凛ちゃんが朝から早退する
あぁこのままだとこの世が終わってまう。私という全知全能の神が天に召されたら、誰がこの混沌の地を救うの!
なんて頭の中でくだらないことを考え、頭上にある時計を仰け反って確認。こりゃ確実に間に合わない。だーい好きな日曜日と泣く泣くサヨナラをして迎えた大嫌いな月曜日の朝。目覚めた瞬間から何時もより身体が重かった。脳裏に嫌な予感を巡らせつつ、力があまり入らない腕を折って額に乗せた。
ーー案の定、驚くほど熱かった。
一人暮らしの大学生が頼るものといえば、友達または彼氏。
しかし、生憎前者は授業が朝から入ってるおり、すぐには助けに来てくれない。まして、後者に至ってはこの世に存在すらしない。っていつも以上に悲しくなってきた。涙腺弱くなってるから気抜いたら泣きそう。一人で死ぬのは嫌だ!
「‥誰か助け‥っごほごほ、いったぁー‥」
喉を震わせたら驚くほど掠れた声が出て、同時に喉に激痛が走った。
これは喉風邪だ、間違いない。いったー。治るまで声をあげないようにしよう。痛みで泣くレベル。あー薬だけでもいいから飲みたいなぁ。でも身体に全然力が入らない。詰んだ!
なんて一人でうだうだ思考していたら、視線の先にあったスマホが光る。
*
「‥あ?何だその声、どうした?」
月曜朝の職場がこれほどまでに憂鬱なのは何でなのかと考えながら、オフィスに入れば見慣れた背中が目に入る。おはよーと声をかけようと隣に並べば、凛が何時になく顔に焦りを浮かべていた。は?何事だ。
ーー細身で身長もあって男前。
入社したての頃、糸師凛の名前を知らない奴はいなかった。でも蓋を開けてみれば、口は悪いし、何でもストレートに表現するタイプ。相手が泣いても全く気にしない。そして基本的に慣れた相手じゃないと口をきかない。そんなガードの堅さに今となっちゃ言い寄る女はあまりいない。でも同期の俺には心を開いてくれたのか、扱いが雑になりつつある。まぁそこら辺はお互い様だけど。
「わかった。すぐ行く」
仕事中もそんな顔しないじゃんと突っ込みたくなるぐらい真剣な面持ちでスマホを切った凛はまるで妊婦中の奥さんに大事があったかのようなうろたえぶりで、俺の頭には疑問符が並ぶ。
「凛って彼女いないんじゃなかった?」
そう声をかければ俺が隣にいたことを今まで気付かなかったのか、驚いた顔でこちらを見る。
「‥そんなものよりもっと大事なものだ」
いきなり声かけたのが俺だと分かればいつもの冷静な表情を取り戻し、そんなことも分からないのかと馬鹿にするように笑う。
「え、じゃあ誰?」
そんな俺の問いなど聞こえていないような手つきで、スマホを操作しどこかに電話をかけている。そして流れる様な動きで上司に有休を申請している。
ーー凛が有休取るほど大事な相手って誰だ。
なんて悶々と考えてたら、凛が「じゃあな、潔」と踵を返そうとするから慌てて引き止める。
「ちょ、待てよ凛。それほど大事な相手って誰?!そんな深刻そうな様子じゃさすがに気になるし‥。それともなんか人には言いにくい病気とか?」
友達としてどうしても聞きたくて、半ば強引に引めて小声で確認する。早く解放しろとばかりに眉間に皺を寄せた凛がこちらを振り返り、ため息ひとつを吐き出して、当然と言わんばかりに堂々と言い放った。
「妹が風邪引いた」
「は、なに?」
「俺の大事な妹が風邪引いた」
俺の耳がおかしいのかと再度聞き返してみるもどうやら間違いじゃないらしい。
「‥か、風邪ってあの熱が出て身体の節々が痛くなるスタンダードなヤツ?」
「そうだ。‥その風邪以外に何がある?」
今度は俺の思ってる風邪と凛の風邪のニュアンスに相違があるのかもしれないと再度聞いてみたが、鬱陶しそうに顔をしかめられた。そうですか。
「もしかしたら明日以降も休むかもしれない」と俺がこれ以上質問をしないことを悟ると、そうぼそりと呟いて足早に出て行った。黒い細身のスーツを身に纏った広い背中があっという間に小さなる。
凛ってシスコンだったんだな。
*
央は何でも我慢するヤツで、昔っからどんだけ辛くてもヘラヘラ笑って、俺や家族に苦労かけないようにしてた。
「‥何死にそうな顔してんだ」
合鍵でドアを開け、小さな玄関に革靴を脱ぎ捨てる。綺麗に片付けられたキッチンと廊下を抜け、ワンルームに辿り着く。ベッドの中には熱にうなされ、ぼんやりとした妹がいた。
「‥‥え、お兄ちゃん‥?」
とんでもなく掠れた声で呟いて、信じられないという風に何度か瞬きをする。
「仕事は?」と問いかけられたがそんなことはどうでもいいとばかりに涙のあとが残る頬を掌で拭う。
「病院行くぞ」
「私予約してない‥」
「大丈夫だ。ここに来る前に予約した」
「はは、さすが凛ちゃん。隙がない。‥でもね、私力が入らないんだ‥」
そう言って困ったように笑って、だから行けませんという様に首を軽く振る。
俺を舐めてんのかコイツと思いながら、布団を剥いで首と膝の下に両腕を入れる。
持ち上げれば驚くほど軽く、あとで食生活も要確認だなと眉間に皺が寄る。
「は?え、な、凛ちゃん?」と状況を整理しきれないまま、大声で喋り続けようとするので、「うるせぇ。もう声出すな、潰れんぞ」とすごむと素直に口を噤んだ。
近くにあったブランケットをかけ、そのまま駐車場へと向かおうとすると、「‥凛ちゃん、ありがと」と小さく呟き、溢れる涙を自分の手で拭っていた。
ーー兄ちゃんなんだから当たり前だろ。
そんな想いを込めて「気にすんな」と返せば、俺の心の中の呟きを察したのかくすぐったそうに目を細めた。
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