呼吸を止めて一秒




 ひゅう、と細く息を吸う。見るのは目の前の男だけだ。手の内の短槍の存在感を、いつも以上に強く感じる。距離は四歩。相対する男には二歩と半分。それが適正な距離だった。それ以上離れては闘争にならない。それ以上近づいては首が飛ぶ。
 全身の感覚を研ぎ澄ませる。皮膚を風が撫でる感触であるとか、木立のざわめきであるとか、揺れる草であるとか、そういうものは全て邪魔だった。全身で、男の挙動だけを感じる。静かな呼吸を、日に焼けた皮膚の下の筋肉の軋みを、肉の内の鼓動を、震える睫毛を、這いまわる視線を、それだけを追うのが、奇妙に心地よい。
 稲妻のように振り下ろされた剣を、槍の先で払う。剣先が地面の方に揺れた隙に、半歩だけ詰められた間合いを空けた。パルヴィンの槍は、ダリューンの胸に迫る。鈍い金属音とともに槍が払いのけられる。そのまま、二撃、三撃、ダリューンの剣で防がれ、槍を持つパルヴィンの手がびりびりと痺れた。
 ふっ、と、ダリューンの短く鋭く息を吐く気配を感じ、パルヴィンは飛び退る。鼻先を鋼の切っ先がかすめた。ひんやりとした鋼の匂いを嗅いだ気がした。空を切る剣戟の音より早く、剣先が迫る。払い、受け流し、躱し、反撃の機会を窺う。一瞬でも気を抜けば死ぬ。それはダリューンも同じで、額につうと汗が伝っていた。伝った汗が右目に落ち、ダリューンはほんの瞬きのように目を瞑った。すかさずパルヴィンは攻勢に転じる。
 続けざまに放った突きは全て剣で切り払われた。受けられる槍にも角度をつけ、磨き上げられた剣の刃を毀していく。短槍の柄で受けた刃が、柄の上を横様に滑った。武器を持つ指を落とされる前に、槍を持ち替える。人差し指の横腹が、ちくと痛んだ。持ち替えた槍を構えざまに穂先で地面の砂を跳ね上げる。それはダリューンの目のあたりにかかったが、それで怖じてくれるほど黒衣の騎士は優しくない。数分の一秒ほどの牽制にしかならぬ。
 だがそれで十分であった。パルヴィンは測ったように四歩の間合いをとり、舞った砂が地面に落ちるより早く槍を突きだした。じんじんと熱いような衝撃と共に、真正面から受け止められる。パルヴィンは素早く槍を引き、すかさず二撃目を繰り出した。寸でで避けられた穂先が、ダリューンの腹の皮を浅く裂いた。機に乗じた追撃は躱され、パルヴィンはダリューンの視線がふと上向いたのを感じる。上か、と槍を構えるが、煌めく白刃は顎下に迫った。しまった、と思うと同時に退くか、と思案する。退けば死ぬな、とパルヴィンは槍をするりと手の内で滑らせ短く持つと、一足に間合いを詰めた。
 頬と肩を薄く切られた感触。首筋に熱いものが伝った。短刀ほどに短く持った槍でダリューンの右脇腹――肝臓を狙う。それに気付いたダリューンは、追撃を諦め防衛に徹した。大きく飛び退くと、剣を構え直す。パルヴィンも槍を腰の位置で構え、呼吸を整えた。
 伊達に幼少から手合せはしていない。互いの手の内は知れている。体勢を立て直したダリューンは、上段から剣を振り下ろす攻撃を選ぶことが多い。だから、己と戦うときだけは、その選択をしないことを半ば確信していた。予想通り脛のあたりを払うように切り上げられた剣を、パルヴィンは槍を地面に突き立て体を浮かせて回避する。しなる槍を反動のままに突き上げると、剣の鍔で跳ね除けられた。
 その勢いを利用し、ぐるりと体を中空で反転させる。長く持った槍を上段から振り下ろすと見せかけ、鋭い蹴りを放った。ダリューンはのけぞりそれを避けると、姿勢を起こすのと同時に剣を閃かせた。至近距離でそれを受ける。並外れたダリューンの膂力に圧倒され、二、三歩よろめいた。攻めあぐね、かと言って退くこともできず、二人は膠着する。ふっ、ふっ、とダリューンの荒い息を感じた。触れあった武器から、どくどくと熱い血が全身を巡っているのも。視線が交錯する。体温すら我がもののように感じる。パルヴィンはすっと腕の力を抜く。単純な腕力では敵うわけがない。鍔迫り合いは避けたい。
 つんのめったダリューンの胸を蹴り、間合いをとる。足幅をとり深く体を沈めると、パルヴィンは跳ね上がるようにダリューンの目を狙った。


******



 物凄い音を聞いて、ギーヴは思わず肩をすくめた。音の出所を探すうちに、二度、三度と音が重なる。物見砦から鍋を落としたら、こういう音がするだろうか。そういう音だった。音の出所を見つけたギーヴは、ぎょっとして目を丸くする。各々の武器を携えたダリューンとパルヴィンが、激しく打ち合っていた。腹の底に響くような金属音とともに、かち合う白刃に火花が散っている。どういう勢いで打ち合えばそうなるのか、ギーヴには皆目見当もつかない。
 傍らでそれを見学していたナルサスが、笑ってギーヴに掌を向けた。

「おっと、半径五ガズ以内に近寄るなよ。どこかしら吹き飛ぶぞ」
「首でないことを祈りたいな」
「然り」

 目で追えぬほどの剣戟に、ギーヴは顔を引きつらせる。

「パルヴィンがあれほど強いとは」

 思わずぽつりと零す。その槍が妙技たることは承知していた。稽古するパルヴィンの槍は、洗練されて美しい。だが、目の前のそれは殺し合いであった。目をぎらつかせ、鋭く息を吐き、急所を狙って研ぎ澄まされた槍を繰り出す姿に、そしてそれに全霊で応えるダリューンに、ギーヴは奇妙な不快感を抱いた。触れられそうなほどの殺気を身にまとう2人に、知らず冷や汗が流れる。

「次回からパルヴィンをからかうときは槍の間合いの外で、矢をつがえながらした方がいいぞ」

 ナルサスが面白そうに言うので、ギーヴは口の端で笑ってそうするよと答えた。
 殺しあう二頭の獣のように互いの武器をふるう二人に視線を戻す。剣の力強さと速さでは、圧倒的にダリューンが勝っている。だがパルヴィンには長物の遠心力と間合いという利がある。重たげな鋼の剣が縦横無尽に空を切るのを、槍の柄があれほどしなるのを、ギーヴははじめて見た。

「おそろしいな」

 ギーヴは言う。

「そうだな」

 と、ナルサスは膝の上の板に絵筆を走らせながら答えた。また愚にもつかぬ絵を描いているらしい。

「だが、艶めかしいよ。そうは思わないか」

 唐突なナルサスの言葉に、ギーヴは眉をひそめた。ぱっとパルヴィンの頬が裂け、血が舞ったところであった。それのどこが艶めかしいのか。胡乱気な顔をするギーヴに、ナルサスは絵筆を置いた。

「どうやら武人という生き物はああして情を交わすらしい」

 ぎいいぃん、と金属音が響く。ギーヴは己の不快感の正体に気付いた。何もかも剥き出しにして命を奪い合おうとする二人をちらと見やり、おおげさに顔をしかめて見せた。

「薄気味悪いことを言うな。おれはもう二度と男とは剣を交えぬぞ」

 茶化してそう言うのがやっとだった。十以上の舌を持つと嘯くギーヴにしてはお粗末な冗句である。
 ははは、とナルサスは軽く笑った。

「止めなくていいのか」

 思わずギーヴは問う。

「なぜ」
「……どちらも得難い武人だろう」
「止めて止まるなら止めている。あれはもはや本能に近い。動物が食べて飲んで眠るように、好き合うた男女が互いの体を貪るように、あの二人は時折本気で殺しあわねばだめになる」

 難儀だな、とナルサスが呟くのと、ダリューンの目を狙って突き出されたパルヴィンの短槍が払いのけられ、柄が中ほどからめきりと音をたてて折れたのは、ほとんど同時であった。木製の柄は、ダリューンの剛勇に耐えきれなかったようだ。パルヴィンは咄嗟に身をひるがえし、ダリューンの懐に飛び込むと、膝で腹を蹴り上げた。ダリューンで無かったら、或いはそれは致命傷になりえたかもしれぬ。だが、ダリューンはそれを受け、なお剣の柄でパルヴィンのこめかみを打った。
 ぐ、と短い呻き声とともにパルヴィンが地面に崩れ落ちる。ダリューンは立ったまま肩で二、三度おおきく息をすると、半ばパルヴィンに折り重なるようにしてばったりと地面に倒れこんだ。時間にすれば、そう長い時間を打ち合っているわけではなかった。一分もかかっていないかもしれない。だが二人は三日三晩走り続けたあとのようにぜえぜえと荒い息を吐き、紅潮した頬には汗が伝った。

 ナルサスはどちらも死んでいないのを遠目に確認すると、絵をギーヴの方に見せた。

「どうだ。題して睦みあう男女」
「……批評は控えさせていただこう」