縛り上げるならリボンで



 もとより私の全力疾走などサッカー部の脚力に敵うはずもなかったのだ。
 頭という器の中で上下左右に激しく揺さぶられた脳は酸素を欲していた。日頃の運動不足を叱責するがごとく、食い込むような痛みが酸欠の脳を締めつけてくる。浅く呼吸を繰り返すがそれでも酸素は足りないらしい。

「名前、」

 私を追い詰めた男は声を潜めて名を呼んだ。夜の入口に差しかかり、薄墨色に包まれた校舎の奥で私は返事の代わりに彼を見上げる。目の前にそびえ立つ176センチの身体は私を逃すまいと全神経をこちらに向けていた。私は深く長い息を一つ吐いて眩む頭をなんとか整える。

「ッ、廻、だめ」

 かろうじて出た拒絶の言葉と共に眼前の胸板を突き飛ばしたが、彼はよろめきさえしなかった。その代わりに、彼を突き飛ばそうとした反動で、私が後生大事に提げていた紙袋の中ではハート柄のラッピングに包まれたチョコレートがごとごとと暴れるように揺れている。あれだけがむしゃらに走ったあとだから、肝心の中身は形が崩れているかもしれない。ちらりと紙袋の中身を覗いたが、燃えるような赤色のリボンの端が見えるだけだった。

「俺から逃げないでよ」
「違う、そういうんじゃなくて、だめなの」
「なんでダメなの?」
「……なんでって、」

 私は答えに詰まって白んだ頭の中で言葉をこね回す。そのうちに眼球の底が熱くなった。次第に熱は眼球の湾曲を伝って目尻のきわまで到達し、涙を一粒こぼさせようとする。私は顔を逸し情けなく懇願した。

「今の私、すごく嫌な女だから、お願い、見ないで……」

 あのとき聞いてしまった女子たちの明るく弾む「ハッピーバレンタイン」の声は、未だ私の鼓膜の上で亡霊のように居座り続けている。それは私の心を波立たせるどころか、そのまま足元をすくい、深いところへと押し流そうとしていた。

「私、知らなかったの。教室であんなに女子に囲まれてる姿、初めて見て、驚いちゃったの」

 知らなかったわけじゃない。廻とは去年も今年も違うクラスだったけれど、彼にチョコレートを渡す女の子がたくさんいるという話は友達づてに聞いていたし、たとえそうであっても彼女としてどっしりと構えていられる自信があった。なんの根拠もなく。
 ところが、私が目の当たりにしたのは、彼女たちの明るくはしゃいだ姿から透けて見えるぎらついた自己主張や、彼の周りに形成された排他的な空気だ。私のお粗末な自信とやらは早々に砂と化し、あっけなく崩れ去った。私は教室の出入口に敷かれた引き戸のレールを跨ぐかどうか迷うまでもなく、その場から逃げ出していた。情報を知っていることと、実態を知っていることとは必ずしもイコールではない。

「名前、こっち向いて?」

 そう柔らかに囁いた廻はそっと撫でるような手つきで、俯く私の顎に指を添え、ゆっくりと上を向かせた。恐る恐る見上げた先には瓶詰めにされた蜂蜜に似た甘やかな黄色の瞳があり、その中央に私を収めた彼は力強く断言する。

「どんなことがあっても、俺には名前しか見えてないよ」

 廻は私の視線の高さに合わせるようにして腰を曲げるとそのまま額と額とを重ね合わせた。鼻先が触れ合い、私の視界が廻で埋まる。

「名前しか見えない」

 触れた合ったところからじんわりと安らぎが注がれ、満たされていく。ずっとそうしていたかった。ところが唐突にすっと額から熱が引き、私は我にかえる。廻は私を解放すると私の提げていた紙袋を指先でコツコツとつついた。甘えたような、期待するような、そわそわした気配を肌で感じる。

「ねぇ、名前が持ってるそれ、なぁに?」
「わかってて聞いてるんでしょ」
「俺専用?」
「当たり前でしょ。……それ以外、ありえないよ」

 私が可愛げもなくぶっきらぼうに差し出した紙袋を受け取った廻は、へへっ、と照れくさそうに表情を緩めると、すぐ近くの壁にもたれかかり、そのままずるずると床へ座りこんだ。そして「一緒に食べよ?」と手招きして私を膝の上へ座らせた。重くないように、痛くないように、とこわごわ座った彼の太腿は熱く柔らかな中にも筋肉の硬さを感じる。そんな私の落ち着かなさなどそっちのけで廻は嬉しそうに目を細め、躊躇なくラッピングにかけられたサテンのリボンを解いた。中から出てきたスティック状のガトーショコラに廻は「わ!おいしそう!」と歓声を上げる。

「食べていい?」
「どうぞ。廻専用、だからね。召し上がれ」

 その言葉に目を輝かせていた廻はガトーショコラにかじりつくよりも先に、私の耳元へ唇を寄せた。

「な、なに?」
「そういえばさ、さっきの、ヤキモチ妬いてくれたってこと?」
「……もしそうなら、嫌?面倒くさい?」
「ううん、嬉しい。名前が悲しむのは嫌だけど」

 ささめかれる一言一言が私の鼓膜に居座る女たちの亡霊を祓っていく。廻はその柔らかな唇で私の耳たぶを撫でながら指摘した。

「気付いてた?今の名前の耳、リボンとお揃いの色」

 そう言うと彼はラッピングに使っていたリボンを見せびらかすように掴む。リボンはのぼせたような濃い赤色だった。

「嬉しいけどさ、そんなに不安がらないでよ」

 廻はそのまま私の左手を絡めとると、そのリボンで私と廻、互いの薬指をぎゅっと結んだ。きつく縛られていた。リボンが指の肉に食い込んで痛みが走る。

「俺たち繋がってるんだ。こうやって、運命の赤い糸で、さ」

 圧迫されて鬱血した薬指の先は恥じらうように赤みを帯びていた。それを見て満ち足りた表情を浮かべた廻はようやくガトーショコラを口に運ぶ。

「おいしー! お店のやつみたい!」
「痛ッ、」

 廻が無邪気に感想を述べる一方で、彼に繋がれた私の手はその動きに連動して引きずられるように持ち上がり、宙に浮いた。吊られた指がずきずきと痛い。耳元で鳴るねっちりとした咀嚼音の生々しさに鼓膜が震え、震えは全身を巡った。

「名前、こっち向いて」

 私は言われるがまま身体をひねり、彼を見上げる。

「嫌になっても離してあげるつもり無いから」

 私はそのまま唇に降った熱を受け止める。唇を割り開かれ、隙間から舌の熱さと共にぼぞぼそと砕けた何かが口の中へと挿しこまれた。鼻からカカオの香りがもったりと抜ける。私は歯に沁みるような甘さを脳髄へと注がれながら思索を巡らせた。
 何が、繋がってる、だ。これじゃあ、繋がるというより、拘禁だ。
 どんな表情でこの独善的な行為に及んでいるのだろうか。好奇心に負けて薄目を開けたが最後、執着心と支配欲で蕩けるように濡れた瞳がじっと私を見つめていた。

「名前、覚悟してね」

 それでも私はこの男を愛するのだ。