いぬのちゅうぎ



 逞しい鹿毛馬の背に揺られながら、パルヴィンはエラムの後ろ姿を盗み見た。少年らしい肉の薄い肩に、強張った刺々しい雰囲気がまとわりついている。視線は、常らしくなく困り顔のナルサスと、彼に慕わしげな視線を送るアルフリードから、わざとらしいほどに反らされている。
 はあ、とパルヴィンは誰にも聞こえぬような小さな溜息をついた。気持ちは分からないでもないが、あれはまずいだろうに、とパルヴィンは思う。現に繊細な神経のアルスラーンは、ちらちらと気遣わしげな視線をエラムの方に向けている。他の従者は各々、鈍感な者、何を考えているかわからない者、それどころではない者で、今のところエラムを気遣っているのは、アルスラーンとパルヴィンだけであった。

 ナルサスが休憩を指示し、それぞれが下馬する。常ならばエラムが真っ先にナルサスの乗馬の轡を取りに行くのだが、エラムはアルフリードがその役を代わるのを見もせず、己の乗馬の汗をふいていた。
 余計なお世話かもしれぬ、とパルヴィンは逡巡する。ナルサスとエラムの問題である。だが、これ以上アルスラーンにいらぬ心労をかけるのも問題であろうし、同じ立場の大人として、教え導くのも己の役目であろう。
 意を決し、パルヴィンはこっそりとエラムを手招いた。エラムは一瞬、虚を突かれたかのように黒い瞳を丸くしたが、素直に歩み寄ってくれた。

「気にいらないか」

 何を、とは言わぬ。エラムは顔を強張らせた。パルヴィンは苦笑する。

「そうだなあ、気持ちは分からなくもないよ」

 叱られた子供のような顔を、エラムはした。仕方がないだろう。まだ13だ。その辺の青草をむしって、馬に食ませながら、パルヴィンは続ける。

「誠心誠意お仕えしていた相手だからこそ、裏切られたような気持ちになるよなあ」

 エラムは眉尻を下げた。

「分かっているのです。こんな気持ちになってはいけないことぐらい。ナルサス様は御主人で、おれは私心なくお仕えしなきゃいけないのに」
「うん、でも、エラムは人間だから、心があるよ」
「そうですけれど……」

 エラムはちらりとパルヴィンの微笑み顔を見返した。

「そのうち、気にならなくなるさ。ほら、彼女はエラムとナルサス様にとって初めての闖入者だから、過敏になっているんだよ。いずれ、ナルサス様にとってエラムが掛け替えのない存在であるということが、エラムにもわかる。或いは、本当はもう分かっているのかな?」

 いたずらっぽく、パルヴィンは言った。からかわれたとむっとするよりも、ささやかな自負を刺激され、エラムははにかんでうつむく。年頃の子らしいその仕草に、パルヴィンは薄く笑った。己にもこういう時分が――いや、無かったが、微笑ましいことには変わりない。

「我が主殿を見てみろ、アルスラーン殿下にべったりじゃないか」

 パルヴィンは演技がかった溜息交じりに黒馬の方へ目を向けた。エラムも倣ってそちらを見、ああ、と何とも言えない声で呻く。甲斐甲斐しくアルスラーンの世話を焼くダリューンの姿を見ると、自分の御主人の周囲に少女がうろついていることなぞ、なんでもない問題に思えた。

「……すみません」

 思わず口からそう零れる。パルヴィンは意表を突かれた顔をして、首を傾げた。

「何が」
「いえ……なんでもありません」

 エラムはパルヴィンの馬の鼻面を撫でる。

「でも、パルヴィン様は女性ですから」
「様はよしてよ、薄気味悪い」
「パルヴィン、は、女性ですから」
「そうだね、それで?」

 心の底から不思議そうにパルヴィンは言った。そういう顔をされると、エラムの方こそ困ってしまう。

「パルヴィンは、ダリューン様とは恋仲ではないですか」

 パルヴィンは刹那の間、穴のように底の知れぬ瞳を、言い難い視線で以てエラムに向けた。エラムははっとして竦みあがるが、一度まばたきする頃には、その瞳は困ったように細められているだけである。

「違うよ。誰がそんな与太話を君に吹き込んだ」
「いえ、誰というわけでは……」

 そうとしか見えぬというだけなのだが。パルヴィンは家鴨の仔のようにダリューンの後をついてまわるし、何事よりもダリューンが大切だと公言して憚らない。ダリューンはダリューンで、おそらくアルスラーンの次くらいにパルヴィンを気にかけているようであった。
 そのままそう言うと、パルヴィンは顔をしかめた。

「そりゃあ、あれだよ……エラム、犬を飼ったことはあるか」
「いいえ」
「忠義ある獣だから、存外に懐くし、情がわけば愛しくもなる」

 皮肉っぽく唇を引き上げるパルヴィンの顔を、エラムはまじまじと見た。

「パルヴィンは犬ではないでしょう」
「似たようなものだという話だよ」

 笑い、パルヴィンは手拭を片手に、この話は仕舞いだとばかりにそれを振る。

「どれ、飼い主様の手でも舐めに行こうか」