硝子は月に映る



 あんなに蒸し暑かった日差しも、もうすっかり穏やかになっていた。そろそろ衣替えの時期だなあ、と捲っていたブラウスの袖を伸ばす。
「おおい、茅さんじゃないかあ!」
廊下の端から端まで響く声で、呼び止められた。この声には聞き覚えがある。恐る恐る振り返ると、背の高い大柄な男の人が、こちらに向けてずんずん近づいてくるところだった。
「あ、三毛縞せんぱい、どうも……」
「気軽にママでいいって言っただろう? 俺と茅さんとの仲じゃないか」
 いつの間にかボクの目の前に来ていた三毛縞せんぱいが、ははは、と豪快に笑い声をあげる。仲も何も、一度海洋生物部で奏汰せんぱいを探しに行った際に話をして以来だ。せんぱいがボクの名前を覚えていたことに、驚きが隠せない。
「どうしたんですか、急に呼び止めて」
「ああ、そうそう!実は茅さんに紹介したい案件があってなあ」
 え、ボクに? と首を捻っていると、斑さんが持っていた封筒から紙の束を差し出した。どうやらこれは、ライブの依頼書のようだ。企画名は、【お月見ライブ】。
「先ほど申請が通ったらしくてなあ。今プロデューサーとアイドルを募っているところなんだ」
「これ、お兄ちゃん……『Knights』の方に回せばいいんですか? お月見と『Knights』ってあんまり合わないような気がしますけど」
 そうじゃないぞお、と三毛縞せんぱいがまたひと笑いしてみせる。『Knights』と【お月見ライブ】がそんなに相性が良くなさそうなのは三毛縞せんぱいもわかっているみたいだ。……え、じゃあなんでボクに?
「俺が声を掛けたかったのは茅さんになんだなあ」
「え?」
「このライブのプロデュース、やってみないか?」
 ……ますます、意味が解らない。え、なんで?
「といっても、アシスタントプロデューサーみたいな形ではあるんだけどなあ。正式なプロデューサーはもう決まりそうだから、茅さんには補佐を頼みたい」
「あの、話が全然見えないんですけど、なんでボクに?」
 ボクが普段プロデュースを担当しているのは、専ら『Knights』だ。専属というわけではないからもちろん他のユニットのプロデュースもすることはできる。でも、最近やっとプロデュースとして形になってきた程度で、どのユニットが参加するかもわからないライブのプロデュースがうまくできるとは到底思えない。
「水族館の時に聞いた様子だと、茅さんは『Knights』以外のユニットを見る機会があんまりないだろう? この機会に、他のユニットのライブに携わってみるのはどうかと思って。いきなりメインプロデューサーは荷が重いだろうけど、補佐という立場ならまだ安心できるだろう」
「斑さんが気にすることですか、ボクの経験値なんて」
「ははは、俺はお節介だからなあ。でも断る理由もないだろう?」
 確かに、ないけど。
 ボクが頷いたのを見て、斑さんが「決まりだなあ!」とボクの肩を叩いた。

 〇 〇 〇

「茅殿!」
 颯馬くんがボクを見つけて手を振ってくれた。見ると、『紅月』の鬼龍せんぱいも一緒だ。あの後聞いたところによると、【お月見ライブ】の参加ユニットは『紅月』と『Ra*bits』の2ユニットということらしい。知り合いのほとんどいないボクにとっては、同じ部活に所属している颯馬くんが唯一の頼りだ。
「茅殿も企画の話し合いに立ち会うのであろう?共に参ろうぞ」
 どうやら颯馬くんたちは、行先が同じであろうボクのことを見かけて声をかけてくれたみたいだ。鬼龍せんぱいの方を恐る恐る見ると、そんな顔しなくても取って食いやしないぞ、と笑われてしまった。一緒に向かってもいい、ってことなんだろう、多分。
「颯馬くんがいてよかった、補佐とはいえ知らない人しかいない企画のプロデュースなんてどうしたらいいのかわからないし……」
「我も茅殿が企画に携わると聞いて喜ばしいかぎりである。茅殿とは『くらす』も異なるゆえ、部活動でしか交流の機会がないであろう?」
 『Ra*bits』のメンバーとは学院祭の時に会ってはいるものの、その後特別何かあったというわけではなかった。『紅月』に関してはほぼ接点がないに等しい。唯一気を遣わずに話せる颯馬くんですら部活以外の共通点がないのだから、頭が痛くなってしまう。兄や『Knights』の皆に【お月見ライブ】の補佐の話をした時も、反対こそされなかったがなぜボクが声をかけられたのかと皆怪訝そうだった……皆、というか主に兄が。三毛縞せんぱいが一体何を思ってこの企画をボクに紹介してきたのか、未だに謎だ。
「そういえば、お前瀬名の妹だったか? 見れば見るほどそっくりだな」
 不意に鬼龍せんぱいがボクの顔を覗き込んだので、少し飛び上がってしまった。悪い人じゃなさそうなのはわかるんだけど、それでも一度そう思ってしまうと怖いものは怖い。
「ああ、悪い、他意はなかったんだが……なるほどな、ってことは普段は『Knights』のプロデュースを担当しているんだろ。今回は月永のお守り役ってところか?」
「えっ、月永って、月永レオ……せんぱいですか」
 なぜかせんぱいは納得しているようだけど、寝耳に水である。三毛縞せんぱいはそんなこと一言も言ってなかった。そもそもライブを行うのは2ユニットのはずだし、あの様子だと『Knights』の皆は【お月見ライブ】の詳細を聞いていないはず。それに、現時点で月永レオせんぱいは、『Knights』の活動にほとんど顔を出していないのだ。それどころか……。
「今回の企画の依頼主は月永のはずだったが、聞いていないのか?」
 ふるふる、と首を横に振る。
「ボクは三毛縞せんぱいからお話をいただいたので……」
「ああ、そういうことか。三毛縞から月永に、依頼主が引き継がれたんだって、蓮巳の旦那が言っていたな」
 そうであったな、と颯馬くんが頷いた。どうやら知らなかったのはボクだけだったらしい。三毛縞せんぱい、伝え忘れたんだろうか……?
「ややっ、あれは『らびっつ』であるな!」
 颯馬くんが見つけたとばかりに噴水に向かい、鬼龍せんぱいもその後を続く。ボクも慌てて歩行ペースを上げた。

「お〜い、『らびっつ』の諸君♪」
 颯馬くんが噴水前に集まっていた『Ra*bits』のメンバーに話しかける。……なんていうか、こう揃ってみると思っていた以上に自分の場違い感がすごい。
 なんとなく話に入りづらくて、輪の隅っこで必死に聞き役に徹することにした。聞いている様子だと、いつもより活動資金に余裕があるようだ。どうやら月永レオせんぱいがなずにゃんせんぱいと鬼龍せんぱいに、何かの報酬としてお金を渡しているらしい。
 月永レオ。もちろん名前は知っているけれど、まさかそのこの企画で聞くことになるとは思わなかった。ちょっぴり、背筋が伸びる。
 お兄ちゃんが、ずっと探していた人。
 少し前に一度だけ、辺りに楽譜を巻き散らかしていたところに出くわし、楽譜の回収を手伝ったことがある。眠れなくなって少し外を出歩いていたときだったから、まさか公園で人に会うとは思っていなかったし、それが『Knights』のリーダーだとは想像もしていなかった。まあ、それが月永レオせんぱいであったことは、後々知ったのだけれど。ボクを見て真っ先に「おまえ、セナにそっくりだな!」と叫んだその人が、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳をきらきらと輝かせてボクの顔を覗き込んだのを今も鮮明に覚えている。純真無垢、という単語がぴったり合う、まるで子どものような人。どうしてお兄ちゃんがこの人に拘っているのか、未だにボクにはわからない。
 お兄ちゃんが……お兄ちゃんが何に苦しめられているのか。ボクの知らないお兄ちゃんは、一体何を見てきたのか。あの人だったら、もしかしたら知っているかもしれないと思った。だから、いつか会いたかった。そのタイミングが今日になるとは、思っていなかったけれど。
「あの、なず……仁兎せんぱい」
 皆の話を聞いていたなずにゃんせんぱいに、恐る恐る声をかける。
「ん? 泉ちんの妹の……茅ちんだったな!どうした? おれでよければ力になるぞ〜」
「二百万円……でしたっけ、そんな大金、何のお仕事なのか気になって……」
 報酬、ということはなずにゃんせんぱいと鬼龍せんぱいは、何かを依頼されているということだ。【お月見ライブ】以外にも月永レオせんぱいは『Knights』には内緒でなにかを企んでいる可能性がある。
「ちょ、創ちんに聞こえていたらまた気を失っちゃうから、具体的な金額は出さないようにしてくれよ〜? 茅ちんは詳しい話を聞いてなかったんだっけな。おれたちは【ジャッジメント】に参加してほしいってレオちんから頼まれて……」
 そこまで話してから、なずにゃんせんぱいが何かを思い出したような顔をした。女の子みたいにくりくりと丸い目が、小さく泳ぐ。わかりやすいくらいにやらかした、って言っている顔だ。
「ううん、いやいや、何でもない。ごめんな、変なこと言って」
 それよりおれたちも【お月見ライブ】の話し合いに参加しないとな、となずにゃんせんぱいが輪の方を指さす。そうですね、と言いつつ輪のほうに身体を向けたものの、頭の中はさっきせんぱいが出した単語がぐるぐる回っていた。
 【ジャッジメント】。確かになずにゃんせんぱいはそう言っていた。それは、先日月永レオせんぱいが『Knights』に開催を宣言したライブの名前。今のお兄ちゃんたちのレッスンは、【ジャッジメント】に向けての練習が主のはず。
 『Knights』の内部粛清。200万円の依頼費。依頼されたのは、『Ra*bitts』のリーダー仁兎なずなと、『紅月』の主力鬼龍紅郎。

「……月永レオせんぱい、何を考えて……?」

「スマホ没収〜☆」

 どこかで聞き覚えのある声が、突然降ってきたのはその時だった。

 〇 〇 〇

「あの、あの」
 天満くんが案をたくさん出してくれたおかげで、『お月見ライブ』の企画は順調に進んでいた。とりあえず今日は、次回の練習の日程を決めたところで解散という形になった。あの人は一体どこに行ったのかと辺りを見回すと……あ、いた。噴水の陰に座り込んで枯れ葉に音符を並べている。
「あ、あの、コピー用紙持ってるので、もしよかったら使ってください」
「ん? おお、ありがとう!愛してるよ!えっとおまえ……」
 小さな子が大好きなお菓子を貰うときみたいに、ぱっ、と月永レオせんぱいが顔を上げる。髪の毛には、葉っぱの屑がくっついていた。
「セナの妹!なんでここに?」
 答えを返そうとしたが、待って、言わないで!と制される。ふるふると頭を振ったせいで、せんぱいの身体にくっついていた木の葉が辺りにパラパラと舞う。
「ここにいるってことは、さっきまで近くにいたってこと? そうだ、おまえも『お月見ライブ』の関係者だったな、全然喋らないから忘れてた!」
 どうやらせんぱいの中で、なにかが繋がったみたいだ。わはは、と軽快な笑い声をあげる。……確かに今日はほぼ喋っていなかったけど。一応議事録とかは纏めていたから、何もしなかったわけじゃない……多分。反論する気力もなく呆然とせんぱいの方を見つめるボクをよそに、せんぱいは渡したばかりの真っ白な紙に五線譜を書き始めていた。みるみるうちに周囲に紙の束が積まれていく。
 膝をつき、せんぱいの邪魔にならないようにそっと近づいた。
「ボク、せんぱいに聞きたいことがあるんです」
「まって、この曲が書き終わったら聞くから!」
「せんぱいは、【ジャッジメント】で『Knights』を本当に潰す気なんですか」
 ぴた、と月永レオせんぱいが手を止める。
「……だとしたら、邪魔しようっていうのか?」
 低い、低い声。
 切れ長の目が、ぎろっとこちらを向く。さっきまでおもちゃでじゃれる子猫みたいだったせんぱいは一瞬で消えてしまった。今の彼は、自分のテリトリーに邪魔が入った時の獅子のようだ。光が消えてしまった瞳で、ボクの心の中を抉るように睨みつけている。思わず、後ずさってしまいそうになったところをぐっと堪える。
「おれの青春……おれの『Knights』が、腐り果てた集団に成り下がっているなんてことは、おれが許さない。なあ、セナの妹。もしおまえが、大好きなお兄ちゃんの為におれに泣きつこうとかそういうことを考えてるんだったら、おれは容赦なくおまえを捻り潰す」
 瞳は獲物を捉えたまま、せんぱいがゆらりゆらりと立ち上がる。
「『Knights』は誇り高き騎士集団だ。お前らが仲良しごっこをするための場所じゃ、ない」
 本当に捕らえられて、喉を潰されてしまうんじゃないか、なんてふと頭を過ぎる。そう思えてしまうくらい、せんぱいの瞳はぎらぎらと輝いていたし、身体は先程よりも随分と大きなものに見えた。
 ……この人は多分、思い付きのお遊びで【ジャッジメント】を始めたわけじゃない。いや、思い付きかもしれないけど、多分、真剣に『Knights』に向き合って、その真価を確かめようとしているんだ。
 その意味を理解した瞬間、ずん、とお腹の奥の方に重しがかかる。痛くて、重い。この人の抱えているものの大きさ、向き合おうとしているものの大きさ。そりゃそうだ、お兄ちゃんにとってもそうであるみたいに、『Knights』はきっと、この人にとってもかけがえのないもののはずなんだから。
 ボクにはそんなもの、ない。どんなに自分の身体がぼろぼろになっても、自分のすべてをぶつけられる……いや、ぶつけなきゃいけないものなんて。ぶつかって傷つくくらいなら、誰かの後ろにいた方がマシだと思って生きてきたのだから。
 ……待って。あるじゃないか。
 勝てっこないって、自分が出来損ないなのが悪いって、諦めてしまっていただけで。だいじなのに、逃げ続けていた……。
 そう思ったら、勝手に言葉は口をついて出ていた。
「……ボクは【ジャッジメント】を止めようとは思っていないです」
 せんぱいは、先程と変わらず目の前に立ち塞がったままだ。
「……じゃあ、どうしたいんだ、おまえは」
 なんで三毛縞せんぱいは、ボクに補佐なんて声をかけてきたんだろう。三毛縞せんぱいの「お節介」の意味はよく分からないけれど、きっとこれを逃したらもう二度とこの機会は訪れないような気がした。
 ボクが、どうするべきなのか。
 長い間、『Knights』を留守にしていたせんぱいは、【ジャッジメント】で『Knights』に向き合おうとしている。真正面から、ぶつかることで。
 ボクは。
 ずっと、向き合ってこなかったものがある。大好きなのに、大切なのに、誰よりも近くにいてくれたはずなのに、ずっとその姿をきちんと見つめることが出来ずにいた。
 いうことを聞いていれば、守ってくれる存在だったからだ。あの人は、いつでもボクにとって正しい道を選んできた。もう、ひとりになるのが嫌だった。誰でもいいから、ボクのことを見ていてほしかった。お兄ちゃんが選んだ道を進めば、絶対に守ってくれる。あの人は、そう思わせてくれた。

 だからボクはその陰に隠れて、お兄ちゃんの顔を正面から見ようとはしなかった。この学院に転校してきてからも、今の今まで、ずっと。

 せんぱいに近づけば、もしかしたらお兄ちゃんのことを知ることができるかもしれない、と思っていた。でもそれだけじゃ結局ボクはまた、あの人に守られようとしてしまうだろう。このままじゃ良くない、って心のどこかで思っているのに。

 真正面から。
 せんぱいがそうしたように、真正面から。

 ボクは立ち上がって、そっとスカートをはらった。それから、せんぱいの方を見つめなおす。先程からこちらの様子を伺っているその瞳に、お兄ちゃんとそっくりな顔が映り込んだ。本当に、よく似ている。
「ボクに、『ナイトキラーズ』のプロデュースをさせてください。……プロデューサーとか、要らないかもしれないですけど。それでも、やりたいんです」
 誰のためでもない。『Knights』を成長させるためでも、レオせんぱいに協力したいわけでもない。お兄ちゃんと向き合うためには、きっとそれがいちばんいい手段だ。
「ボクにも、正面から闘わなきゃいけない、大切な人がいるんです。せんぱいと同じように」
 膝はガクガク震えていたけど、不思議と怖くはなかった。想定外の答えだったのだろう。行き場の失ったせんぱいの手は空を掴んでは離して、という仕草を繰り返している。ボクの言葉を飲み込んだのか、せんぱいの口角がにっ、と上がった。ボクを睨みつけていたその眼は、爛々と輝いている。さっきのせんぱいは、どこへ行ったのやらだ。
「事情はよくわかんないけど。いい顔するんだな、おまえ。えっと、名前は?」
 身体が熱を放っているみたいだ。こんな感覚、いつぶりだろう。ゆっくりと深呼吸をして、息を整える。
 とんでもない事を言ってしまった。お兄ちゃんにきつく言われるだろうな。お兄ちゃんだけじゃない、なるちゃんやくまくん、かさくんにもびっくりされるだろう。
 でも、なんでか身体は軽かった。
「……茅です。瀬名茅」
「チガヤか、いい名前だな! ナズとクロにも紹介しないとな〜!」




 お兄ちゃん、我儘を言ってごめんなさい。
 でもボクは、『瀬名茅』というボクとして、あなたと向き合わなきゃいけないんです。
 そんな必要ないって、言われるかも知れないけど。

 これは、ボクが決めたことなので。


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