔で、きゅうとシハナの手を握り返してくる。哀れだと思った。エドナが本当に義父のことを好きなのは知っていた。義父がエドナにさして興味の無いことも。ひどく、哀れだと思った。彼女はこの先、愛した男を理解することが出来ない。どんなことがあっても。


*****


 ザアザアと水の流れる音がやむ。エドナが食卓を片付け終えたのだろう。シハナはのろのろと自室を出る。灯りの漏れるキッチンを覗く。ひっつめられた栗色の髪。調子はずれな鼻歌とともに、後れ毛がふわふわと揺れる。垢抜けない柄のスカートは、彼女の一張羅だった。きっとこの日のために大切に着ていたのだ。

「エドナさん」

 エドナは振り向く。手の水気を拭きながら、シハナを見とめると柔らかに微笑んだ。

「シハナちゃん」
「すみません、片づけを手伝えなくて」
「ううん、いいの。急でびっくりさせちゃったものね」

 エドナの笑顔がふっと曇る。あのね、と言葉を選び慎重に続ける。

「シハナちゃんが反対なら、結婚なんてしたくないの。シハナちゃんにとってゾルフさんは大切なお父さんで、それを横取りするようなつもりは全然なくて……」

 ああ、この女性がもっと嫌な奴なら良かったのに。中途半端に賢しく、ゾルフ・J・キンブリーの妻という地位だけを欲しているような女性ならこんな気持ちにならなかったのに。それならば純粋に結婚を喜んであげられたのに。この人は、どこまでも優しく、愚かで、純粋で、無邪気に義父を愛していて、無垢に義父の愛を信じていて。――本当は、横取りも何も、眼中にすら入っていないのに。義父が彼女を選んだのは、彼女が後ろ盾無く鈍感で底抜けのお人よしだからだ。

「反対なんて、しません」

 エドナは窺うようにシハナを見つめる。鳶色の瞳がまたたく。あ、とエドナは思い出したかのように声をあげた。わざと明るく振る舞っているのはすぐに分かった。

「デザートにプディングを焼いていたの。いっしょに食べましょ? ゾルフさん、食事が終わったらすぐに研究室にひっこんじゃって。だから――」
「ただ、貴女が可哀想だと思います」

 オーブンに向かっていたエドナが、え? と振り向きかけたのを、組んだ両の拳をその後頭部に落とした。ぐしゃ、と懐かしい音がした。肉と、骨の、弾ける音。ぐらりと倒れたエドナの身体を、エドナの手で磨かれたシンクに押し付ける。綺麗に整理された包丁の中から肉切り包丁をとり、頸動脈をさくりと裂いた。鮮血が迸る。それは思う存分シンクを汚し、排水溝に流れ込んでいく。エドナは何が何だかわからないままなのか、しばしその血をかき集めるかのようにもがいたが、か細い針子の抵抗などシハナにとっては物の数にも入らない。みるみるうちに血の気を失った彼女は、ぴくりとも動かなくなった。十分に放血されたそれを、シハナは抱え上げる。悲しいほどに軽いそれは、ぐったりともたれかかってきて重量以上の重さを感じた。
 バスルームに運んだそれを、手早く天井からロープで吊るす。そこまで完全に無心だった。ぶらりとぶら下がるそれと目があって、初めてほっとした。頭を落とし、内臓を取り出し、皮を剥ぎ、肉を冷水でよくよく冷やし、そうすると痩せっぽちだったそれは、もう、いくらの肉も残っていなかった。
 シハナは割れた頭から脳味噌を少しばかり掬い取る。こればかりは新鮮でないと食べられないから、残りは捨てるしかない。零さないようにキッチンに運び、レモン汁を加えた冷水につける。爽やかな香りのする水の中でふわふわと揺れるそれは、思いのほか中身が詰まっていた。その間に血だらけのシンクを軽く流す。昔取った杵柄だ。素人のようにあちこち血だらけにするようなヘマはしていない。
 戸棚を開けるとスパイスの瓶がずらりと並んでいる。昔から肉料理は好きだから、スパイスを切らしたことはない。これを、彼女は知っていただろうか。いくつか吟味して、小麦粉に混ぜ込む。冷水につけられ固くなった脳を取り出し水気をきり、それをまぶした。パン粉はあっただろうか、と棚を探したが、無かったのでそのままソテーする。香ばしい、いい香りがした。
 皿を出すのが面倒だったので、フライパンから直接フォークでそれを取る。かりかりの表面と、とろりと濃厚な内側と、スパイスの香りが絶妙だった。あれほど愚鈍であったのに、なかなか良い味をしている。シハナはすっかり料理と成り果てたそれを、ぼんやりと見下ろした。

「私は今日からどこでシャワーを浴びればいいんですか」

 急に声をかけられ、シハナはびくりと震える。溜め息交じりにキッチンへ入ってきたキンブリーに、おずおずと顔を向ける。さすがに叱責されるかと身構えたが、キンブリーはフライパンの中を見て、呆れたように肩をすくめるだけだった。シハナの向かいに座り、テーブルに肘をついた。
 シハナは無言で目を伏せる。叱られなくてほっとした。同時に、少しも心動かされる様子のない義父に腹が立った。

「怒らないんですか」
「怒ってほしいのですか」

 シハナはしばし考えて、首を横に振った。

「では怒りませんよ。私だって少しは反省しています」

 キンブリーは言う。シハナは訝しげにキンブリーを見つめた。

「貴女も納得づくだと思ったのですが、やはり年頃の貴女の心情も慮ってしかるべきでした」
「どういう意味です?」
「無用なやきもちを妬かせてしまいました」
「やきもち?」

 シハナは眉をひそめる。違う。そうではない。そんなものではない。

「……違いますよ」
「そうですか?」
「全然違います」
「では、なぜ?」
「全然、全く、違います。自意識過剰です。親父殿は案外あほですね」
「……そこまで言いますか」

 シハナはもう一口彼女のソテーを食べる。上手く言葉にするのは難しかった。

「可哀想だったから」
「可哀想? 何がです? 貧しく身寄りのない彼女にとって、私との結婚は身に余る幸運だったでしょうに」
「親父殿、エドナさんは、多分、心の底から親父殿のことが好きだったんですよ」

 キンブリーは口を閉じる。

「でもエドナさんは、私達みたいにはなれないから。親父殿のことを好きなのに、親父殿のことを理解できなくて、親父殿はちっともエドナさんのことを好きじゃなくて、だから、とても、可哀想だと思いました」
「それは、殺されて未来の義娘に料理されるより可哀想なのですか?」

 シハナは首を振る。ちがう。親父殿はなにも分かってない。そんなだから恋人たちに逃げられるのだ。

「唯一親父殿を理解していて、親父殿が唯一愛している私になれたら、彼女も喜ぶと思いました」
「そうですか、それで、彼女は喜んでいましたか」
「さあ、もう何もしゃべらないですから」
「そうでしょうね」

 キンブリーは面白そうに笑い、席を立った。

「ああ、バスルームのあれ、帰るまでになんとかしてくださいね」

 シハナは、はいと返事をして、最後の一切れを口にいれた。擦り切れたスカートの裾が脳裏でひらめいたが、その持ち主の顔は、どうしても思い出せなかった。