超遠距離恋愛中の玲王選手
ただいまが暗闇に溶ける。指先で壁を伝って、スイッチを押す。たたきにはしまい忘れたふりで、放置された冬用ブーツがくたびれている。
ーーもちろん今日も仕舞う気力なんてない。
脱ぎづらくなったパンプスと重いカバンを玄関に捨てて、洗面所へ。手洗い、うがい。顔を上げれば、鏡の中の顔色の悪さに慄く。化粧して、結果コレならしなくてもいいのでは?自嘲。
ーー座ったら最後、立ち上がれない。
そんな思いを胸に目指すは台所。
腐りかけの野菜が転がる冷蔵庫の中。疲れすぎて、食欲も作る気もない。手間なく、喉だけ潤そうと缶ビールに手を伸ばす。
やっとこ座れたソファは柔らかく、目を閉じたらそのまま眠れそう。姿勢悪く両足を投げ出し、頭から埋まっても誰からも注意されない。ーー腰悪くすんぞと幻聴が聞こえる。
虚しさを紛らわせようと足を振り子に起き上がり、ビールを開ける。
苦味が旨味に変わったのはいつだったろうか。
綺麗に整頓されたテーブルからリモコンを取る。ソファに胡座をかいて、ビールを煽りつつ、テレビを点ける。ーー行儀悪りぃなとまた幻聴が聞こえる。
やっていたのはニュース番組。次はスポーツですと綺麗な女子アナが微笑めば、野球から始まる。
カキンと音が鳴り、熱狂する人々の元へ届けられる白球。国外から国内まで、様々な試合映像を見ながら缶を傾ける。案外ホームランって簡単に出るんだ。なんて、野球ファンに怒られそうなことを思っているうちに映像が切り替わる。
右上の見出しに飲む手が止まる。
緑の中を鮮やかなユニフォームが競い合うように走り、ボールを追いかける。ふわりと蹴り出されたボールが1人の選手によってゴールに叩き込まれる。
歓喜に満ちるサポーター。興奮したチームメイトに頭を撫でられたり、抱きつかれる渦中の人物。
そこからまた映像が変わり、バストショットの彼と対面する。
顔には汗が輝いており、試合直後にインタビュー受けるなんて大変だな。と他人事のように思う。ーー自分だって、ライブ直後にインタビューするくせに。
「今の自分に出来ることをしっかりやって、みなさんが望む結果を必ず残します」
自信に満ちた表情でそう言い切る彼は、カメラに軽く手を振った後、嬉しそうにニコッと笑った。
「ほーんとコメントから笑顔まで、出来すぎ!出来杉くん!もー悔しい!」
缶を前に突き出し、聞こえないのをいい事に適当な文句をつけた後、一気にぐびぐび飲む。やけになって、テレビも消す。
缶を逆さにして、最後の一滴まで飲み干す。疲れた体にアルコールがすごい勢いで回る。視界も回る。
校了したからこの家に戻って来れたようなもので、次はいつ帰って来られるか分からない。
家の掃除や片付け、ショッピング、美容院などやりたいことは山ほどあるが、明日の朝、まともな時間に起きる自信は全くない。
昼か夕か分からないが、起きたら彼からもらった高級バスソルトを入れてゆっくり湯船に浸かろう。ーー楽しめることは、それしかない。
遠い異国へ愛を込め、そのままソファに横になる。お気に入りのふかふか具合に瞼はもう閉じている。
ーー仕事は好きだ。底抜けに楽しい。
キツイけどキツイなりにお金は貰える。欲しい物だって自分で買えるし、食べたい物だって食べられる。自分の身の丈にあった範囲で頑張れば、貯蓄だってそれなりだ。
ーーただ、比較する相手が悪い。
年上の特権で、彼が学生の頃は大人ぶって、ご飯を奢ったり、仕事で知ったアングラな店を案内して驚かせたことはあった。
しかし、彼がプロとなり海外で活躍する選手となった今では、収入面では全く歯が立たず、たまに会えば、樹海と成り果てた部屋の片付けをされる始末。全く情けない大人だ。
ーー「一緒に来て欲しい」
世界へ発つ前に、そう告げられた。
まず思ったのは、仕事のことだった。
嬉しさはもちろんあった。だって、好きな人から選ばれたのだから。私が必要だと、そう言ってくれた。
出来ることならついて行きたかった。ーーでも、今すぐにとはいかない。
まだやりたいことがたくさんある。他の誰でもなく、私が、自分自身でやりたいこと。
押し黙る私を見透かして、「だよな、だと思った」と笑った彼は、そのままさらなる夢へと旅立った。
ーー毎日死にそうなぐらい忙しくて辞めたい時もたまにあるけど、結局は、楽しく働いている。
ーーめったに会えないのが寂しいなんて、彼より仕事を選んだ人間が言ってはいけない。
*
防犯上、心配だから引っ越して欲しいと頼んだのに、これ以上家賃が上がるのは無理だし、ここのベランダで煙草吸うのが好きだから嫌ときっぱり断られたっけなー。と思いながら慣れた手つきで扉を開けて、電気をつける。
職場に缶詰かと思っていたのに、散らばったパンプスと愛用のカバンが玄関にあって、彼女が帰宅していると主張する。
ーーアイツ、電話したのに出ねぇのはこんなとこに放置してるからか。ったく。
彼女に置き去りにされた哀れなカバンを持って、リビングを目指す。
日付をちょうど跨いだばかりで、まだ起きているかと思ったが、当の本人は明かりをつけたまま、ソファで丸くなっていた。
この様子だと俺が帰国すること自体忘れてんな、コイツ。と思いながら、「風邪ひくぞ」とそっとブランケットをかけてやる。
明後日の日本代表戦のために一時帰国すると数ヶ月前に連絡を入れた。彼女からは、分かった。と簡素な返事が来て、その話は終わった。
元々どのスポーツにも熱を入れないタイプだし、忙しければニュースに構ってる暇もないだろう。
だから、代表戦が明後日にやることすら知らないだろうな。と思いつつ、ソファを背にしてラグへ座る。
ーーったく、スケジュール調整して一日早く帰って来てやったのに。
短い間でも側にいれたら、そんな思いで予定より一日早く帰国した。その時間を有効活用しようと空港から彼女の家へ直行したのだ。
ーーま、こんな疲れた顔してたら何も言えねーか。
会わない間にさらにやつれたようだ。化粧をしたままで寝落ちした彼女の疲労度を慮る。
ーー起こすのも可哀想だし、一旦帰るか。
物音を立てないようにそっと立ち上がったのだが、気配を感じ取ったのか、ん。と彼女が身じろぎ始める。
やば。と思っているうちに、ゆっくりと目が開いていく。
再び寝かせることを諦め、そっと頭を撫でれば、その感触に目が見開かれる。
「‥‥え、ホンモノ?寂しさからの幻覚?」
「はっ、疑うなら触ってみろよ」
すっとんきょうな声に思わず吹き出してしまう。
ーーさっきの幻聴とは違う。鼓膜を震わす、彼の声。
言われたままに彼女が自分の頬に手を伸ばす。
そっと、触れられるかどうかを確認するようにちょんちょんと掌が当てられる。
生身の人間だと確認は済んだようだが、どうしてここにいるのか検討がつかないと困惑した顔がこちらをまじまじと見つめている。
ーーさっきまでテレビ画面に映っていたはずの人がなぜ目の前にいるのか。
起き抜けで理解が追いつかないの彼女へ一番言いたかった言葉を伝える。
「ただいま」
そう微笑めば、目尻を下げて「おかえり」と優しく返してくれた。
*
「で、忘れてたと?」
「すみません‥。忙殺されておりましたので‥」
お互いシャワーを浴び終えて、二人で寝ても余裕のあるベッドへ横並びに寝転がる。
あとは寝るだけ。であるのだが、彼には確認したいことがいくつかあった。
頬杖をついて意地悪く隣を見やれば、何度も何度も下げられる頭。
彼の予想通り帰国日は完全に忘れらていた。が、これに関しては身を小さくして飽きるほど謝られたので、これ以上は追及しないことにした。
「じゃあ‥俺に会えなくて寂しかった?」
本当に聞きたかったことを彼女の目を見て、真っ直ぐに尋ねると、目を点にする彼女。
きっと寝ぼけて口走ったことなんて、覚えないんだろうな。と思っていたから、これも彼の想定内だ。
ーー普段、絶対口にしないからこそ、ふとした時に溢れた言葉は一言一句確認しておかなければならない。
彼女が認めていいのかと考えあぐねていると、彼の手が自分の頬に触れる。
輪郭を確かめるようになぞられた掌は熱く、思わず体が反応してしまう。
しかし、止める気はないようで、そのまま顎へと手をかけられ、親指で唇を何度も撫でられる。
先ほどより体が固くなる。恥ずかしさから目を閉じてしまいたくなるが、こちらを見つめる瞳が逸らすなと言っている。
ーー一体何を言おうとしているのだろう。聞きたいようで、聞きたくない。
「なぁ、もう俺のモノになったら?」
静かに触れた口付けの後、睫毛が触れ合うぐらいの至近距離でそう言われてしまえば、彼女の喉の奥で声にならない音が鳴った。
彼女が口を開く前に言葉はさらに続く。
「今のまま仕事してていいよ。たださ、戸籍上俺の妻になっちゃえば、お互いどこにいても不安じゃねーだろ?」
彼はそう捲し立てると、頬から手を外し、彼女の左手を取った。
彼女が、まさか。と思っているうちに薬指にキスが落とされる。
「今はこれで許して。今度一緒に買いに行こう」
数時間前と同様に自信に満ちた表情でそう言い切る彼。彼の有無言わさない言いっぷりに、やっと彼女が反応する。
「うん」
ーー私、一回も返事らしい返事してないのに何でそんなに自信満々なの。
ーーあぁ、もう。何でもお見通しか。
ーー言葉にしなくても、顔に書いてあるんでしょう。
言いたいことは山ほどあるのに、馬鹿みたいに何度も頷くことしか出来なくて。閉じた両目から優しい涙が溢れる。
「あーもう。泣くなよ」そう微かに笑う声が目の前に確かにあって、幸せだなと心から思う。
ーー寂しさも不安も、全部なくして、愛を誓おう。
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