猫のキーホルダー
今日、私はこの部屋の持ち主に鍵を返さなくてはいけない。ずっと先延ばしにしていたが、期限がきたようだ。
「オイ、いつ出発すんだよ。」
「1週間後。」
「…ホント、急だな。」
「ごめん。鍵だけど…。」
「持ってろ。」
「そういう訳にはいかないよ。」
「いーから。」
本当の出発は、2日後だった。
出発は、昼の便。その日の早朝、靖友の部屋にきた。
そっと玄関ドアを開けて、部屋を覗けば靖友はまだ寝ている。
「ごめんね。今まで本当にありがとう。」
いつ帰ってくるかも分からない、帰ってこないかもしれない私の事は忘れて欲しい。いつも自分勝手でごめんね。お前しかいないって言ってくれてありがとう。私も本当は靖友しかいないと思ってる。でもそれは言えない。
靖友が起きないうちに部屋を出て鍵を閉めたら、付けていた猫のキーホルダーを外した。
「さようなら。」
鍵を玄関ポストに入れるとカツンと小さな音がした。
携帯も変えて、見知らぬ海外の土地へと来て、もう5年になる。一度も日本へとは帰っていない。
周りに日本人は一人もいないので、日本語を話すのも1ヶ月に1回、家族と電話で話す時か、家で独り言の時位だ。
最初の1年は、辛くて毎日泣きたくなった。英語には自信があった。だからどうにかなると思っていたが、行った場所は田舎だった為、英語でも訛りがあった。私の言葉はある程度通じるが、相手の言葉が分からない。とても辛かった。それでもなんとか踏ん張った。いま帰る訳にはいかない。その思いで頑張った。
今では、あの辛かった時期が嘘のように過ごせている。
「名前!仕事の帰り?」
「そう、ごはん作るのめんどくさいなー。」
「日本人は、毎日自炊してるんだな。たまには店寄れよ。」
「うん、ありがとう。」
いつも誰かと会えば必ず声を掛け合う。みんな優しい。とても充実している。
ただ、時々ふと思う。
靖友は幸せに暮らしてるだろうか。
そんな事を思う資格がないのは分かっている。けれどもこの5年忘れる事は出来なかった。
「名前、今日柔らかいパンを焼いたから買ってかないか?」
こちらのパンは、全体的に固い。固すぎるのは苦手なので、柔らかいパンを焼いた時は、いつもこうやって声をかけてくれる。柔らかいとは言っても、やはり少し固めではあるが美味しい。
「本当?買う!」
お店に入って、パンを見ると3種類の私専用にわざわざ焼いてくれたパンがある。
「全部買う!いつもありがとう。」
「いいんだよ。美味しく食べてもらえるならそれがいい。また3〜4日後に焼くから、声かけるよ。」
「うん。」
パン屋のおじいさんが、袋に詰めていると
「そういえば、さっきアジア人見たんだよ。」
「アジア?」
「うーん、日本人か韓国人か中国人か。」
「あはは、分かんないよね。」
こちらの人達から見れば、みんな一緒に見えるだろう。私だって見ただけでは区別がつかない時がある。
「女の人?」
「いや、男性だったよ。名前と同じ黒髪で、ヒョロっと細いヤツだったな。」
「へぇー、珍しいね。観光かなぁ?」
「ははっ、こんな田舎に観光かい?はい、お待たせ。」
「ありがとう。じゃぁまたね。」
「おう、またな。」
この街に来て、仕事場まで徒歩10分、自転車を買おうと思っていたが、道を見て諦めた。殆どの道がでこぼこの石畳。自転車なんて乗ったら、余計に疲れてしまう。不便だなと思っていた道も、今ならこの街並みに合っていて好きだ。
小さなレストラン、八百屋、魚屋、パン屋、肉屋を抜ければ、緑いっぱいの風景に変わる。
「夕飯は、買ったパンとシチューにしよっかな。」
パンの袋を覗くといい匂いがする。なんとなく、鼻歌を歌いながら歩いた。
「名前、いま帰り?」
「うん。」
「さっき名前の事聞かれたよ。」
「ん?誰に?」
「黒髪の男性。名前の名前しか聞き取れなかったけどね。」
この先にたぶんいるよ、と言って道を指した。さっきパン屋のおじさんが言っていたアジア人だろうか。
黒髪の男性なんて言われると、靖友を思い出してしまう。それはないと分かっているが。
期待なんてしてはいけない。違った時のがっかり感は味わいたくはない。そう思っていても、心臓が大きく波打ち始める。歩く足が重くなるのは気のせいだろうか。
しばらくして、ずっとずっと先の方に、道の真ん中で立っている人が見えた。男か女が分からない程遠い場所に。
どうしてこんなところにいるんだろう。
5年も会ってないのに、なんで分かるんだろう。
私は靖友に近付いていいのだろうか。このまま歩いて靖友のところまで行ってもいいのだろうか。そう悩むが、足は止まらない。
すぐ側まで近付いた時、靖友が振り向いた。少しだけ驚いた顔をしている。
「やーっと会えたァ。」
「靖友、どうして…。」
「英語ベンキョーしたつもりだったんだけどなァ。全然通じねェ。」
「ここは、訛りがあるから。」
「ンなのあんのかヨ。」
いまはそんな話ではなく、どうして靖友がここにいるのか知りたい。
「観光?」
「ハァ?ンなわけねェーだろ。」
「だよね。えっと…。」
「引っ越してきた。5年かかっちまったケドォ。」
「引っ越し?」
引越しとは、ここに住むと言う事だろうか。まさかの言葉に混乱してしまう。
「待って、なんで?」
「ハァ?なんでって、フリーになって、やっと仕事も軌道に乗ってきたから、もう行けるなと思ってよ。」
「驚いた。なんでここに?」
フリーになったからってこんな田舎を選んだのだろうか。もっと便利な場所はたくさんあると言うのに。靖友の好きな自転車だって、この街で乗るのは難しい。
「オメーがいるからに決まってんダロ。」
「私…。」
「アレェ?名前チャン、新しい彼氏出来たとかァ?」
「そんなのいないよ!」
「だよなァ。オレ別れたつもりねェし。」
「でも…」
「オレは、この5年別れてたつもりはねェ。」
そう言い切る靖友に、私は甘えてもいいのだろうか。自分から離れたと言うのに、別れてないとの言葉がこれ程までに嬉しく思ってしまうのはいいのだろうか。
「オレには、名前しかいねェって言ったろ。」
「私は…その言葉に、甘えてもいいの?」
「オメーは?どうせオレの事忘れてねェんだろ?」
そう言ってニヤリと笑う靖友に、なんでそんな当たり前のように言うのか、思わず笑ってしまう。
「ふふっ、そうだね。私にも靖友しかいないもんね。」
「知ってんよ。」
「ごめんね、靖友。」
「ごめんじゃねェだろ。」
「うん。…来てくれてありがとう。」
「おう。もう逃げんなヨ。」
ありがとう。これからも靖友を想い続ける事を許してくれて、叶えてくれてありがとう。
「そういえば、どこに住むの?」
「アーそれなんだケドォ。」
どうやって家を探せばいいのか分からないし、どうせ私がいるんだから一緒に住めばいいと思って来たそうだ。
「って事なんで、よろしくゥ。」
「最後は投げ出したんだね。」
「ハッ!別に問題ねェだろ?」
「そうだね。帰ろうか。」
足元に置いてある、靖友の荷物を少し持ち二人並んで家まで帰る。
「そうだ、これ。家の鍵。」
「おー、サンキュー。」
靖友はポケットから昔お揃いで使っていた猫のキーホルダーを出した。
「持ってたの?」
「名前もだろ。」
今でも使っている猫のキーホルダー。
「またお揃いだね。」
私が笑うと、靖友も嬉しそうに笑ってくれた。
2020.02.14