指輪と姫君



「チガヤ、こっち向いて」
 昼間騒がしかった事務所にはもう事務所にはほとんど人気がなくなっていた。青葉せんぱい……青葉副所長はまだ残っているはずだけど、いつの間にか姿が見えなくなっていたからお手洗いにでも行ったのだろう。本当にあの人は、いつも忙しそうにしている。
 来月発売予定の見本雑誌から視線を上げ、どうしたのれおくん、と振り返る。同じソファに陣取っていたれおくんは、確か先程まで作曲に夢中だったはずだ。目が合うと、おもちゃ箱の中にひっくり返したビー玉みたいにきらきらした瞳がきゅっと細くなった。
「くさい台詞とかあんまり得意じゃないから。こういう時、なんて言ったらいいのかわかんなくて」
 ボクの左手が、れおくんの掌に包まれる。男性にしては少し華奢で、でも大きな手。
「普段からいっぱい言ってるじゃん。『愛してる』とか『お姫さま』とか」
「だってあれはファンサだし……」
 う〜、とれおくんが頭を振ると、その髪の毛がぴょこぴょこと跳ねる。まあ改まってそんなこと言われても、ボクの方もどうしたらいいのかわからなくなりそうだけど。
「それより。……よかった、ぴったりだ」
 どうだ、とれおくんが覆っていた手を放した。
「あ、指輪……選んでくれたんだ」
 ボクの薬指には、細いシルバーのリングがはめられていた。派手な装飾はほとんどない、れおくんが選んだにしては、すっごくシンプルなデザイン。埋め込まれた5粒の石が、事務所の照明に反射してきらきらと眩しい。
「おれにはあんまりわかんなかったから、チガヤの雑誌とか読んで見様見真似で」
「好きなの、選んでくれればいいのに」
 れおくんが女性向けの月刊誌を読み漁っているところを想像すると、なんだか微笑ましくなってしまった。それ、『Knights』の皆に何か突っ込まれたりしなかったのかな……?
「欲しいって言ったのは、チガヤだからな。チガヤが指輪に拘るの、ちょっと意外だったけど。そういう儀式的なものとか俗習的なものは嫌いだと思ってたから」
 そういう風に思われてたんだ、と少しびっくりしてしまった。まあ嫌いとまではいかなくても、あながち間違いではないんだけど。
 ボクも別に、本当はそこまで指輪に強い憧れとかがあったわけじゃないんだけどな。ただ、あまりにもあの人が口煩かったから、ってだけだ。あの人……お兄ちゃんが。ボクとれおくんの結婚に猛反対して、最後の最後まで渋ったのはお兄ちゃんだった。渋々承諾してくれた以降も、この時期は『Knights』の新曲発表のタイミングと被るから避けろだの、ボクがモデルをしているブランドとのタイアップが来るだろうからやめろだの、発表のタイミングに関して事務所以上に口を出してきた。仕事に関しては、ボクひとりが判断できる問題じゃないから、まだわかる。でも、ボクとれおくんの問題――指輪を買うかどうかを、何度も何度も話題に出されて、その度に止められるのはどうしても納得がいかなかった。だから、れおくんにお願いした。
 黙ってしまったボクを見かねてか、まあおれも貴重な経験をしたよ、とれおくんが頭を撫でてくれる。よく見るとその手の薬指にも、ボクが付けたのと色違いの……ゴールドの指輪がはめられていた。
「え、れおくんもしかしてそれずっと付けてたの? お兄ちゃんとか何か言わなかった?」
「いや、さっきだよ。オバちゃんもどこか行ったし、渡すなら付けようと思って」
「……そっか。無くさない方法、考えなきゃだね。お仕事中ずっと付けてるわけにもいかないし」
 れおくんが今日無くさなかったのは割と奇跡に近いかもしれない。指輪を外し忘れたとしても無くしたとしても、大事故になってしまう。正直、この人ならやりかねないし。お兄ちゃんがきっとそれを見越して言っていたんだろうな、というのは何となく理解できる。
 お兄ちゃんは正しい。それは、わかるけど。
 ボクは、自分で選びたいんだ。そうしなきゃ、いけない。

〇 〇 〇

 梅雨の時期に差し掛かり、ジメジメとした日が続くようになった。撮影で着る服も夏服が増えてきたように思う。仕事を終えて慌てて自宅に戻り、自室にあるテレビのスイッチを入れる。ちょうど、『CM後はいよいよKnightsの登場!新曲を初披露』のテロップが画面を流れたところだった。
「ま、間に合った!」
 特番の大トリ、新曲発表。録画はしているから別に見逃しても何ら問題はないのだけど、どうせならリアルタイムで見たいものだ。少し時間には余裕があるみたいだし、とりあえず何か飲み物でも持ってこようかな。今回の曲、れおくんから聞いた話だとブライダルがテーマだったはず。お兄ちゃんがタイミング最悪、とぼやいてたらしいけど、きっとドラマかCMかなんかのタイアップ曲なんだろう。確かに最悪ではある。
 戸棚からミネラルウォーターを持ってきて、蓋を開ける。画面ではちょうど、司会の紹介で『Knights』が登場したところだった。
「おーーっ……」
 気合入ってるな、というのが第一印象。白基調で、普段の騎士? 軍服? の衣装よりは、どちらかというとスーツに近いかもしれない。胸元には、皆の髪色に合わせた薔薇の花。ジャケットの襟には、ナイトのピンバッジ。片手だけ、メンズグローブ……でいいのかな、あれを付けている。ファンクラブに事前告知とかはなかったはずだけど、これ告知なくても何となく曲のモチーフ察せるんじゃない?って感じのあからさまな衣装だ。
『お姫様!今日は俺たちのために来てくれてありがとうね!』
 お兄ちゃんのとびっきりのキメ顔が画面いっぱいに映し出される。眉間に皺を寄せながら「チョ〜うざあい!」と不満をぼやいている姿ばかり見慣れているせいで、爽やかな笑顔を振りまいているその姿になんだか笑ってしまった。プロなんだよなぁ。
 れおくんはというと、画面の右端にいたかと思ったら逆サイドに行ったり……どうやら客席のほうを見回しているようだった。特番ということもあって、観覧客もいつもより多い。自分のファンを見つけては、両手で指差しをし、例の挨拶をし……何なら投げキッスまで飛ばしている。あれを恥ずかし気もなくできるのに、どうして変なところが不器用なんだろう。
 ぎら、とれおくんの手……手袋を付けていないほうの手が、照明の光に反射して光ったような気がした。
「…………」
 うん。何も、見てない。
 ボクは深呼吸して、画面に向き直った。

『前回とは打って変わった華やかな衣装ですねえ』
『ありがとうございます。今回は曲のimageに合わせて衣装を選んでいただきました』
 司会者の隣に座ったかさくんが、微笑みながら軽く会釈をする。新衣装に身を包んでいるかさくん、いつもに増して紳士感がすごい。こういう場で喋っているかさくんを見ていると、やっぱり大きくなったなあ、って思ってしまう。かさくんの隣では、なるちゃんが「そうなのよ」と頷いた。なるちゃん自身はこういうの、そんなに好きじゃないかもしれないけど……やっぱり、本当に似合うんだよね、細身のスーツ。
『お姫さまたちに伝えられていると嬉しいわ』
『どう〜?似合う〜?』
 にっこりと微笑む嵐ちゃんの後ろから、くまくんがひらひらと手を振る。観客席から、女の子たちの歓声が大きく上がった。うん、今日も調子いいな。さすがくまくん。
 司会者の視線が、れおくんの方に向く。衣装と言えば、とれおくんの手元を指さした。
『月永さんが付けているこの指輪も衣装なんですか?』
 くまくんとれおくんの間に座っているお兄ちゃんの眉が、わずかに――ほんのわずかに、動いたのが見えた。カメラがれおくんの手元に寄る。左手の薬指には、装飾品の少ないゴールドの指輪。

 れおくんのいいところ、まず最初に挙げるとしたら。

『─────おれ、そういえば結婚した!』
『えっ?』
『ちょっと』
『結婚ですか〜、どなたとです?』
『チガヤ!』

 嘘をつけないところ、だと思う。

〇 〇 〇

 ぱしゃん、と手元からペットボトルが滑り落ちたところで、自分がしばらく固まっていたことに気が付く。無意識のうちに携帯電話の電源を落としていたようで、右手に持った端末のくろぐろとした画面の中から、自分の顔が覗いていた。
 う〜ん、ちょっと落ち着きたい。気が付いたら新曲も最初の方聞き逃していたし。
 零れた水をタオルで拭いてから、録画を巻き戻していく。『Knights』の出番のところから、もう一度。見返してみたところで何かが変わるわけじゃないのはわかるけど、ボクにだって気持ちを整理する時間は必要だ。
「う〜ん、よりにもよって今日付けて行っちゃうか……」
 考えられる最悪のパターンなんじゃないかな、これ。
『─────おれ、そういえば結婚した!』
『えっ?』
『ちょっと』
 一瞬だったからあんまり見られなかったところ―問題のシーンで、一時停止する。ぽん、と何かを思い出したように手を打つれおくん。なるちゃんとくまくんは、突拍子もない発言に驚きを隠せないみたいな表情。かさくんは、何かれおくんに言おうとしたけど、ぐっと堪えてるみたいだ。それからお兄ちゃん。れおくんの肩を掴んで……
 ……ああこれ、めちゃくちゃ怒ってるやつだ。
 少しだけ、巻き戻す。指輪の話題になったとき、お兄ちゃんだけ表情が変わった。この表情、ボクは何度も見たことがある。ボクが何かお兄ちゃんの意に反したこと……間違ったことをしたときにする顔だ。眉間に皺を寄せて、今にも「ちょっと、どういうことなの?」とでも言いたげな顔。
 まあそうだよね。あんなに口煩く、『指輪は絶対に買うな』って言ってたもん。こうなるんじゃないかって可能性があったから。俺の言った通りでしょ、って。
 また昔みたいに、モデル業界から居場所をなくすかもしれない。『Knights』のファン―れおくんのファンから、いっぱい嫌がらせを受けるかもしれない。信頼の回復って本当に大変なんだよ、ちぃは何かあったら折れちゃうかもしれないから、お兄ちゃんが守ろうとしてるんだよ、ってお兄ちゃんは何度も言っていた。胸に手を当てると、心臓がばくばく鳴っているのが伝わってくる。
 ……わかるよ。お兄ちゃんは、優秀で、正しかったもんね。
 でももう、お兄ちゃんの後ろで小さくなっていた―「瀬名泉の妹」でしかなかった、子どもの時の、ボクじゃない。
 ボクのことを「瀬名茅」というボクとして見てくれた、れおくんに出会えた。友達に出会えた。デザイナーさんに出会えた。ボクがどんなに間違っても、ボクのことをちゃんと認めてくれる人たちがいるんだから。大丈夫。これくらいじゃ折れない。

「みんなに、頭下げてまわらなきゃ。迷惑かける人たちにも、ファンの皆にも」
 携帯の電源を入れ直す。きっと、生放送を終えたお兄ちゃんとか、事務所とかからいっぱい連絡来てるんだろうなあ。ただでさえアイドルとモデル、しかもメンバーの妹との結婚なんだ。穏便に発表したとしても世間が許してくれるわけがない。こんな形での発表なんて、尚更。
 それでも、もう騎士に守られてるだけのお姫さまでは、いたくない。どんなにお兄ちゃんが正しくても、これはボクの人生だから。お兄ちゃんの示す道より、ボクが選んで、たくさん失敗する道のほうが、よっぽど幸せな道だ。お兄ちゃんはいきなりそんなこと言ったら、多分困るだろうけど。


 指輪のこと、内緒にしてて、嘘ついてごめんね。ちゃんと怒られるから、もうお兄ちゃんに隠れて逃げたりしないから。これからどんなにボクが失敗しても、許してほしいんだ。


 家を出る前にケースの上に置いていた指輪を、手に取ってはめる。れおくんが買ってくれた指輪は、きらきらと輝きを放って眩しかった。


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