ハニートラップ武力行使





 シンドゥラ国王ラジェンドラが、エクバターナの王宮に御幸するのだと聞いたパルヴィンは、へえと声をあげた。

「あのたわけ者が」

 と、事も無げにそう言う。ギーヴは声をたてて笑い、ファランギースは口の端を上げた。ジャスワントは、かつての主という遠慮のためか、わずかに口を引き結ぶにとどめた。ダリューンとナルサスは立場上笑うわけにはいかないが「パルヴィン、口に気を付けろ」と窘めるダリューンの声は、いかにも面白そうである。

「大陸広大とはいえ隣国王をたわけと呼べるのは、パルヴィンただ一人であろうよ」
「ギーヴだって呼ぼうと思えば出来るだろう。簡単だぞ」

 ギーヴは言い、パルヴィンは片眉を上げてそう返した。どうやら、それは皮肉であるようだ。
 それを見ていたアルスラーンは、ちょっと困ったように笑う。

「パルヴィン、あまりラジェンドラ陛下にひどいことを言ってはいけないよ」
「は、過ぎた口をききました。御容赦ください」

 殊勝気に頭を下げるパルヴィンに、ギーヴは誰にも見えぬよう舌を出して見せた。パルヴィンも肩をすくめてそれに応える。
 ナルサスは、はあと深い溜息をついた。

「まったく、何の用向きでパルスに来よるのか」

 それにダリューンが答える。

「さあな、おおかたパルス料理でも食べたくなったのではないか」

 パルヴィンは首を振る。

「お二人とも、私なぞよりよほど酷いことを申される」

 そのやりとりを聞いたアルスラーンは、いよいよ本当に困った顔をした。アルスラーンを弟分と公言して憚らぬ川向うの陽気な小悪党に対する、アルスラーン麾下の態度は、おおむねこのようなものである。



 相手はラジェンドラとはいえ一国の王をぞんざいに扱うわけにもいかぬ。パルスの威信にかかわる。
 そうであるから、ここ数日は宴の準備や警備の増強で何かと慌ただしい。ばたばたと行き交う女官や、配置に頭を抱えるナルサスや、兵士に檄をとばすダリューンを眺めて、ギーヴは退屈そうに欠伸をひとつこぼした。

「なんともはや、風情のかけらもない荒れようだ」

 傍らで糖蜜菓子を舐めていたパルヴィンが、目を細めて笑う。

「そうかな、王宮がどんどんきらきらしていって、面白い」

 花の如き王宮と称えられる王宮は、いつにもまして磨き上げられ、普段は経費削減と半分に減らされていた灯りもすべての燈芯に火がともされ、まさに輝くような美しさだ。庭園が整えられていく様子を物見から見下ろしながら、パルヴィンは忙しく立ち働く人々を指差す。

「ほら、いいね。楽しそうだ。私も王宮勤めをしてみようか」

 ギーヴは鼻を鳴らした。

「ばかを言うな。それ以上首についた縄を増やしてどうするつもりだ」

 ダリューンに忠犬の如く付き従う様子を揶揄され、パルヴィンは眉をひそめる。正しく己はダリューンの犬であるが、他称されるのは気に食わぬ。

「君は少しくらい、己を戒めるものがあってもいいのではないか」

 ギーヴは、大袈裟に肩をすくめて見せる。

「ああ、なんと無粋な。檻の中の豹は美しいか? 空を飛ばぬ鳥が美しいか? おれは自由が好きだ。そして自由なおれを、御婦人方は殊の外求めている。おれに言わせてもらえば、己の寄る辺をよそに求めるおまえの方が信じられんよ」
「ダリューン様はそういうんじゃない。ギーヴは、生まれてこの方、地面が己の体を支えていることに不安や不満を抱いたことがあるか」
「ない。そんな奴がいたら、阿呆だろう」
「そうだろう。私もそうだ。物心ついた頃からな」

 だいたいパルヴィンの言いたいことを察したギーヴは、呆れ果てた目でパルヴィンを一瞥しただけだった。その形良い唇に、パルヴィンは無言で糖蜜菓子を放り込む。
 むぐ、とそれを咀嚼し、ギーヴは話題を変えた。

「面白いことを思いついた」

 ギーヴの顔が、至極面白そうに歪んだ。パルヴィンは、とりあえず表面上は厭そうな顔をしておく。が、ギーヴの耳打ちを聞いて、今度は本心から顔色を蒼白にした。

「無理だ! ばか! 死刑はいやだ!」
「ふむ、おれがやったら間違いなく死刑だが、おまえなら大丈夫だ。おまえはラジェンドラのお気に入りだろう?」
「そ、そうなのか……」
「ああ、何しろ、象やら虎やら南国の猿やら、珍獣を大層好まれる御方であるからな」

 パルヴィンは一瞬動きを止めたが、次の一瞬には手にした槍の石突で、ギーヴの胸を目にもとまらぬ速さで突いた。ぐっ、とギーヴは息を詰まらせる。

「褒めてくれてありがとう。石突で突いたのは私なりの謝意だ」
「だろうな。そうでければ今頃おれはケバブのように串刺しだ」

 ギーヴは咽ながら答え、上着の襟を寛げて胸元を覗き込む。ああ、痣になっている、と顔をしかめた。

「おまえ、あの男が驚き慌てふためく様を見たくはないのか」
「み、見たいと言えば見たいが……」
「あの愉快なたわけ者の、慌てる顔だぞ?」
「たわけだとは思ってるが、嫌いではない。何しろ珍獣である私を好いてくれるからな」

 皮肉気にパルヴィンが言うと、ギーヴはやれやれとばかりに肩をすくめた。

「おまえがどうかはこの際置いておこう。だが、ひょっとするとダリューン卿は、ラジェンドラの鼻を明かしたいと思っているやもしれぬなあ」

 ぴくり、と、パルヴィンの瞼が震えた。この様からは全く信じられぬが、これでも腕は相当たつし、頭も可愛げのないほど切れる。だがダリューンのことが絡まると、途端に信じられぬほど頭脳がお粗末になるのだ。どうしたことだろう。
 パルヴィンの顔に迷う色を見てとり、ギーヴは畳み掛けた。

「おまえがあの男をたわけ者と呼んだ時の顔を見たか? 堪えてはいたが、面白そうに笑っていたぞ」
「いやあ、あのようなダリューン卿の顔を見たのは初めてだ。まあ、立場上、ラジェンドラには無礼を働けぬからな。気ままなおれや、おまえとは違って」

 立て続けにそう言うと、うううと呻いていたパルヴィンは二度、浅く首肯した。

「やる」
「よしきた」

 そういうことになった。



******




 宴の間に、ラジェンドラの陽気な笑声が響く。いくら食べても無料なら、いくらでも食べた方がいいという信条を掲げるラジェンドラは、酒杯を盛大にあおった。アルスラーンの少年らしい華奢な肩に腕を回し、ことさら親しげに兄弟と呼びかけるラジェンドラの姿に、ナルサスは傍らの親友の体温がじりじりと上がっているのを感じた。

「乱心を装って切ってしまいたい」
「やめておけ。気持ちは分かるが」

 ほとんど唇を動かさずに言葉を交わす。そんな二人に、ラジェンドラは気さくに声をかけた。

「ナルサス卿もダリューン卿も、飲みたまえ」

 無言で首を振るダリューンにナルサスは苦笑し、丁重に辞した。

「私どもは結構です。お気持ちだけ受け取っておきましょう。ラジェンドラ陛下のために用意させた葡萄酒です。今年のものは良い出来でございます」

 そうか、とラジェンドラは笑ってもう一杯葡萄酒を所望した。

「今宵はファランギースどのはおらんのか。あの冴え冴えと美しい月のような女人を見ずには、パルスに来た気がしないな」
「ファランギースどのは、今日は勤めを果たすために神殿にこもっておりますゆえ」

 嘘だ。ラジェンドラの相手をするつもりの無いファランギースは、料理と葡萄酒とともに、アルフリードとパルヴィンを連れて部屋にこもっている。

「そうか、それは残念。そうだ、あの可愛い短槍遣いはどうした。そう、パルヴィンだ。魅惑的な腰つきの。いやはや、あの引き締まった腰を抱いて、彼女の槍より早く突いてみたいものだな」

 傍らの黒衣の騎士の鎧の隙間から、怒りが目に見えるように立ち上った。彼の指先がゆるゆると剣柄に向いたのを、ナルサスは無言で払い落とす。
 ろん、ろん、と琵琶の音が鳴った。次いで、笛と鈴の音が響く。美々しく着飾った踊り子が、軽やかに広間を跳ねる。さすがのラジェンドラも口を閉じたので、ナルサスはほっと胸を撫で下ろした。ダリューンが本気でラジェンドラの舌を切り取りにかかっては、ナルサスに止める手段はない。
 踊り子たちの中央で、面を被った主舞手が身軽に跳ねた。ナルサスは、違和感に目を眇める。演目は、カイ・ホスローの武勲を讃える踊りだ。主舞手は、剣を持って舞う。今、広間で主舞手が振るっているのは、身の丈ほどの槍である。
 ナルサスほどの頭脳が無くとも、察しはつく。事実、ナルサスがことに気付くのとほぼ同時にダリューンは額に手をやった。

「何をやっているんだあいつは!」
「知らん。おまえのとこのだろう。おまえが管理してくれ」

 見れば、琵琶をつま弾いているのはギーヴである。ナルサスは、今にも踊り子の中に飛び込んでいきそうなダリューンを制止した。

「今日という今日は、二人とも許さん。ふざけて良い場と悪い場があるだろう!」
「まあ、そういきり立つなよ。ほら、見てみろ。結構上手いぞ」
「パルヴィンは槍さえ持たせていれば何でもこなす、おい、どけ。つまみ出してくる」
「ほう、今度、槍の先に絵筆でもつけさせてみるか。筋がいいようなら弟子にしてやってもいい」
「ナルサス!」

 パルヴィンの手首や足首についた金貨が、動くたびに音をたてる。派手な赤い衣装がひらひらとはためく。数人の踊り手の正体に気付いた者たちは、にやにやと笑って動向を見守っている。ラジェンドラは、陽気に手を叩いて喜んだ。

「素晴らしいな! すごい迫力だ! まるで、踊り子というより武人のようではないか!」

 これにはナルサスと怒りに震えていたダリューンも思わず噴き出した。
 鍛えこんでいるだけあって身のこなしは美しいが、本来、踊りの練習などしたことのないパルヴィンである。徐々に体の動きは音楽からずれ、槍は人でも突き殺せそうなほど激しく繰り出される。観客も不可解そうに顔を見合わせはじめ、怒りの引っ込んだダリューンは心配のあまり青ざめた顔をしている。


 音楽は佳境に入り、パルヴィンの槍はますます冴える。だが、動きに合わせてくるくるひらひらと舞っていた飾り布を踏んづけたパルヴィンがつんのめった。ダリューンは呻き、観衆はどよめく。背中から派手に転んだパルヴィンは、受け身をとり、そのまま背中で弾みをつけて一息に立ち上がった。踏んだ拍子に裂けた飾り布を槍の先で絡めとり、破り捨てる。観衆から歓声があがった。ラジェンドラも大喜びでアルスラーンの背を叩いている。ナルサスは腹をかかえて息も出来ぬほど笑っていた。

「ナ、ナルサス! ナルサス! 笑っている場合か!」
「す、すまぬ……くっ、ぷはっ、あはははは!」
「ナルサス!」
「そんな顔をするな。もうすぐ曲が終わる。良い踊りだったと褒めてやれ」

 ナルサスがそう言った途端、それまでは音楽からずれつつも一応踊りらしき動きをしていたパルヴィンが、重そうな上着を脱ぎ捨てると、真っ直ぐにラジェンドラに襲い掛かった。近衛の誰もが油断していた。槍の穂先は、狂いなくラジェンドラの頸に向かう。誰かの悲鳴が上がった。ぎいいぃん、と金属のぶつかり合う音がする。
 ラジェンドラの傍らに、ダリューンが鬼の形相で立っていた。抜身の剣を手に提げ、先端を失った槍を構えるパルヴィンを睨むダリューンの迫力に、広間の誰もが押し黙った。
 槍とともに切られた仮面が落ち、気まずそうなパルヴィンの顔が露わになると、蒼白になって硬直していたラジェンドラは目を丸くする。
 しんとした広間に、切り飛ばされたパルヴィンの槍が、くるくると弧を描いて床に落ちる音が響いた。ろん、と琵琶の音がする。はっとして皆がそちらを向くと、いつの間にか広間の真ん中に立っていたギーヴが、朗と響く美声で宣言した。

「かくのごとく、パルス国の誇る英雄は、親愛なる隣国の窮地にも駆けつける所存でございます!」

 どうやら余興の一種らしいと、広間の人々からまばらに拍手がおこり、やがてそれは大歓声となる。「アルスラーン陛下万歳! ダリューン卿万歳!」の大合唱に、ダリューンはひとまず怒鳴り声を飲みこんだ。
 パルヴィンは口をぱくぱくさせるラジェンドラに、膝でにじり寄って近付くと、顔を寄せて唇の端に口づける。にこりと笑って「お楽しみいただけましたか」と問う。ギーヴの言った通り、ラジェンドラはついさっきまで呆けていたのも忘れたようで、上機嫌にパルヴィンの腰を抱き寄せた。

「ふふふ、とんだ悪戯娘だ。仕置きが必要か?」

 そこで、ダリューンはぶっつりとキレた。無表情で低くパルヴィンの名を呼ぶと、指を少し動かしてこっちへ来いと指示を出す。怒りの表情よりよほど怖いそれに、パルヴィンは尻込みした。
 ラジェンドラはパルヴィンを膝に乗せ、頬を寄せる。

「なんだ。おれはちっとも怒っておらんぞ。素晴らしい余興だった。あれでパルヴィンを罰するのはよしてくれ。なんともおっかない主だな、パルヴィン。どうだ、おれと一緒にシンドゥラ国に来るか? おれは優しいぞ。――――もちろん臥所でもな」

 ラジェンドラは片目を閉じてそう付け足した。

「パルヴィン」

 ダリューンは己の腹のあたりで手信号をパルヴィンに見せる。パルヴィンはそれを見ると、ほとんど反射のように立ち上がるとダリューンの方へ参じた。躾の行き届いた犬のように、パルヴィンはそれには逆らえない。

 無言で広間を出るダリューンを追いかけ、宴に出す葡萄酒を一時保管している小さな部屋に入る。黙って見つめてくるダリューンに、パルヴィンはいたたまれなくなる。叱責される覚悟はあったが、こう黙られるとどう反応したらいいか分からなくなる。

「パルヴィン」
「はい」

 応える声も上ずる。木箱に腰掛けたダリューンは、額に手をやり俯いていて、表情が窺えない。

「パルヴィン、おまえは女だ」
「……は、はい」
「顔もいい」
「……ありがとうございます」
「男心をそそる体つきをしている」
「ダリューン様、なんの話ですか? その、ラジェンドラ陛下への狼藉についての叱責ならお受けいたします」
「いや、それはもういい。むしろ、良いものを見せてもらった。あの男の慌てふためく顔は、しかとこの目に焼き付けておいた」

 はあ、とダリューンは大きなため息をつく。パルヴィンは困惑して眉を下げた。それで叱られないなら、何をこう怒っているのだろう。

「その、あれだ、易々とだな、他の男に唇を許すような真似はするな」

 パルヴィンは、へっ? と間抜けな声をあげた。

「少々、隙が多すぎるのではないか? あ、あのように口付けをしたり、膝にすり寄って、まるで誘うような真似を!」
「だって、誘いましたもん」
「ああいう挙動をすると、男は誘われていると勘違い――――――なに?」

 今度はダリューンが間抜けな声をあげる番だった。

「存じております。私は女で、僭越ながら顔も体もまあ悪くないです。だから、ギーヴが、口付けのひとつでもしてにっこり笑ってやれば全部水に流してくれるだろうと」

 ダリューンはまばたきを二回する間だけ呆け「この馬鹿娘!」と悲鳴にも似た怒号をあげた。狭い室内がびりびりするほどの大音声である。

「二度とするな! ばかかおまえは!」

 パルヴィンは体を跳ねさせる。眉尻がきゅうと下がり、情けない顔をする。少し言い過ぎたか、とダリューンは内心わずかに後悔した。

「申し訳ありません」

 しおれるパルヴィンの髪を、ぐしゃぐしゃとかき回す。

「すまん、おれも言い方がキツかった」
「いいえ、私が軽挙でした」
「だが、おれはおまえを本当に愛しているから、心配でしかたがない。そのへんで妙な男をひっかけるのは止してくれ。どうしておまえはギーヴやらあの王やら、ろくでなしばかりに好かれるんだ。もっと誠実で信頼できる男をひっかけてきてくれ」
「たとえば、ダリューン様みたいな?」

 パルヴィンに言われ、ダリューンは言葉に詰まる。そうだと答えては、自意識過剰な男のようであるし、いいやおれのような男は駄目だというのも違う気がした。

「そうだな。だが、おれのような男が他にいるか」
「おりませんね」
「なら、妥協しておけ。おれの次にいい男を探してひっかけてこい」

 パルヴィンは小さく笑った。

「ダリューン様のお怒りがとけなかったら、ラジェンドラ陛下にしたように許しを請うつもりだったのです」

 悪戯っぽい視線で言う。ダリューンは肩をすくめた。

「冗談でもよせ」

 ああ、とダリューンはパルヴィンの方に向き直る。

「次はナルサスに謝って来い。おれはラジェンドラ王に槍を向けたこと自体は怒っていないが、あいつはそうでもないかもしれないからな」
「……ああぁぁ」
「間違っても口付けようなどと思うなよ」
「し、しませんよ」
「アルフリードに殺されるぞ」

 それは困った、と眉をさげて笑うパルヴィンの頬をつまんで引っ張ると、いたいいたいと不明瞭に悲鳴をあげる。その様子を見て、ダリューンは苦笑した。
 のちほど、パルヴィンが形ばかりの注意の後、ナルサスから「よくやった。見ものであった」と耳打ちされたことがパルスの国家機密となったのは余談である。