我が君、



 たまに私はパルヴィンが羨ましくなるんだ、とふとした調子で呟くアルスラーンに、エラムは何と答えたらいいか分からなかった。何事も言いかねるエラムに、アルスラーンはすまないと言って肩をすくめた。

「なんでもない、多分、少しだけ不安なんだ」

 父と反目し、母と不仲で、己の出生すら定かではないという現状は、皇太子という地位すら奪われかけているただの十四の少年の肩には重すぎた。触れれば崩れそうな痛々しい笑みに、エラムはたまらない気持になる。その心情は想像することしかできない。安易な慰めなどアルスラーンは求めていないことを、エラムは知っていた。一つ年下の自分より華奢にさえ見える、アルスラーンの両肩をエラムは見つめる。

「パルヴィンも以前、そう申しておりました」

 そう言うと、アルスラーンは澄んだ紺青の瞳を丸くした。

「パルヴィンが、私を羨ましいと?」

 エラムは黙って頷いた。アルスラーンは、ぎこちなく笑んで見せる。

「そうだね、私はパルヴィンのダリューンを奪ってしまったもの」

 アルスラーンにとってダリューンは、掛け替えのない臣下であると同時にナルサスと共に未熟な己を導いてくれる師であった。しかし家族の縁が薄いアルスラーンにとって、ダリューンはいつしか父か兄のようにも思えるほど大切な人間になっていたのだ。
 二人の立つ石造りの露台に弱い風が吹いて、アルスラーンの淡い色の髪が揺れた。何か言おうとエラムは口を開くが、言葉が見つからない。

「でも、ダリューンがパルヴィンを家族のように大切にしているのを見ると、とても羨ましくなるよ。私はダリューンを兄のように慕っているけれど、ダリューンにとって私は皇太子でしかないのだから」
「そんなことは――!」

 反駁しかけたエラムを、アルスラーンは静かに首を振って制止した。

「すまない、少し一人にしてほしい」

 それを聞いてもエラムは何か言いたげな顔をしたが、やがて黙って建物の中へ戻っていった。その後ろ姿を見送り、アルスラーンはひんやりとした石の手すりにもたれかかる。エラムを傷付けたかもしれない。そんなつもりは、無かったのだけれど。
 本当は知っているのだ。ダリューンが義務的な臣下の主君に対する忠誠∴ネ上に自分を思いやってくれていることを。それでも、他愛のない冗談でじゃれあい、ダリューンに甘えるパルヴィンや、パルヴィンを叱り飛ばすダリューンを見ると、自分には得難い物のように感じて胸のあたりがぎゅうとなった。深い隔たりを、見せられたような気がした。

 ほう、とかそけく息を吐く。すると、その吐息のせいではなく、露台に木陰を落としていた木立が揺れた。猿か、大きな栗鼠だろうかと生い茂る葉の間に目を凝らすと、腕輪をはめた人間の腕がぬっと現れて木の枝を掴む。わ、と思わず一歩後ずさるアルスラーンは、木の葉の間の気まずそうなパルヴィンと目があった。

「申し訳ありません、立ち聞きするつもりはなかったのです」
「パルヴィン!?」

 ここは二階だぞ! と悲鳴をあげる。目のくらむほどの高さではないが、手を滑らせたら骨の一本や二本は折れてしまうだろう。
 パルヴィンは焦って唇の前に指をたてた。

「アルスラーン殿下、お静かに願います」

その指を、無言で向かいの部屋に向ける。ジャスワントの部屋だ。パルヴィンがここで何をしているのかぴんときたアルスラーンは、やれやれと眉尻を下げた。

「また何か悪戯をしたのか?」
「ジャスワントの部屋に、着物を着せたクッションを吊るしたのです」
「……そうか」

 壮観だろうなあ、とアルスラーンが言うと、パルヴィンは声をひそめて笑った。

「ジャスワントは、パルス語の悪罵ばかり上達していく」

 呆れ気味なアルスラーンに、パルヴィンは「なあに、これで他の者にやりこめられて悔しい思いをすることも無いでしょう」と嘯く。
 丁度よくジャスワントが部屋に帰ってきたのが窓から見えた。人型のそれが天井からぶら下がっているのを見つけ、うお、と短く声をあげるのが聞こえる。パルヴィンはすっと木の葉の間に隠れた。ジャスワントは大股で窓に近づくと、桟に手をかけ、このところある特定の語彙に特化しつつあるパルス語で叫んだ。

「パルヴィン! そこにいるのは分かっているぞ! 覚えていろよ、この小悪党め!」

 それを聞いたパルヴィンはうひひと子供のように笑った。ジャスワントは足音も高く部屋を出ていく。パルヴィンの楽しそうに細められた目が、アルスラーンを見た。

「僭越ながら殿下、私は本当に殿下を羨ましいと思っているのです」

 笑んだまま呟かれた言葉に、アルスラーンははっとした。空より青いパルヴィンの目が、まっすぐにアルスラーンを見ていた。

「お言葉ながら、我が主はアルスラーン殿下御自身に心からの忠誠を誓っております。皇太子としての殿下の御立場を最大限尊重し、それでも殿下の御心に寄り添えるよう努めております。無礼を承知で申し上げます。どうか、そのようなお言葉が我が主の耳に入ることなきよう」

 ダリューンにとって己は皇太子でしかない、などという八つ当たりめいた戯言を聞かれていたと知り、アルスラーンは恥じ入った。

「すまない、勿論、あのような言葉は本心ではない。ダリューンは私にとって過ぎた臣下だ」

 アルスラーンが弁明すると、パルヴィンは首を振った。

「出過ぎたことを申し上げます。御処分は何なりと。――――殿下は、我が主が心を砕くに値すると認めた君主でございます。そのような弱気なことをおっしゃいますな。そうでなければ私の立場もない。パルス一の勇将の主と、堂々となさいませ」

 アルスラーンは呆気にとられた。愛嬌に満ち、悪戯好きの、ダリューンに子供のようにあしらわれるパルヴィンではなく、実直で誇り高い武人としてのパルヴィンを、アルスラーンは初めて見た。

 ああ、そうか、こうして己を卑下することは尽力してくれる仲間に失礼なのだ、と、アルスラーンの柔軟な心は、部下の部下という立場のパルヴィンの諫言を素直に受け容れた。アルスラーンは神妙にうなずき、柔らかく笑む。

「そうだな。私はダリューンの忠義に報いることが出来るよう、精一杯努力することを誓おう。パルヴィン、おまえが証人になってくれるかい?」

 パルヴィンは面食らった顔をしたが、すぐにいつものように笑った。

「勿論です、殿下」
「もし、その誓いが果たされていないと思ったら、すぐに私を叱っておくれ」
「お約束いたしましょう」

 パルヴィンはほっとした表情をし「きっと、ダリューン様は殿下のそういうところをお慕いしているのですね」と呟いた。あたりに人のいないことを確認すると、ひょいと身軽に露台に降り立つ。
 アルスラーンは、猫のような動作を見て感嘆した。これなら、枝から落ちても上手いこと着地できそうだ。

「パルヴィンは、本当にダリューンのことが好きなのだね。罰を覚悟で私に物を言うほど」

 パルヴィンはすぐに頷いた。

「はい。ダリューン様がアルスラーン殿下をお慕い申し上げるのと同様に、私もダリューン様を慕っておるのです」
「ダリューンとパルヴィンは本当に仲がいい。まるで本物の兄妹のように」

 アルスラーンは良かれと思ってそう言ったが、パルヴィンは苦々しい表情をした。

「私はダリューン様をお守りするのが役目なのに、ダリューン様はこの国の誰より強いうえ、私のことをまるきり子供扱いするのです。こんな屈辱はありません」

 アルスラーンは苦笑する。

「私は家族に縁が薄いから、子供扱いされているパルヴィンが羨ましいかのかもしれないね。兄や姉がいたらこんなだろうか、とたまに思うよ」

 パルヴィンは一瞬悲しそうな顔をした。それから、手すりに乗せた自分の手の甲をちらと見ると、ゆるゆると首を横に振る。

「私も肉親には恵まれませんでした。ですが、もし父や兄が私を慈しんでくれたら、ダリューン様のようであったのだろうかと思うことはあります」
「そうだったのか。パルヴィンの槍は父譲りと聞いていたが」
「父には嫌われていました。せっかく武芸の才に恵まれた子供を授かったのに、それが女だったから。母はぼんやりとした私を疎んじていましたし、姉達もそれに倣って私を馬鹿にしていました」
「……そうか。すまない、立ち入ったことを聞いてしまった」

 心から申し訳なさそうに許しを請うアルスラーンに、パルヴィンの方が慌てた。

「いえ、でも、私にはダリューン様がおりましたし! そのせいでダリューン様がいつまでも私に対して過保護なのは困りものなのですが!」

 子供のように両手を大きく振るパルヴィンに、アルスラーンは噴き出した。恥ずかしそうに手を下ろす姿にも、思わず笑ってしまう。

「そうだな、私には、ダリューンもパルヴィンもいる」
「うふふ、皇太子殿下に姉のようと言っていただけるとは恐れ多い」
「うーん、どちらかというと、パルヴィンは妹だ」
「え!?」
「だって、パルヴィンはあまり姉という感じがしない」

 パルヴィンは肉をとりあげられた犬のような顔をして、アルスラーンをすがるように見た。アルスラーンは、さすがにこの物言いは酷かったかと言葉を探す。

「ああ、ええと、妹というのは嘘だ。……仕方ない姉、とか」
「…………ありがたき幸せ」

 そう言ったきり、しばらく真顔で見つめあい、二人同時に声をあげて笑った。涙を浮かべて身をよじりながら、アルスラーンはこんなに笑ったのは何時ぶりだろうと思った。
 笑いすぎてひいひいと喘鳴するパルヴィンの肩を、浅黒い手ががっちりと掴んだ。

「ずいぶんと楽しそうだな。ん?」

 耳元で囁かれ、パルヴィンはうひゃあと跳ね上がる。ぱっと振り返り手の主がジャスワントであることを見とめ、パルヴィンはにいと笑った。

「あ、ジャスワント。どうだった? びっくりしたか? 変な声を出していたな!」
「うるさい性悪! 今日は絶対に逃がさんぞ! あの不気味な人形を片付けてもらう!」

 パルヴィンの手首を強く握り、ジャスワントは宣言する。アルスラーンの方に視線を向けると「お見苦しいところをお見せいたしました。この不届き者を連行してもよろしいでしょうか」と折り目正しく言った。

「構わないよ、ジャスワント。でも、ほどほどにね」
「殿下、なんとお優しい。ですが、ここできっちりと教育しておかねばなりません」

 引っ立てられるように連れられていくパルヴィンの抗議の声と、それを問答無用で引きずっていくジャスワントの声を聞きながら、アルスラーンは笑った。ふと中庭に黒衣の騎士の姿を見とめ、アルスラーンは何気なく手を振ってみる。間髪入れずに、どこか遠慮がちに手を振り返され、それが、妙に嬉しかった。