君がため、惜しからざりし命さへ
ひゅ、と何かが夜風を切る。月のない夜である。広い夜空にまたたく星だけでは心もとない、濃い暗闇が広がっていた。いったい何の音か思う間もなく、血臭があたりにたちこめる。何が起きたのか、何がいるのかを理解せぬまま、ばたばたと男達は倒れていった。
ひときわ立派な髭を生やした男が、大声で灯りをつけるよう指示した。傍らで従者が松明をかかげた瞬間、鼻先に濡れたように光る短槍の穂先を見、それで、仕舞いだった。男は、己の頸筋から血の吹き出る音と、松明が血の海に落ちたじゅうという音を聞いて、そして息絶えた。
パルヴィンは暗がりであたりを見回す。星のひとつもあれば、夜目のきくパルヴィンには昼間よりずっと具合がいい。ひとつひとつ遺体を見分し、口中で小さく弔いの言葉を紡ぐ。懐から、拾い集めた屑鉄を取り出すと、無造作に遺体を傷つけていった。とくに、致命傷の周辺は得物が槍だと思われぬように念入りに。最後に腹を裂き、内臓を貪ったように見せかければ、誰が見てもそれは人間の仕業ではなかった。白状すれば、初めてこれをしたときは、作業の途中で三度ほど嘔吐したが、今はもう慣れた。
血濡れた両手を拭うと、遠くない距離から胡狼の遠吠えが聞こえる。下手な小細工をせずとも良かったかもしれぬ、と、パルヴィンは思った。
帰路、道すがら水場で血を清めたパルヴィンは、濡れた髪を下ろしたまま、灯りのついたダリューンの居室に向かった。そろりと、誰にも気づかれぬように。部屋の隅でひゅうと息つく音に、ダリューンは顔も上げず答えた。
「パルヴィンか」
「は、戻りましてございます」
「首尾は」
「つつがなく」
短く、そうだけ交わす。
ダリューンはパルヴィンの方に足を向けると、悲しそうな、申し訳なさそうな、そういう顔をした。濡れたパルヴィンの髪を一房手に取る。
「濡れている」
「血濡れて帰るわけにもいきませぬゆえ」
日に焼けた端正な顔がずいと目の前に寄ってきたので、パルヴィンはぎょっとして身を引いた。曇る黒瞳に見据えられると、たまらない気持ちになる。自分のために、主にそのような目をさせてしまうなら、いつ己の頸を掻き切ったって良い。胸のあたりがきゅうとするのだ。厭だった。
そんなことをぼうと考えていると、急に視界がきかなくなった。すぐに、頭から布を被せられたのだと気付く。ダリューンは布でパルヴィンの頭をすっぽりと包むと、がしがしと力任せに水気を拭いにかかった。頭を散々ゆすぶられ、パルヴィンは目を白黒させる。抗議しようと口を開けると、強かに舌を噛んだ。
とにかく嵐が過ぎ去るのを待ち、じっとしていると、ダリューンはやっとパルヴィンの頭を揺さぶるのをやめた。暴れ馬に乗った後よりひどい気分だった。布の下から現れたパルヴィンの仏頂面に、ダリューンはきまり悪そうな顔をした。
「ああ、そうだ、すまんな。おれは時々、おまえがもう子供じゃないことを忘れる」
「……いいえ」
ダリューンは、しっとりと水気を含んだ布を広げる。水で薄まった血が、じんわりと布一面に染みていた。
「パルヴィン」
「はい」
「……苦労をかける」
「何をおっしゃいますか。私はダリューン様の猟犬にてございますれば、使役されることこそ至上の喜びと存じます」
パルヴィンは、かつて教えられたとおりにそう答えた。ダリューンは、いよいよ苦しそうな顔をした。
「犬だなどと言うのはよせ」
「……ダリューン様こそ、無理をおっしゃられないでください。私はこの生き方以外分かりません」
おまえは犬だ、と、育てられたのだ。そして、彼は飼い主だ、と。パルヴィンは苦笑じみて笑う。
犬なら犬でいいのだ。犬なりに愛してくれれば。ダリューンの無骨な手が、意外なほどにそっとパルヴィンの頬に触れた。心地よかった。この手が好きだ。この手を守るためならば、己の手など如何程でも血に染める気にもなれる。
戦士の中の戦士たるダリューンに身を捧げることを許されているのが、パルヴィンの矜持であった。戦場を焼き尽くす黒い炎のようなその姿を、誇らしく思う。
「どうか、この身も、命も、受け取ってくださいませ。ダリューン様」
頬に触れる掌に、そう零す。答えはなかった。手が離れていく。それを、少しだけ惜しいと思った。