幼い頃に亡くなった父親のことを、彼女はほとんど覚えていない。

 母親もすでに他界していて、ずっと兄に守り育てられてきた。年が離れているといっても八つ程度で、それはなかなかに大変なことだったろうと、十七歳になった彼女は思う。

 イレイク侯爵家といえば、その名を知る者も多い家柄だったが、その血筋に違わず長子フィオルは騎士として国に貢献していた。
 騎士といっても、彼の場合は魔導騎士。剣と魔導の力を用いて戦い、あるいは守るのだ。

 身体の弱い妹を守るためにと、副団長にまで上り詰めて。

「レミ、レミエル。どこにいる?」
「ここよ、兄様」

 二日ぶりに屋敷へと戻ったフィオルは真っ先に妹の名を呼んだ。 その声はよく通り、すぐに聞き取ったレミが声を返した。
 言葉の多くはないその答えに、フィオルはただの二日ぶりだというのに懐かしさと愛しさを感じて、声のもとへと駆けた。

 彼らの住む屋敷はそれなりに広く、けれど生まれ育ち熟知しているために目的とする場所へ向かう一番の方法など心得ている。フィオルは手近な窓から庭へと抜け出した。

「お行儀が悪いわ、兄様」

 幾ら近いとはいえ扉ではなく窓から出てきたことをレミはたしなめる。

「可愛い妹に……いや、綺麗な妹に早く会いたくて」

 曽祖父母の時代に植えられたという木の下で、舞い散る薄紅の花吹雪を浴びるその姿は、とても幻想的で、実兄である彼さえも息を飲むほどに美しい。
 だが妹の方は、そんなことなど興味はないといった風に表情を変えることもなく再び木を見上げた。

「寂しくなかったか、レミ」
「大丈夫。伯母様が来て下さっていたし、ケインも来てくれたわ」
「―――――ケイン?」

 澄んだ声で紡がれた名前に、フィオルはぴくりと反応した。
 知らない名前ではない。むしろとてもよく知っている。……だが彼の表情は明るくはない。

「兄様がいらっしゃらなくて平気かと、覗きに来てくれていたの」
「……へぇ、ケインが」

 フィオルの声が僅かに低くなったことに気付き、視線を戻したレミは小首を傾げた。そんな彼女に優しい微笑みを見せ、不意に裏口を見遣ったかと思うと、フィオルはおもむろに足元の小石を拾い上げて力いっぱい投げた。

 すると不思議なことにずっと離れた位置のそこにそのままの勢いで飛んでいき、高い音をさせてぶつかった。下に落ちることなく埋まりそうなほどの衝突を見せた小石に、すぐ脇の裏口の扉から現れた青年は軽く眉間に皺を寄せる。

「……お前な。オレに何の恨みがある」

 黒い髪に碧の瞳のその青年は、無愛想な様子で二人に歩み寄るとフィオルを睨み付けた。
 何故か二人は睨み合って、レミはそんな彼らにため息を吐く。

「うちの箱入り娘に手を出すなって言わなかったっけな、ケイン?」
「出してねーよ、バカフィオル」
「俺のいない隙に!」
「聞けよ、人の話を」

 対照的な金の髪と、どこか似ている緑の瞳と。
 親友であり血縁であるフィオルのいつもの態度に、ケインは呆れをありありと顔に浮かべ、肩を竦めた。

「このシスコンが」

 ケインの言葉に、だからどうしたとフィオルはレミを抱き寄せた。レミもまた、されるがままに抱き締められて。
 二人きりの家族だったから、互いをただただ愛していた。





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