凛くんとクラスメイト3


他意はない。誰に聞かれた訳でもないのにそう心で呟いて、カチッと音が鳴るまで手首を回す。引き抜いて手の中に収めた鍵は嫌に冷たかった。


誰もいない教室に時計の運針音だけが耳に付く。本鈴が鳴るまであと数分。別棟までの移動時間を考えると今から走っても始業には間に合わない。教卓に置かれた教科書とノートと分厚い資料集の三点セットはおそらく隣人のものだ。傍に置かれた教室の鍵が本日の職務を示している。
少年は自分が職員室へ行けばこんなに悩むこともなかったのにと朝のやりとりを悔いた。


「糸師くん、おはよう」
「はよ」
ショートホームルームの予鈴が鳴っている中、少年が涼しい顔で席に着いた。隣から声がかかり、顎を引く。
数学の授業以来、隣同士で挨拶を交わすようになった。いつもならこれにタイミングが合えば、「糸師くん、またね」「ん」が追加されるだけであったが、今朝はラリーが続いた。
「あのね、糸師くん」
少女がまだ話しかけてきたことに驚きつつも、少年の表情はいつもと変わらない。顔だけそちらに向けると、「今日、一緒に日直みたい。よろしくね」と続け、いつものように困ったように眉を下げて笑う少女。
少年が言葉を受けて黒板を見れば、日直の下に二人の名前があった。今日一日、互いに協力して雑務をこなさなくてはならない。少年にとって他人とコミュニケーションを取ることは必ずしも重要ではなく、特にサッカー以外でとなると面倒な気持ちがより強くなる。ーーしかし、少女には助けられた恩もあり、挨拶を交わす存在。他生徒よりは良好な関係を築けている。のかもしれない。
少年はとても面倒だが、今日は頑張るしかないかと思っていると少女が言葉を続ける。
「それでお願いなんだけど‥糸師くん黒板消しやってくれる?それ以外は全部私がやるから」
そう言われて改めて少女を見れば、自分より明らかに小さい。身長差を考えれば効率的にも少年が担うべき仕事であることは間違いない。
「わかった」少年は素直に頷く。ーーしかし、日直の仕事は他にもたくさんあるのではないか。仕事量を平等にすべきではないか。
少女へ問い掛ける言葉を探しているうちに「はい、おはよー」と担任が入って来てしまい、チャイムが鳴り響く。
「ありがとう。よろしくね」小さく囁かれた言葉。会話が終わる。少年はこういう時にうまく話せない自分に嫌気がさしたが、これ以上どうにも出来ないと自分の限界も分かっていた。だからこそ、与えられた任務を少年は黙々と行った。


「待って、今日どこだっけ?」「移動距離エグいから早く行こー」
文系の社会は選択授業であり、各々移動しなければならない。しかも今日は互いに別の資料映像を見るらしく、集合場所が遠い。クラスメイト達も慌ただしく教室を出ていく。
少年も急がねばと長い手をワイパーのように振り、びっちり書かれた英文を消していく。
「え、今から職員室行くの?」
「そう、日直だろって。プリント持ってくるよう言われたから」
背後で少女の苦笑いした声が流れていく。少年が手を動かしながら横目で見れば女子の集団が廊下へ出ていく。
「間に合わなくない?」
「ん〜出来るだけ頑張る!だから先行ってて」
「わかった。じゃあ先行くよー」
そんな会話をした少女は友人達とは逆方向へ走っていく。少年は消し残しがないかを体を反らして確認する。そして黒板消しを置き、手を払う。ーー日直と聞こえた気がする。でも気のせいかもしれない。
ひとまず手を洗うかと廊下に出れば、去年クラスメイトだった友人と出会う。
「あれ、凛ちゃん!次、世界史でしょ?一緒に行こーよ」
久々の陽気なテンションに自然と眉間に皺が寄る。
「うるせぇ、行かねぇ。俺は手を洗う」
「あらら、もしかして凛ちゃん日直?ちゃんとお仕事してエライわ〜」
少年とそう変わらない身長の友人は肩組みしようと腕を伸ばしてくるが、少年はそれを肘で弾くようにして全力で拒否する。言葉を受け、友人が少年の掌が白く汚れていることに気付く。母親が子どもを褒めるような口振りで小さく拍手すれば、少年から大きな舌打ちが返ってくる。そんな反応すら全く気にしないとばかりにケラケラ笑う友人。
「じゃあ今から戸締り?」
「あぁ」
「寂しいけど‥私、先行ってるね」
「きめぇ。早く行け」
さながら遠距離恋愛中の恋人との別れを惜しむサヨナラに、少年は面倒くさそうにしっしと手の甲を振った。またケラケラと楽しそうに笑った友人は「早く来いよ〜」と言いながら小走りする。遠くなる背中を見送りながら、自然と同意してしまった仕事を遂行するかと冷たい水に手を潜らす。


フロア全体で移動教室のため、両隣のクラスからも物音はない。静かすぎる廊下に始業のチャイムが響く。待ちぼうけの少年にサボってしまいたいと邪な考えが過った時、パタパタと足音が聞こえた。廊下の端に目を向ければ、筒状の大きな教材を持って走る少女の姿。少女からも少年の姿が見えたようで、先程よりスピードを上げてこちらへ近付いてくる。
「あ、あれ、糸師くん?え、待っててくれたの?」
「あぁ。ん」
「あ、しかも私の教科書も持っててくれたんだ。ごめん!え、持ってくれるの?ありがとう!じゃあこっち持つね」
少年が居ることに驚きを隠せない少女から見るからに重そうな資料と引き換えに二人分の教科書を渡せば、すぐさま感謝の言葉といつもの困った笑顔を向けられる。
「‥別に。これも仕事だろ」
「そうだね。でもありがとう。鍵まで閉めてもらって‥‥嬉しい」
当たり前のことをしただけだとばかりに告げた言葉に対しても、感謝と屈託ない笑顔を向けられる。その眩しさに少年は苦い顔をして、ぶっきらぼうに「そうかよ」とだけ返す。「ありがと。行こ」歩幅が違うため、並んで歩くには少女が少し小走りになるが、それでもその頬は緩んでいた。

目的地に着き、少年が資料を手に前側のドアを開ける。その後ろから少女が続く。「あ、ありがとうね。ついでに電気も消してくれる?」老教師の労いの言葉よりもこちらに一斉に集中した視線のが気になる。
ーーまた少年は、他意はない。と心の中で繰り返す。少女が明かりを消す直前、友人のニヤついた顔と目が合ってしまい、少年の顔が歪む。握りしめた掌はさっきより温かった。



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