糸師くんとクラスメイト4


ーー旧暦では確かに夏だけど、今は春ではないのか。
日焼け止めを塗り忘れた肌へ容赦なく太陽光が浴びせられる。少女の抗議は意も介さず、ジリジリと赤茶のトラックさえも燃やす。
もう何度目になるか分からない号砲。バタバタと迫りくる同級生へストップウォッチを押し続ける。走り終えた子達が「焼ける〜」「ヤバ」と言いながら、足早に日陰へ逃げていく。
少女はその姿を横目にますます無心になる。体育委員が持ち回りで準備や計測などをしているが、運がなかったため、野外担当になってしまった。
ーー何もこんな日差しの強い日じゃなくてもいいじゃん。
そう思いながら最後の50m走のタイムを読み上げる。すると教師から「他が終わるまで休憩」の声がかかる。
日陰で涼む友人の元へ歩みを進めれば、クラスの半分ぐらいの女子達とすれ違う。「あれ、どこ行くの?」「体育館だよー」キャッキャと楽しそうな彼女達を微笑ましく見送る。
少女がやっと休めると友人の隣へ腰を下ろせば、友人からペットボトルが差し出される。
「お疲れー」
「サンキュー。マジ疲れた」
受け取った水はぬるかったが、何はともあれ喉が渇いたと一気に飲み干す。
「央は行かないの?」
「ん?うん?別に用ないよ」
少女が満足し終えるまで待っていた友人が目配せするのは、すれ違った子達が行った方向。
「糸師くんの応援、行ったらいいのに」
「いやいや、すでにたくさんのギャラリーが応援してるよ」
友人の何気ない一言に困ったように笑う少女。
「ま、それもそうか」とそれ以上は囃し立てない辺りがやはり心地いいなと少女は思う。

グラウンドの奥では立ち幅跳び、中央ではボール投げをしている人影が無数にある。「ウンmでーす」と力一杯叫ぶ体育委員の声が聞こえてくる。
ーー体力テストって何でやるんだろう。
スポーツが出来ない訳でもないが、得意ということもない少女はそんな疑問を抱く。
頬を撫でる風が本格的な夏より湿気を孕まない分、爽やかで気持ちがいい。
ーーウチのクラスは全競技終わったけど、私には片付けがあるんだよな〜。
頭上に睨みをきかせ、文句を付けているとふと友人が朝一で日焼け止めを塗っていたのを思い出す。
「あ、‥‥日焼け止め貸してくれない?」
「あーゴメン。教室だわ」
友人へ両手を重ねておずおずと頼み込めば、気まずそうに謝られる。
「そっか!ううん、こっちこそゴメン」
毎日欠かさずにスキンケアをする女子力が私にあれば、素肌を守れたかもしれない。と少女は落胆する。
紫外線から四肢を守るため、長袖を着るのも選択肢になり得るが、生憎この暑さなので教室から持ってこなかった。周辺の木の下や軒下にぽつぽつと置かれた荷物の中にも目当てのジャージは見当たらない。
ーー誰かに借りるのも手かなと思ったけど、この暑さじゃ持ってこないよね。
「あ、でもさっき日焼け止め使ってた子居たよ」
「え、ホント?!借りたい!」
「あちらです。彼氏の応援に行かれました」
「‥‥行ってくる」
神の一声に縋れば、案の定。
少女はこれから数十年かけて起こりうるシミシワそばかすと本日の体力を天秤にかけ、お肌の健康を選んだ。
重い腰を上げ、日の下へ進む。
「私は今のうちにトイレ行くね」
「んー」
友人の声に少女は手を上げて、答える。
ポッケに入ったハンドタオルをカッパのお皿の如く、頭に乗せて、ささやかな抵抗を試みる。


大きな建屋に近付けば、お馴染みの地獄のメロディが聞こえ、背筋がぞっとする。ーーしかも大分早いテンポである。
体育館入り口で固まる女子達がキャッキャしながら小声で囁き合う。「愛想ないけど、やっぱすごいね」「推せる」「全然疲れてなくない?」
ーーまぁ‥予想はつくけど、一応見てくか。
「やっほー」「あ、央ちゃんも来たんだ。お疲れー」「うん、見して」「どうぞどうぞ」なんて同じクラスの女子だからこそ出来る軽いやり取りをして、スペースを開けてもらう。

隣の席の少年、糸師凛が涼しい顔で20m幅の線を軽快に踏み続けているのが見えた。
周りで走る男子達は息が上がり、歯を食いしばりながら必死の形相で走っているのに対して、少年はいつもと変わらぬ無表情。

ーークラブチームでサッカーしてるとは噂で聞いてたけど‥スゴいな。基礎体力どーなってんの。
「いやースゴいね」「ねースポーツに全振りしてても仕方ないね」「ねー」「あ、また脱落した」
何て会話を多数の女子と交わしていると、「やっぱり日本代表にもなったし、実力は折り紙つきなんだよ。お兄ちゃんも海外でサッカーしてるし」とサッカーファンを自負する子が興奮気味に語るのに少女は目を丸くする。
「え、そうなの?糸師くん代表選手なの?」
「そうだよー。央ちゃん自己紹介の時に言われなかった?」
多数の視線を感じながら少女が静かに首を横に振る。
ーー趣味と好きな食べ物しか言われてないし、アホみたいに私が自分のこと話しただけですね。
数週間前の少年の不機嫌そうな顔を思い出し、苦笑すれば「まぁ‥あの糸師くんだしね」と誰かの呟きに一同が小さく頷く。

少年のスタンスは基本、一匹狼。
喋りかければ返事はあるものの、誰と話しても短く無愛想。表情の変化も乏しいため、綺麗な顔と相まって常に怒っているように見られてしまう。
そんな群れから外れた動物は煙たがられるのが当たり前。ーーだが、少年の場合はそうならなかった。

「おーみんな凛ちゃんの応援に来たの?」
その要因が急に目の前に現れる。
隣のクラスのバスケット部員。ーー自称、糸師凛の親友だ。
高身長でガタイがいいため一見すると怖がられそうだが、持ち前の明るさと相手によってトーンを変えられる柔軟さでどんなタイプの人とでも仲良くなれる人。ーー所謂万人に嫌われないタイプの陽キャ男子である。
「いや、それ以外にも目的あるから。どいて、デカくて邪魔」
女バスの友人がそう言って手で払いのければ、「ひっどー!めちゃ傷ついた」とおどけ、ケラケラと笑う。
ーー彼のお友達を中心に糸師くんに絡んでるから浮いてない‥というか、むしろクラスの中心にいるんだよなぁ‥。
毎日鬱陶しそうな顔で輪の中にいる少年を思い出しつつ、少女が高い位置にある顔を見上げれば、視線がパチリと合う。
人懐っこい笑みを浮かべられ、ドキリとする。
「鷲深さん、お疲れー。こうも暑いと外は大変でしょ?」
「そ、そうだね。こんがり焼けそうで困るよー」
ここ数週間、今日の準備のため委員会ミーティングが頻回にあり、少女も彼と顔見知りになったばかりだった。
ーーこうやってあっさり他人を気遣える感じが好感度高いのかな。
なんてぼんやり思いながら、返事をしたところで少女は当初の目的を思い出す。

ーー日焼け止め!
入り口の輪の中にいなかった友人の姿を左右に首を振って探せば、反対側の扉で彼氏と楽しそうに会話をしているのが見える。
ーー‥‥人の恋路を邪魔する奴は、何とやら。
もう潔く諦めようと頭の上のハンドタオルを手の中に収めると「鷲深さん、誰かに用事があったの?」と目ざとい彼が首を傾げている。
「いや、日焼け止め借りたいなって思ってたんだけど‥ちょっと無理そうかな」
まぁ忘れた自分が悪いんだけど。と呟きながらポッケに畳んだタオルをしまえば、彼が「あ、じゃあジャージどう?ほら、これ」と自分の肩にかけたジャージを差し出す。
「え、いやいや!そんな!」
ーーなぜ、私が、あなたのを借りるんですか?!
両手を広げて必死に振り、出された物を戻そうとすれば「そうだよ、何で央がアンタのジャージ着なきゃいけないの!」と女バスの友人が少女の肩口から反論に参加してくれる。
ーーご厚意は嬉しいが、彼ジャーって重大イベントをここで済ましてしまうのも惜しいというか‥。
なんて予定にないことを想像しつつ、少女が困ったように眉を下げて笑えば、彼はあっけらかんとした様子で答える。
「あ、大丈夫。これ俺のじゃないから」
「は?」
少女と友人の声がユニゾンすれば、彼がまたケラケラ笑う。「いや、泥棒じゃないから」
「これは、凛ちゃんの」
彼の指さす方に目を向ければ、少年の周りには片手ほどの人が走るだけになっていた。電子音のカウントはもうすぐ三桁になりそうだ。
ーーさすがに汗はかいてるけど、表情はさっきと全然変わらない。
「どうせ凛ちゃん汗まみれでこの後着ないし、男子はこのまま昼休憩だから」
少年からまた彼の手元へ視線を戻せば、差し出されたジャージに確かに[糸師]とネームが見える。
「いやいや、ますます申し訳ないから!糸師くんだって勝手に着られたら嫌でしょうし?!」
手に加えて首もぶんぶんと横に振って、懸命に拒否しようとするも、「あ、糸師くんのなの?ならいいんじゃん」と掌を返した友人が彼の手からジャージを受け取る。
「え、何で?!」「いやアンタ、この前の日直でほぼ何もしてもらってなかったじゃん」「いや、あれは」
ーー私が黒板消しだけでいいよって言ったんだよ。
そう言葉を続ける前にふわりと頭に重みが加わる。
「着なくてもかけとけばいいでしょ?この前の礼に日よけとして借りなよ」
「そうだよ、借りなって。どーせ今後も凛ちゃんのお世話するようなんだし!」
二人から押し付けられたジャージからは微かに洗剤と柔軟剤の香りがする。ーー何だかとても悪いことをしている気になる。
ーーいやいや、本人の意思は?怒るよ、絶対!
そう口を開く前に「女子は集合だってさー」とクラスメイトの声がする。
「ヤバ、行こ行こ」と女子全員が一斉にバタバタと走り始める。
「ほら、央!ウチらも行くよ」そう言った友人がキュッとジャージの袖を顎の下で素早く結び、手を繋がれる。
「え、でも‥」
「いーから、俺が凛ちゃんにはうまーく言っとくよー」
そう言って手を振る彼の背後に目をやれば、少年が体育館の中央で一人淡々と走る姿だけがよく見えた。
ーーあ、糸師くんのためにあるのかも。
友人に引きずられながら、少女はさっきの自分の疑問へそっと答えを出した。


「りーんちゃん」
「ちっ、暑苦しい。やめろ」
「あらヤダ凛ちゃん!そんなに怒らないの!」
「うぜぇ、消えろ」
クールダウンを兼ねて体育館の端でストレッチする少年の肩から首に太い腕が乗る。ーー疲労もあり、反射が遅れてしまったのか、今日は肩組みされてしまった。
汗でベタつく不快感と肩組みを阻止出来なかった敗北感から、いつも以上に眉間にシワが寄り、言葉には棘がある。
それをすぐに察した友人は軽口と共に腕をを解き、隣に並んでストレッチを始める。

周りには誰もいないため、やけに声が響く。
「やっぱ凛ちゃん今年もすごかったね」
「まぁな」
褒め言葉に対しても至極当然のことだとばかりにさらりと返事をする少年。
表情を崩さず、念入りにストレッチをこなす少年は、やはり普通の男子高校生と違うなとしみじみ友人は思う。
ーー見ているものが違うと、こんなにもリアクションも違うものかねぇ。普通あんなこと成したらみーんな自慢して回るよ。
今年も音を途切れさせることなく走り抜いた少年は教師からの「糸師、もういいぞ」の言葉で競技を終えた。
他の男子生徒達の「まだ余裕じゃん!」「超カッケー」という興奮の声と労いの拍手に対し、大きなパフォーマンスはないものの、少年は小さく一礼した。

そんな当たり前にも思える少年の行動に友人は目を丸くした。
ーー昨年はお辞儀すらなくて、スカした野郎だってみんなから言われてたのに‥。やっぱ監獄入りしたのが効いてんのかな。

なんて思いながらみんなから讃えられている少年の姿を目で追う。
盛り上がりも束の間、教師の「じゃあ解散」の一言に、周りは「やっと昼飯だー」「午後、絶対寝るわー」と続々と教室へ戻っていく。
そんな群れなど全く気しない様子で、少年は去年と同様に体育館の隅で一人黙々とジョギングを始めた。ーーやっぱり糸師凛の根本は変わってないか。
心のどこかで妙に安心した友人は小さく笑って、委員としての仕事を始めた。


ストレッチを終え、少年と友人が渡り廊下を並んで歩く。
「もうグラウンドにも人いないね〜」「あ、凛ちゃん昼飯一緒に食べる?」「返事がないってことは食べんだね、オッケー」「いやーこの日差しさえなければ風もいい感じなのにね」
少年が返事をしなくともペラペラと喋り続ける友人は鬱陶しくもあるが、喋らなくて済むので楽だなとも思う。
「あ、そういや凛ちゃんから預かったジャージなんだけど、鷲深さんが困ってたから貸したよ」
「あ?何でそうなんだよ」
流れるように告げられた事柄に思わず強めに反応してしまう。
預けたジャージのことなど完全に忘れていたが、なぜそこで隣の席の少女の名前が出てくるのか。
意味がわからないと少年の顔が歪む。その時、視界の端に下駄箱へ歩く人影が現れる。ーージャージを頭から被っている。
「鷲深さーん!」
周囲の目など気にせずに、友人が大きな声で呼べば、少女がゆっくりとこちらに顔を向けた。
少年を視界に入れた瞬間、ガバッと頭からジャージを取り去り、すごい勢いで下駄箱に走り始める。
「じゃ、俺は売店寄ってくね」そう笑った友人が教室とは別方向に歩みを進めれば、少年の眉間に皺が寄る。
ーーだから、そうなった理由をまだ聞いてねぇだろうが。

そう思っている間に息を切らした少女が目の前まできた。
「糸師くん、お借りしちゃってゴメンね!おかげさまで溶けずに済みました!」
深々と下げられた頭と差し出された自分のジャージ。
少女の言葉で何となく流れを察した少年は「別に」と静かにそれを受け取った。
ーー何となく並んだ二人はそのまま教室までの道を歩き始める。

「糸師くん、サッカー以外もスゴいんだね。さっき体育館で少し見たよ」
「‥あぁ」

少女から自分のやっているスポーツの名前が出て、少し驚く。ーー何だ、知ってたのか。
この前の移動教室の時でさえ、全く話題にしてこなかったから、自分に興味がないと思っていたのに。
ーー普通、どいつもこいつも口を開けばサッカー、糸師弟、日本代表ってうるせぇのに。
少女は、良くも悪くも今までそのワードを口にしてこなかった。

「私、スポーツとか疎くて全然分からないんだけど日本代表にもなったんでしょ?」
「まぁ」
「クラスのサッカー好きの子が言ってたよ」
ーーお前が調べたんじゃねーのかよ。
心の中で素早く返事する。
不満に思う自分に違和感を感じつつ、押し黙っていると友人同様、少女は話を続ける。

「で、体力テストって糸師くんの努力を証明するために存在してるんだなって思った」
「は?」

話が飛躍しすぎて、理解が追いつかなかった少年の口から低い疑問符が飛ぶ。ーー思わず少年の足が止まる。
少女も自分の話が間を端折りすぎたことを瞬時に理解し、言葉を繋ぐ。ーーあと数メートルで自分達の教室だと言うのに、廊下の端に寄って話続ける。

「いや、私たち凡人にとっては煩わしいイベントなんだけど、日々世界に向かって走り続けてる人にとっては一つの指標といいますか、通過点であるとしても、その都度評価は必要だと思うので‥。そのためにあるんだって腑に落ちたっていう‥」
調子に乗りすぎたと気づいたのか、恥ずかしそうに尻つぼみに話し終えた少女。

ーー‥‥スポーツテストの意義なんてそんな真面目に考えんなよ。そこまで大それたモノじゃねーだろ。
少年はそう思いつつも、まぁ一理あるかなともぼんやり思う。その都度自分の実力を測ることは必要だ。

「糸師くんにとっては何でもないことだろうけど、糸師くんの努力の成果に感銘を受ける人達にとってはその成長を目の当たりに出来て嬉しいといいますか‥」
少し言葉を探すように唸る少女のつむじ眺めながら、早くしないと昼休憩終わんじゃねーかと思っていると、「あ、わかった!」と少女が勢いよく顔を上げる。

「ほら、大人になってからコイツ元同じ学校でスゴかったんだって自慢したくなるやつ。あの気持ちなんだよ。大小さまざまな想いはあれど、スゴイ、カッケーっていうのは糸師くんへの応援の気持ち。同級生みんなが糸師くんのサポーターなんだよ」
「‥そうかよ」

ーー敵意や嫉妬はなく、みんな純粋に応援していると言いたいのだろうか。
喋ることで頭を整理するタイプ、アイツと一緒かと自称親友を思い浮かべ、少年が呆れていると言いたいことが言えて満足したのか意気揚々と廊下を歩き始める少女。
その後ろ姿を見ながら少年が二歩ほど遅く歩き始めれば、少女が思い出したように振り返る。

「あ、あと糸師くんの努力ってキラキラしてるね」

ーー遠くて、果てしない道のりだが、自分自身で歩もうと決めたから。 
少年にとって、世界一のストライカーに自分自身がなるという夢は、至上命題。だからそのための日々の積み重ねは特記する必要はない。
努力は、当たり前だと思ってはいたが、まさかそれが輝いているとは。
そんな風に感じたことがなかった少年が反応に困っていると少女の瞳がいたずらに揺れる。

「糸師くんのサポーターとして、今後も見守り続けるね」
「‥好きにしろ」
射抜くような視線を受けて、少年は目を逸らす。
最近慣れてきた少年の短くて無愛想な返事に少女がおかしそうに笑う。
太陽光で青々しい木々がさわさわと揺れ、柔らかな風が吹く。少年と少女の髪を撫でた。



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