かたちに出来ない



「これは社員さんの分、それから……」
 お菓子作りは好きだ。だから、バレンタインというイベントもわりと好きだったりする。こんなに堂々とお菓子を配り歩いても、今日はそれが普通。おまけに今年からは、契約しているデザイナーの好意で材料も調理器具も好きなだけ使えることになった。そりゃ、張り切らないわけが無い。
 お世話になった人に贈ろう、と思いながら準備していたのだけれど、なんだかものすごい量になってしまった。そんなの当然、と言われればそうなんだけど。プロデュース科にいたころと今じゃ、交友関係の広さが全然違う。この1年弱、たくさんの人に出会って、たくさんの人から刺激を受けてきた。そしてまだ、ボクは折れずにカメラの前に立てている。
 両手じゃとても収まらないので、会社からカートを一台拝借させてもらった。備品に園児用のお散歩カートがあるというのもなかなかではあるけれど、まあもう慣れた話だ。あの破天荒なデザイナーを運ぶには、確かに最良の手段だろう。あの人、すぐ暴れるし。
 朝は山積みになっていたカートの中身は、だんだんとそのかさを減らしていた。もうそろそろ、底が見えてもおかしくないくらいだ。一度デザイナーに出くわして、カードごと強奪されかけた時はどうしようかと思ったけれど、なんとか回避している。
「あとは……っと」
 まだ渡していない社員さんたちの分。それから、ラッピングビニールの中からちらりと顔を出す、薄いブルー。ボックスタイプのそれは、他のものよりも少しだけ大きくて、緑色のリボンで飾り付けられていた。
「…………ちょっと箱、潰れちゃってるなあ」
 他のチョコで隠すように運んでいたせいか、箱の端が重みで歪んでしまっている。中身……オペラの方はもしかしたら無事かもしれない。ただ、贈り物として渡すにはあまりにも不格好すぎだ。
 作ったのは、コーヒーシロップやらガナッシュやらの層が重なった、オペラケーキというチョコレートのケーキ。試作した感じだと、上手くいっていたと思う……多分。作る時には夢中になっていたけれど、ラッピングまでしてから他の人と分けてしまったことが恥ずかしくなっていた。
「っていうか、せんぱいのことだから、チョコレートなんてボクから貰わなくてもたくさん貰ってるよなあ……」
 街を歩いていても、Knightsの姿はよく見かける。モデル仲間にもファンだという子はいるし、きっと今日はいつも以上に声をかけられているんだろう。
 お菓子なんてしょっちゅう作っているし、たまに帰国してきたせんぱいに渡すなんてこともよくあることなのに。「二月十四日に渡す」ということが、どうしてこんなに意味を持ってしまうんだろう。
 時計を確認すると、次の撮影の準備を始める頃合となっていた。撤退しよう、とカートの持ち手に手をかけつつバックしていくと、ゴッ、と右足が何かにぶつかる。あれ、さっきまではここに何も無かった気がするんだけど……? 足元から、「痛いっ」とよく知っている声が聞こえてくる。
「えっあれ、せんぱい?!」
 声がした方を見下ろすと、廊下の端にしゃがみ込んだれおせんぱいの姿があった。涙目になりながら、その背中を摩っている。
「なんだチガヤか?! いきなりぶつかったら痛いに決まってるだろ! 今の痛みでワンフレーズ飛んだぞ、世界の損失だ!」
 どうやらボクの足は、通路に背を向けて丸まっていたれおせんぱいにヒットしたらしい。そのせんぱいはというと、あちこち跳ねた髪の毛をぴょこぴょこさせながらこちらを恨めしそうに睨みつけてきていた。近くの壁には、油性ペンのようなもので音符が描かれている。仕事はもう終わったのだろうか、今日は衣装ではなく濃い紫のジャケットに、ジッパーの付いたオレンジのインナーという格好だ。
「や、まさかこんなところに座り込んでると思わないじゃないですか……」
「仕方ないだろ〜、スオーたちも見失っちゃったし。どっちに行こうか考えてたら、霊感が湧いてきたんだ。でも今ので忘れちゃったな……いや、この痛みはいい刺激だっ、どんどんフレーズが湧き出てくる気がするっ!」
「せんぱい、ストップ! 紙、ありますから!」
 もう割と手遅れかも、と思いながらもカートの中に置いていたコピー用紙の束を引っ張り出す。プロデュース科のときの癖が未だに抜けないようで、今でも白い紙は持ち歩いていた。
「そういえばチガヤ、やたらとおっきいカート引いてるな。なんだそれ?」
 あっ待て、言うなよ、とせんぱいがこちらを制し、首を捻る。それから、スンスンと鼻を鳴らし始めた。なんだか、小動物の面倒でも見てるような気分になってくる。
「そういえばなんか甘い匂いがするな。お菓子の匂いみたいな……わかった、チョコレート菓子だな!」
「まぁ、そんな感じですね」
「なんか歯切れ悪いな〜? まあいい、おれにもひとつちょうだい! ちょうど作曲して脳が疲れてたところだしっ」
 今まで座り込んでいたせんぱいが、急に立ち上がってカートの中を覗き込む。待って、と制する暇もなく、彼の腕はうちのひとつを掴んでいた。ホライズンブルーの包装紙に緑のリボン、他のとは明らかに包み方が違うものだ。
「えっ、それっ」
「これが一番大きいやつみたいだから、おれはこれをもらうな! あ、もしかしてこれ、もらっちゃまずいやつだったか?」
「いや……箱、潰れて……」
 ボクの言葉に、れおせんぱいは「ん〜?」と手に持ったそれを見つめる。せんぱいが掴んだこともあり、先程よりも箱の崩れは悪化していた。
「いいよいいよ! うまいものに綺麗も汚いもないっ」
 にっ、と上げられたせんぱいの口から犬歯が覗いた。それからばりばりっ、と軽快な音を立てて、包みを破いていく。予想通り、中身は形崩れてぼろぼろになっている。
「これなに? 美味そうだな!」
「えっ、と……オペラ、って名前なんですけど」
 そう言った時には、もう既にケーキはせんぱいの口に放り込まれていた。素手でそのまま触ってしまっているので、手がベタベタになっている。
「オペラ? 面白い名前してるなこれ! 一口噛む度に音楽が聴こえてくる気がしてきたっ」
 星屑が散りばめられたみたいな瞳でせんぱいはそう言うと、すぐに転がっていたマーカーを取り始めた。するすると、あちらこちらに新しい音符たちが散りばめられていく。せんぱいの頭の中にはげきが浮かんでいて、管弦楽の音が鳴り響いていたりでもするんだろうか。いつの間にか、箱の中身は空になっていた。
「手、手は拭いてくださいせめてっ……!」
 ポケットに入れていた携帯から、着信音が聞こえて来る。そろそろ次の仕事に向かわないと、本格的にまずい時間だろう。もしかしたら、せんぱいを探すお兄ちゃんたちからかもしれない。
「……敵わないです、せんぱいには」
 今はまだ、伝えられないけれど。心の中にそっとしまっている気持ちを、せんぱいの背中に小さく呟いた。


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