06:水の味の毒薬
「あ!君!」
遠くで誰かが誰かを引き止める声がする。
夕暮れ時、町にいた名前はその声を遠くに思っていた。
町に知り合いはいないし、止められる道理などないと思っていたからだ。
「君、君だよ!」
そう肩を叩かれて、初めて名前は振り返った。
走って追いかけて来たのだろうか。目の前には息を切らせた青年の姿。
先程から誰かを呼ぶ声は聞こえていたがまさか自分を呼ぶ声だとは思ってもみなかった。
「あ・・・私、ですか?」
目の前で息を整える青年を見て、名前はあ!っと声を上げた。
鬼殺隊の隊服と、見覚えのある顔。
先日、名前が傷を負ったあの夜に庇った隊士だった。
痛みに苦しんでいたあの夜の面影もなく元気そうな姿に、名前は微笑んだ。
「無事だと聞いていました。息災で何よりです」
「ずっとお礼が言いたかったんだ。風柱様のところにいると聞いていたけど。先日も伺ったけど、追い返されてしまって」
そう言われて、名前は先日夕刻に訪ねてきたのがこの人だったのではないかと思い当たった。
その後実弥が機嫌が悪かったのは、何故だか甚だ疑問だったが。
「なかなか会えず、申し訳なかったね」
彼は清水と名乗った。
「先日は俺を庇ってくれたと聞いた。そのおかげで俺は助かった、と。本当になんとお礼を言っていいか。ありがとう」
深々と下げられる頭を見つめながら名前は手を振った。
「いえ。隠の仕事をしたまでです」
「といっても命をかけるまでではないだろう」
そうなのだろうか。
隠の仕事の境界線なんてわからないし、あの時は本当に体が無意識に動いたのだから。
「傷が残ったと。目も見えなくなったと聞いた」
「ええ」
「本当に申し訳ない」
「いえ、むしろ感謝しております」
この傷は確かに体に深く残ったが、そのおかげで実弥の近くにいられるのだから。
「え?」
「いえ、独り言です」
片目を伏せながら名前は微笑んだ。
「よかったら、お礼がしたい」
どこか一緒に甘味でも食べに行かないか、と言う清水に名前は首を横に振った。
「仕事があるものですから」
「なら、甘味を持って伺おう。何が好きだ?」
「お願いしてよろしいのですか?」
「あぁ、もちろん」
少し考えた後、名前は口を開いた。
「近江屋のおはぎが良いです」
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次の日。
「名前さん!」
屋敷の門付近を掃除していれば、清水が姿を見せた。
手には昨日お願いした近江屋の包みが握られていて、律儀な人だなぁと名前は思う。
翌日には用意してくれたことや、言った通りのお土産を用意してくれるあたりに真面目さを感じた。
もちろん、このおはぎは実弥の好物である。
実弥は長期任務でここ数日は不在にしている。
そのことを少しの会話で告げると、清水は近所の散歩を提案してきた。
正直屋敷を離れるのは気が進まなかったが、清水の懇願とお土産まで持って来てもらって、との申し訳なさが勝って名前は清水の後に続いた。
「名前さんは結婚してるんですか?」
当たり障りのない会話の中で唐突な質問に名前は目を見開いた。初めて人にされる質問だった。
「しておりません」
世間でいう、良い歳に自分も引っかかっているのだなと感じた。
普段、屋敷で引き籠った様な生活をしているからすっかり年齢の事なんて気にしていなかった。
「・・・では、良ければ、私と結婚しませんか」
「え?」
冗談の声色でなかった。
清水の目を見れば決意の色が滲んでいて、名前は慌てた。
まだ、数回しか会ってない相手に言う様なことではない。何か事情でもあるのか。
「急にこんなこと言われても困るでしょうが、貴女が思っているより、貴女はずっと魅力的な人です」
少し頬を赤く染めながら清水は紡ぐ。
「それに。一緒に暮らす女中が結婚していた方が、風柱様も安心ではないですか」
その言葉に名前は息を飲んだ。
「それは、どういうことですか」
実弥のことを言われ、名前の声が上ずった。
「皆、噂していますよ。急に風柱様が女中なんて置くものだから、愛人に違いない、と」
そんな事を言われているなんて微塵も知らなかった。
そのうち実弥も結婚するかもしれない。
その相手は自分ではないと思っていたが、自身がその可能性を邪魔していたなんて。
ずっと思っていた痛いところを突かれたようで、ずきりと心が軋む。
「ぜひ、考えてみてください」
優しく微笑む清水と対照的に、名前の心は暗く落ちていた。
MONOMO