癲狂失恋





 覚えているのは、吃驚と憎悪に満ちたイシュヴァールの民の顔と、足元で炸裂する眩い赤の光と、崩れゆく土くれと、焼け付く痛みとともに皮膚が泡立ち溶けるのを感じながら「親父殿、失敗しやがったな」と冷静に思案したことだけだった。

 目覚め、最初に知ったのは終戦だった。そうして、己の四肢が吹き飛んだことも。それをシハナに伝えたマルコ―医師は、見た目だけなら初老にさえ見えた。おそらくは、もう少し若いのだろう。苦悩と疲労が深く皺とともに刻まれた頬につうと涙を流していた。
 マルコ―医師は、すまない、と言った。シハナは、そんなことはない、と返そうとした。一度、掌から零してしまった命を、四肢と引き換えとはいえ拾ってくれたのだ。命が惜しいと思ってはいないが、幸運には変わりない。
 マルコ―医師は、こんな若い娘まで、とも言った。シハナは、そんなんじゃない、と返そうとした。私は何も知らない、可哀想な小娘なんかじゃない。誰に理解されずとも、私はいつだって自分の意志で戦ってきた。この世の地獄と言われたイシュヴァールに身を投じたのも、義父の実験に体を貸したのも、全部自分で決めた。自分のために。漫然と退屈な人生を送るくらいなら、ぱっと花火のように散った方がいい。
 けれど、一度焼けた喉では、上手く声が出なかった。

 義父の凶行を知ったのは、二度目の――そして三度目はあり得ない――幻肢痛に悩まされ始めた頃だった。ショックが大きいだろうと隠匿されていたらしい。おかしいとは思っていた。あれでまめな義父である。見舞いに来ない筈がない。己の仕事によって義娘がどんな傷を負ったのか、確認しに来ない筈がないのだ。
 それを知らされたシハナは、一番はじめに名を変えた。ミドルネームに、ゾルフ、と。二度と会えぬかもしれない、と聞いたから。義父の父母も、親類姻戚への悪影響を鑑みて義父を勘当したという。優しく、息子を深く愛していた二人であったから、断腸の思いであっただろう。だが優しく善良であったからこそ、迷惑を顧みず息子を擁護することも出来なかったのだろう。

 なんだか、親父殿が消えてしまう気がした。それは、いやだった。せめて、誰の迷惑も考える必要のない己だけは、義父と少しでも繋がっていたかった。私は自分で思っていた以上に親父殿が好きだったのだな、と、少し笑ってしまった。
 だから、義娘にさえ何一つ相談せず行ったそれを、義父らしいとは思ったが、それでも少しだけ寂しかった。上官が残らず吹き飛んだと聞いたときは面白かったけれど、やっぱり仲間にいれてほしかった。偉そうにふんぞり返る爺どもは、どういう顔をして吹き飛んだのか。想像するだけで面白いけど、見た方がずっと面白かったはずだ。そういう面白いことは、なんでも共有してきたのに。


 シハナは目を開ける。白い天井、白い壁、白い床、白いシーツ、白いカーテン。ラジオからはイシュヴァール殲滅を称揚する軍歌が流れている。寝返りひとつ打つにも一苦労のこの体では、ラジオをチューニングすることもかなわない。東部で“治療”を受けた後、シハナは中央の傷兵保護院に送られた。重度の身体障害を負った兵士の棟に収容されたため、個室で手厚い介護を受けられた。もっとも、シハナは怪我の割に大人しく、わがままも言わず、介護人に当たり散らすことも、夜中に絶叫して行進することもなく、優良な患者であったため、介護人が他の患者に右往左往している間はおおむね放っておかれた。
 ちょうどよかった。シハナはただ白い、小さな、しかし今のシハナにとってはあまりに広すぎるその部屋で、色々なことを考えた。義父のこと、義父の両親のこと、同期たちのこと、この国のこと、自分のこと、これからのこと。それから、時折、死にゆくイシュヴァール人の表情を反芻し、シハナの時間は溶けるように過ぎて行った。

 こん、こん、とドアがノックされる。決まった時間以外にそのドアが叩かれることは珍しかった。

「シハナさん、お客様よ」

 顔なじみになった看護師が、そう言って抑えた笑みを浮かべた。まるで「この人の前では楽しいことなど何一つ無い顔をせねばならぬ」と言いたげな彼女の表情が、シハナは嫌いだった。
 はあ、とシハナは気のない返事をしたが、開けられたドアから見えた客人の姿にほんの少しだけ驚いた。

「……ギル」

 久しぶりに会う恋人に、どういう顔をすればいいのか一瞬忘れてしまった。ギルは黙ってシハナのベッドの脇まで近付いてくると、小さすぎるベッドの膨らみを見て、ぎゅうと眉根に皺をよせた。
 一人目の恋人は、あまりにも興味が湧かなくて放っておいていたら、知らぬ間に他の女の子と付き合っていた。二人目の恋人は、訓練で腕を折って振られてしまった。三人目のギルバート・メッサーは、中央から東部へ派遣された軍属の技師で、うるさくないのが気に入っていたし、それなりに長いこと上手くやっている。高品質の機械鎧をほぼ原価で作ってもらえるという打算が全くないと言えば嘘になるが。
 ただ、今の今まで意識の外であった。愛していないわけではない。だが、その天才的な設計と緻密な金属加工の技術以外に、人並み以上に興味を持つことはできなかった。どうしてこうなってしまったのか、とシハナは心中ため息をつく。かつて、恋人を無下に扱う義父に、言いようのない憤りを覚えたこともあったはずだけれど。

「……ばかやろう」

 やっと、ギルバートはそれだけ言った。シハナは苦笑する。

「そうですか?」
「ほんとに、ばかだ。終戦間際に、こんな……」

 そこまで言うと、ギルは顔を伏せて枕元の椅子に座った。泣いているのかな、とシハナは彼の顔を覗き込んでみる。ギルバートはただ虚ろな顔で、シーツを眺めていた。

「ギル、お願いがあるんですけど」

 この恋人の存在を加味すれば、シハナの展望は大きく広がる。或いは、以前以上に。シハナは殊勝な様子でそう切り出した。

「どうしたの、水? カーテンを閉める?」
「いいえ、機械鎧を作ってほしいのです」

 ギルはくっと目を大きくしたが、静かに頷いた。

「いずれ、四肢に装着しても体に負担のないものを、必ず」
「いいえ、前のと同じ物がいいのです」
「あれは駄目だよ。四肢につけては将来必ず体を壊してしまう。それに、シハナにはもう軍用機械鎧は必要ないだろう?」
「どうして?」

 どうして、と、心から驚いた様子で問い返すシハナに、ギルバートの方が驚いた。

「だって、その体じゃ……」
「だから、機械鎧が必要なんです」

 シハナは内乱の功労者として二階級特進させられていた。名誉軍人として退役はさせられなかったが、事実上、死んだも同然という意味だ。少なくとも、シハナはそう思っている。

 ギルは深く息を吸った。内乱が終わったら、言おうと練習していたセリフを絞り出すように口にした。

「シハナ、結婚しよう。機械鎧は必ず作る。僕が作れる最高のものを作ってあげる。だから退役して、もう戦場には出ないでほしい。僕は、傷つく君が見たくない」

 ギルの言葉に、シハナはふと笑った。弱々しいが、心から面白いと言いたげに。嘲るように。

「結婚? 私が、あなたと?」

 言ってから、シハナは、ああしまったと思った。義父がいればまっさきに咎められるような物言いだ。だが、箍を失った今、どうにでもなれという気持ちがないことはない。
 ギルは、愛していた恋人が何か別の生き物に変わってしまったかのような顔をした。そういう顔をさせられるということは、己の芝居も板についてきたということだろう。
 青ざめた恋人の顔を眺める。

「……わかった。機械鎧は作る。でも、もうこれきりだ。申し訳ないけど、付き合っていられない」

 あ、振られた。と、シハナはあっさりと事態を受け止めた。惜しいとは思っている。彼は本気で自分のことを愛してくれていたし、不具となった自分と添い遂げるとまで言ってくれた。その手をとるのも良策だろう。義父のしがらみを捨て、軍を去り、軍属技師の妻として、ゆっくりとその一生を終えるのも、悪くない人生なのだろう。
 だが、シハナにそれはどうしても無理だった。そんな面白味のない人生ならば、投げ捨てた方がマシだ。些末ながらも生きているからには、もっと面白いことをしなければならない。見るべきものが、やるべきことが、あるはずであった。それをせずに死ぬならば、今死ぬのと何も変わらない。もっと鮮烈に生きたいのだ。脳裏を義父の爆炎がよぎった。いけない、だいぶ、影響されているのではないか。
 席を立ち、ドアに向かっていたギルは、ふと立ち止まり振り返る。

「聞いたよ。シハナの、お父さんのこと」
「ああ、そうですか」
「……残念だったね」
「そうですね」

 冷たい返答に、ギルは悲しそうな顔を隠そうともしなかった。だが、いかに恋人――数十秒前を以て、元恋人か――とはいえ、己の心中を推し量ろうとするのは許しがたかった。
 義父が投獄されて残念だ、と。それは少なくとも、ギルバートが決めることではない。

「ねえ」
「どうしました?」
「シハナは、お父さんと、僕と、戦場と、どれを一番愛していた?」

 く、とシハナは笑った。

「ギルバート、まだ傷つき足りないんですか?」

 冷ややかな声に、ギルは何も言わなかった。静かに閉じられるドアを眺めながら、シハナはラジオから流れる歌謡曲に合わせながら鼻歌を歌う。誰が歌っているのか、なんという曲なのかは知らないが、目覚めて以降、頻繁に聞く曲であった。
 シハナは思索の海に沈みながら、候補の一つであった機械鎧手術を、最優先の事項にリストアップした。