瘋癲初恋





 覚えているのは、己を呼びに来たシハナの声と、ごく小さな破裂音と、宙に弧を描いて飛ぶ細く幼い腕と、必死にシハナの名を呼び血だらけの小さな体を抱きすくめる己を「自分らしくもない」と冷静に思案したことだけだった。
 死の恐怖というものを、身も凍るような実感として捉えたのは初めてであった。キンブリーにとって死はただ死でしかなく、生命活動が停止する以上の意味を持ちえなかった。己の臨死ですら、生物としてのシステムの一環でしかなかった。或いは、ゲームでチップをとられる感覚にも似ていた。悔しいし、惜しいし、取られたくないが、それでも相手のゲームの手腕に感服せざるをえない。そういう感覚だ。
 だがそれは確かに、産まれて初めてさらされた、喪失の恐怖であった。

 右腕を失ったシハナは怪我のショックから立ち直ると、それ以上に激しく落胆した。ゾルフと一緒に軍人になりたかったのに! と、珍しく年相応の子供らしく泣きわめき、駄々をこね、怒り、落ち込んだ。食事もろくにとらず塞ぎ込む有り様で、シハナを実娘さながら可愛がっていた両親はキンブリーに対し烈火のごとく怒り叱責し――子供の時分でさえ、こうも怒られたことはない―― 勘当するのしないのと大騒ぎになったが、今はシハナにかかりきりで実子の自分は放って置かれている。
 キンブリーはシハナの部屋のドアをノックする。返事はないが、ドアを開けた。直接話すのは、恥ずかしながら、シハナが退院して初めてであった。事故の原因である己が顔を出していいものか迷ったし、何より、合わせる顔が無かった。

 淡いクリーム色のシーツがかかったベッドには、大小様々なぬいぐるみや人形が置かれ、枕元には新しい本が山になっている。花瓶にはシハナの好きな花がどっさり活けられ、窓の外にはウサギやキリンの形に剪定された庭木が見えた。両親が少しでもシハナを慰めようとあれこれ手配したものだった。ただ、当のシハナはその中に埋もれ、目の周りを真っ赤に腫らし、キンブリーの姿を見とめた途端ぷいと顔をそむけた。

「シハナ」
 
 声をかけると、シハナは左腕でシーツをたぐりよせ、頭まで被ってしまう。

「シハナ、また食事を残したのですね。父も母も心配していますよ」

 返事はない。キンブリーはシハナのベッドに腰掛ける。子供用の低いそれが、ぎ、と軋んだ。小さなシーツの膨らみが、かすかに震えている。しゃくりあげるのを我慢する声が聞こえた。


 己が異端だと自覚したのがいつだったか、キンブリーは覚えていない。物心ついたときには、他人と己がどこか違うのを薄々感じていた。良心らしい良心を己の中に見出せず、ただ規範となるのは到底理解の得られぬ美学にも似た何かだけであった。それが周囲に受け入れられぬということは、何故かそのうち会得していた。それを隠す方法も。
 人間が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。面白い。だがそれはどうしても興味の域を出ないのだ。キンブリーにとって興味の対象を壊すのは、子供が蟻の巣を興味深く観察し、戯れに崩すのとなんら変わらない。
 行列を作り餌を運ぶ蟻を面白く思うのと同時に、崩落する天に逃げ惑う蟻を笑うのと、よく似ている。キンブリーにとって他者とは、自身でさえも、そういうものでしかなかった。人間の命というものに21g以上の重さを見出せなかったがゆえに、人間はその些末な生涯を信念のもとに劇しく生きるべきだと思ったのだ。

 10代の頃は、そういう己の精神状態に深い興味を抱いたこともあった。書棚には名だたる精神医学や犯罪心理学の書籍や、果ては胡散臭いオカルト本まで並んでいたが、今ではすっかり埃をかぶっている。そういうものに己のような人間は載っていないと気付いたからだ。過去に根深いトラウマがあるわけでも、したたる血に性的な興奮を覚えるわけでもない。尊大で虚偽的でも、衝動的で無責任でも、感情が欠落しているのでもない。ただ、面白いのだ。それだけだ。それがどういうことなのかは終ぞ分からなかった。
 それを寂しくも思った。両親に愛され、友人に恵まれ、恋人もいたが、キンブリーはいつでも孤独であった。いっそ、それを憂う情緒も壊れていたらいいのに、と思った。だが、幸か不幸か、キンブリーはその悪癖以外は、至極まっとうに人間であった。

「……シハナ」

 もう一度、名を呼ぶ。花柄の刺繍の施されたベッドカバーは、母の手作りであった。両親はシハナを実子以上に、まるで孫のように可愛がっていた。それでもシハナは軍務で留守がちな己に一番懐いていた。共犯者として、共有者として、父親として。
 両親がシハナを自分たち夫婦の養子にしたがっているのは知っていた。未婚の、まだ若いキンブリーが義父では、キンブリーにとってもシハナにとっても不都合が多い。しかしシハナはそれとなく誘導されても、頑として両親をパパママとは呼ばなかった。その頑固さを、キンブリーは愛しく思うのだ。それはキンブリーが初めて感じた、人間への情愛であるかもしれない。

「ぞ、ぞるふ、はっ……」

 途切れ途切れに、小さなシーツの膨らみは震える声で言う。ひどく弱々しい声だった。当然だろう。小さな体に大き過ぎる怪我、手術。食事すらまともにとらないようでは、治るものも治らない。

「なんです?」

 キンブリーはゆるゆると震えるふくらみを撫でた。自分らしくもない。

「ゾルフは、し、心配、してくれ、ないんですか?」

 キンブリーは、目を丸くした。それから溜息をつき、シーツごとシハナを抱き上げた。ひゃ、とシハナは短く悲鳴をあげる。膝の内に座らせ腕を回すと、シハナは泣いていたのも忘れたかのように唖然として、キンブリーの顔をぽかんと見上げた。

「母がケーキを焼いたので、持ってきました。どれがいいですか?」

 有無をいわせず、サイドテーブルの盆を示す。小さなカップケーキが3つ。食欲のないシハナの興味をひくために、ハートや星やきらきらしたものが、これでもかというほどにデコレーションされている。シハナは勢いにおされるように、おずおずとクリームとハチミツののったカップケーキを指さした。黄色い星とバラを模したチョコレートが、ケーキの形が分からなくなるほど乗っている。
 キンブリーはそれをシハナの口元に運んだ。体ごと抱きしめた左腕がもそもそと動いたが黙殺する。シハナは鳥の雛のようにケーキに口をつけた。のせすぎたクリームがこぼれ、キンブリーの手をべたつかせる。

 キンブリーはシハナの柔らかな髪に頬をよせた。この小さな頭の中に、自分と同じ種類の脳味噌が入っていると思うと不思議であった。

 キンブリーにとってシハナは理解者であり、そしておそらくは最初で最後の同属であった。辺境の、なんでもない肉屋の娘が、一切の呵責なく大人を殺し、無辜の民衆に食わせ、キンブリーに大人ぶった子供らしい表情で「秘密だよ」と囁き教えてくれたのだ。楽しい、と。何にも代えがたく面白いのだ、と。だが同じ口で、泥棒じゃないから死体の懐を漁るような真似はしない、とも言った。周辺では裕福な家庭に産まれ、末妹として可愛がられ、憂いなく、健やかに育っていたが、シハナとキンブリーは同じであった。
 情けないことに、己は10歳の少女の存在に救われたのだ。
 この世に神がいるのなら、己のような生き物が生まれたのはなんらかのエラーかもしれない。だが、それが自分だけではないと知ったとき、こういう生き物も世界には必要なのだろうと納得した。

 シハナが小さなカップケーキを長い時間をかけて食べ終えると、キンブリーは手に残ったクリームとカスを舐めとる。痛いほどに甘かった。子供が落ち込んだ日の母のケーキはいつもそうだった、と、ふとノスタルジーにとらわれる。

「心配しないわけがないでしょう」

 キンブリーが言うと、シハナは黙って頷いた。痩せて一回り小さくなった肩周り、右腕は肘から下が無い。さしもの自分も胸がいたんだ。

「きちんと食べて体力を回復しないと、機械鎧の手術に耐えられませんよ」

 本当は、これを伝えるのはもっと後のつもりであったのだが。
 それを聞いた途端、シハナの体はキンブリーの腕の中で跳ね上がった。小さな頭がキンブリーの顎をうつ。少し、痛かった。

「機械鎧! 機械鎧をつけるの!?」
「ええ、今の技術はすごいですね。ほとんど生身と変わらない動きだそうですよ」
「でも、高いって……」
「父がこの屋敷をぬいぐるみだらけにするよりはずっと安い」

 シハナは言葉を忘れてしまったかのようにしばらく口を開けたり閉じたりしていた。青ざめていた頬は紅潮し、灰色の瞳はこれ以上なく見開かれる。玩具を前にした子供そのものの顔だった。

「軍人になれる?」
「当然です。もとは軍用の技術ですから」
「ゾルフと?」
「一緒に楽しいことをする、と。約束したでしょう?」

 キンブリーはささやく。初めてシハナの小さな手をとった夜と同じように。
 シハナはばね仕掛けのようにキンブリーの腕の中を飛び出し、残った2つのケーキを次々口に放り込んだ。見ているだけで胸焼けしそうだ。ほとんど噛まずにそれを飲み込むと、そのまま部屋から飛び出そうとする。キンブリーは慌ててそれを制止した。

「シハナ、どこに行くんです?」
「ごはんです。昨日も一昨日も少ししか食べてないので、6回分食べればすぐ手術できますか?」

 なんとも子供らしい理屈である。年齢の割に、落ち着いて大人びた子だと思っていたのだが。ごはん!ごはん! と呟きながらドアに体当たりするようにして出て行くシハナを見送り、キンブリーは苦笑する。
 シハナが軍人になりたいという度に眉をひそめていた両親であるから、手術の負担が大きい機械鎧にも良い顔はしないだろうが、あれほど喜ぶシハナを前にしては駄目とは言えないだろう。シハナが落として行ったクマのぬいぐるみを床から拾い上げ、ベッドの上にぽいと投げた。もう用無しのそれは、黒いボタンの目をキンブリーに向けただけだった。