隷属





 ひんやりと涼しく風通しのいい厩舎は、なるほど、確かに昼寝の場所としては申し分ないだろう。己の膝を枕にすうすうと寝息をたてるパルヴィンを見下ろし、ダリューンは一人笑った。こんなところを見られては、またナルサスかギーヴにいやというほどからかわれるだろう。思いと裏腹に、ダリューンの手は優しくパルヴィンの前髪を払った。
 パルヴィンの家は、代々ダリューンの家に仕えてきた。大昔に、パルヴィンの先祖が、子々孫々にわたりダリューンの先祖の血脈を守り忠義を尽くすことを誓ったらしい。ヴァフリーズの代までせいぜい百騎長止まりであった弱小武家に、どういう故あってそうなったのかは今となって知る者はない。ただ、膠のように煮詰められ凝縮した血統への忠誠と、人の目を忍ぶ技だけが、パルヴィンに伝えられていた。パルヴィンの父はパルヴィンにダリューンへの盲従を叩き込み、パルヴィンの父もパルヴィンの祖父からそれを伝えられたのだろう。意義を失った忠誠心は、半ば狂気のようにパルヴィンの中に受け継がれている。
 彼らはサグと自称した。決して良い意味ではない。犬のことだ。ダリューンはパルヴィンをそう呼んだことはない。人間を、犬呼ばわりするのは性に合わなかった。だが、パルヴィンは悲しそうな顔をした。パルヴィンにとって、サグであることは名誉であった。というよりも、パルヴィンにはそれしかないのだろう。それを否定されるのは、全て否定されるのにも等しいということは、薄々理解していた。情を込めてパルヴィンを犬と呼んでやってもいいのかもしれない。だが、やはり、そう呼ぶのは厭だった。

「パルヴィン」

 名を、読んだ。パルヴィンが息を吐くたび、ダリューンの膝は生温かくなる。パルヴィンはわずかに眉根に皺をよせ、ダリューンの逞しい腿に顔を押し付けた。

「起きろ」

 肩に手をやりかけ、思いとどまる。昔はよくこうしていたものだと、ふと思い出したからだ。サグの技は末子から末子へ伝えられる。家族にさえ、そのことは秘されている。夜に寝床を抜け修練を積まされていたパルヴィンは、昼間はいつも眠そうで、見かねたダリューンが連れ出してはこうして寝かせたものであった。
 昼はいつでもうつらうつらと夢見心地であったパルヴィンは、サグであること以外は不得手であった。5か国語を訛りなく話すが、流行りの歌の一つも知らない。道端の草から難なく毒を精製するが、夕食の卓にのぼる料理の名も知らない。人の表情の機微には敏いが、恋も知らない。
 不均衡で、いびつで、だからダリューンはパルヴィンを慈しんだ。

 思えば、末子から末子へ細々と伝わる技など、不安定すぎるだろう。今まで続いたのが、奇跡であったのだ。きっと初代は、この冗談のような継承がここまで続くとは思っていなかったのだろう。もともと、連綿と続きがたい方法を選んだのではないのだろうかと、ダリューンは無根拠に思った。

 パルヴィンが何事か呟いて、寝返りをうつ。敷布代わりの寝藁が、ぱさぱさと小さな音をたてた。

「あ……」

 パルヴィンの瞳がうっすらと開く。焦点の合わぬ目がダリューンの顔のあたりを移ろう。

「ちちうえは……」
「なんだ」
「わたしを、よんでおりませんか」
「……ああ、だいじょうぶだ」
「よかった」

 ふう、と、再びパルヴィンの瞼が落ちる。眠りと夢の神であるソムヌスが、一瞬、パルヴィンを少女時代へと連れ戻したのだろうか。とうに亡くなった父親の機嫌をしきりに気にする姿が、ひどく痛々しかった。
 忠義という鎖で自縛し荒れ狂う魔獣、とパルヴィンを称したのはファランギースである。然りであった。何一つ反論できなかった。パルヴィンをそうしたのはパルヴィンの父親であり、パルヴィンの血であり、そして、認めたくないことだが、ダリューン自身であった。中途半端に情けをかけ、手元に置いてしまった。父親が亡くなった時点で、全てを忘れさせ、どこか遠く、戦乱だとか陰謀だとかそういったものの縁遠い静かな田舎の穏やかな男にでも、嫁がせればよかったのだ。そのほうがパルヴィンのためにもなった。ヴァフリーズもそうすべきだと言ったのを、頑なに引き取ることを主張したのはダリューンだった。
 幼い時から見知った少女に、盲目な感傷と無為な憐れみを向けたのだ。それは、己だけがパルヴィンを知っているという驕りがあったためかもしれない。パルヴィンがごく普通に人を愛し、家庭を作り、平凡な幸福を享受する姿を夢想すると、ダリューンはパルヴィンの目を真正面から見られなくなるのだ。

 ダリューンはパルヴィンの額を撫でた。もはや子供らしい丸こい額ではなく、大人の女性のそれであるというのに、妙に回顧の念を抱かされる。短槍を持てば雪豹だ魔獣だと呼ばわれるパルヴィンも、己の膝で眠っているうちは、商家の飼い猫のような顔をしていた。
 愛しい、と、思う。それが容易に恋情や色情に転化しうる感情だということは自覚している。だが、どうしてもそちら側に踏み切れぬのは、パルヴィンに恋をさせたくないからだ。
 パルヴィンの魂と血に刷り込まれた忠節は無二だ。時には暴力的なまでに、己以外に向けられることはない。恋ならどうだろう。他の男にも向き得る。だから、ダリューンは、それが恐ろしかった。パルヴィンが己に忠義を尽くすのは、それしか心のありようを知らないからではないのか。そういう疑念が渦巻いて、パルヴィンの手綱を離すことが出来ない。
 何がマルダーンフ・マルダーンだ、と諧謔気に口の端を上げる。こんな狡い男が、他にいるだろうか。
 ダリューンはパルヴィンの閉じられた瞼を手で覆い隠す。どうかそのまま何も見ず、何も思わず、盲目的に己を慕い憧憬してはくれぬか。パルヴィンを縛り隷属させる己が、王太子の理想のために骨身を惜しまぬのは、なんだかひどく皮肉であった。