凛選手とその奥さん


生まれてこの方、大切なものはそんなになかった。だからこそサッカーに打ち込めたんだろうし、今の俺になれた。
でも央に出会ってから俺の中のサッカーと兄貴しかなかったカテゴリーが未だに更新され続けている。
そのせいで学生時代からの腐れ縁達からは実はあの頃と中身が変わってる?とかこれが愛の力だね〜とか言われてうぜぇけど。



ファン感謝祭と銘打って、その実各選手が周りを巻き込んで好きな事を好きなだけやっているエゴ祭り。
オフシーズンと時差の関係で、マネージャーと共に帰国後すぐにスタジアムに入りした俺へ無理くり衣装を着せてよく分かんねぇ流行り曲を踊らせたり、自分の発案したスタドンを壁ドンした上で嫌がってんのにあーんして食べさせたりと全員が日頃のストレスをここで発散させてるとしか思えねぇ。


いやに疲れたと溜め息をついてピッチに出ればいつの間にか選手毎にブースが出来ている。案内されるままファンの前に行けば子どもから大人まで期待に満ちた目でこちらを見つめている。昔はこの対応もクソ面倒くさいと思ってて、それを前面に出してたなとガキ臭かったことを反省する。
こうやってファンからサインを求められるのは日本と海外でさして変わりはない。しかし、母国語の耳馴染みには勝てない。長くは喋らないが極力誠意ある返答を心がける。
順番にサインと握手をしていると背後にマネージャーが来る。少し身体を傾けると耳元で「ご家族が到着されました」と囁かれる。
頷いて、目の前のファンへ謝罪をした上で家族控室にもなっているベンチへ足を向けた。


ベンチに着くと俺の代表ユニフォームを着た小さな後ろ姿が関係者達と遊んでもらっているのが見える。
名前を呼べば勢いよく振り返り「凛ちゃーん」という弾むような声と共にこちらへ走り出す。脹脛付近に重みが加わる。足元に視線を落とせば顔面を綻ばせて喜んでいる。小さな頭をグリグリと撫でてやれば無言で両手を伸ばし、早く抱っこしろとせっつかれる。久々の重みにまだ軽いなと思っていると頬をぺちぺちと小さな両手で何度も叩かれる。大画面の我が子の向こうから「凛、久しぶり」と声がかけられる。
視線を外せば数ヶ月ぶりの央が堪えきれないというように口元を抑えてケラケラと笑っている。

「いやー久しぶりに会えて大興奮だね。すごい嬉しそう」
「ホントだな。で、体調は?」
「バッチリですよ!こちらもやっぱりいらっしゃるようで、順調に育ってるそうです」

自信満々なピースサインの後にそっと自分のお腹を愛おしそうに撫でる央に思わず「ありがとう」と小さく口にすれば目を丸くし、「ヤダな〜お父さん、まだ産まれてもないんだから泣かないでよ」とすぐさま揶揄われる。

「あ?泣いてねぇ」
「え、凛ちゃんイタイの?」
「痛くねぇ」
「ふふ、嬉しくても涙は出るんだよ」

俺を心配して頭を撫でる手が温かい。恥ずかしさにそっけなく返事する俺とは違って、央は優しく諭しながらこっちおいでと俺の腕から子どもを抱っこする。

「大丈夫なのか」
「ん、特に制限されてないから大丈夫。それより早く行っといで。ファンの皆さん待たせてるよ」

無理させてはいけないと声をかけると何ともないよという様に微笑まれ、早く行くように手を振られる。

「わかった。行ってくる」
「うん、先に戻って冴くんとゆっくりお茶してるよ」
「‥おう」
「あれ、ダメだった?」
「別に」
「そう?ならいいけど。ほら、頑張れるようにバイバイしてあげて」
「凛ちゃんいってらっしゃーい、バイバーイ」

俺より先に兄貴が妻子とゆっくり過ごすのは気に食わない。そんな気持ちを察してか揶揄うように首を傾げて顔を覗き込まれる。見んなと思いながら顔を背けるとさらにおかしそうに笑われる。
これ以上拗ねないようにとバトンを引き継がせたのか、とびきりの笑顔で手を振られる。残りの仕事も全力で頑張るしかないなと手を振り返した。


ファンの元へ戻り、すっかり緩んでしまった頬に両手で喝を入れる。サイン会を再開すると、さっそくファンから幸せかと問われてしまう。
くそ、さっきの見られてたか。恥ずかしさから視線が泳いでしまったが、幸せであることは間違いない。近々守りたいものがさらに増える予定だと心の中で優しく笑った。



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