何はともあれ
ほかでもない結婚記念日に出張へと旅立つ妻に、夫は請求した。
「お土産は手羽先がいいな。辛いやつ」
こちらの深刻さもお構いなしに愛空は食卓に並ぶ夕飯のおろしハンバーグに箸を伸ばす。あっけにとられ間抜け面を晒していた私と肉を咀嚼する愛空の視線がぶつかる。
「え、……怒らないの?」
顔色をうかがう私に愛空は悪戯っぽく微笑みかけた。肉厚な唇はハンバーグの脂でぬらりと濡れたように光っている。
「出張のフリで不倫旅行なら怒るけど、そうなの?」
「ちがう」
「じゃあ、この話はおしまい」と、彼は箸を置いた。
「でも、結婚記念日だよ?」
「あくまでも大事なのは俺たちが夫婦だってこと」
愛空は恥ずかしげもなくきっぱりと言い切る。唇をゆがめてはにかむ私を見て愛空は満足そうに頷くと、まだ一口も手を付けていない私の分のハンバーグを皿ごと取り上げた。
「でさ、奥さん。これ、中身が生焼けですよ?」
うそっ、と一口分欠けた彼のハンバーグを見ればたしかに中心は唇と同じ赤みを帯びた肉色だ。途端にしおしおと気持ちが萎み表情が曇る。愛空は「んな顔すんなよ、レンチンすりゃ大丈夫」とキッチンに運び込んだ皿にラップをかけると『おすすめ』モードで過熱を始めた。
「……ごめん、なにも満足にできてなくて」
自分の口から出た声は想像以上に悲壮感に溢れていた。テレビから流れる携帯キャリアのCMと、電子レンジが放つブーン、と低く小さな音が沈黙を救っている。
「なにも、って?」
私は、えーっと、と言葉がまとまらずに口ごもる。ゆっくりでいいよ、と愛空が私の頭をわしゃわしゃと撫でる。疲労と自己嫌悪で強張っていた肩の力がすとんと抜けたのがわかった。私は鼻から静かに息を吐き出してから観念したように懺悔する。
「サッカー選手の妻なら、本当は栄養士とか調理師の資格を取るべきだよね」
あらためて言葉にした途端、付け合わせのポテトサラダも、オリーブオイルが浮かぶオニオンスープも、いずれも不適切な食事に見えてくる。『アスリートフードマイスター』の資格取得は通信講座の資料請求の段階で止まっていた。
「はあ?いい、いい、そんなの」と愛空は呆れた声だったけれど、その声にはいつになく甘さと優しさが滲んでいた。そのうえで「あのねえ、長友選手でさえプロの専属料理人を雇ってんのよ?」と片眉を上げる。
「だから、栄養学も調理もプロを雇えばいいし、なんなら外食だっていい」
それに生焼けならレンチンすればいいしね。と愛空が目を細めると同時に電子レンジがチンッ、と甲高く鳴った。
「なあに、まだ何か言いたげじゃん?」
まさに図星で思わず「う、」と小さく声が漏れた。
「で?何が俺の奥さんをそんな顔にさせてるワケ?」
愛空は、あちち、と皿を取り出しながら尋ねる。言葉を選ぶ私を待ちながら彼はもう一皿も同じように温め始めた。
「私、普通の奥さんよりも家にいないなぁ、って」
朝は夫を玄関まで見送り、夜は手作りの温かい料理を何品目も作って夫を出迎える。そういう奥さんになりたかった。しかし、現実は残業が常態化し、終電での帰宅や出張も頻繁だ。そういう仕事だった。でもその仕事は、私の子どもの頃からの夢であり、やりがいがあって、待遇にも環境にも満足していた。
今、『理想の妻』と『理想の私』と『現実の私』は互いに遠く離れている。きっと多分この先も近づくことは無いように思えた。
「だから結婚したんじゃん」
忘れちゃった?と大袈裟に悲しそうな顔を作る愛空に首を振る。
忘れるわけない。長期の海外遠征で音信不通が続き自然消滅を覚悟していたところに届いた帰国の知らせ。出待ちのファンや報道陣に混じって彼の顔を見たその日、私はプロポーズされた。
「忙しい二人が未来永劫一緒にいるための最も合理的でハッピーでロマンチックな方法、だろ?」
私にはプロポーズの言葉よりも、そのあと愛空が照れくさそうに目を逸らして言ったこの言葉のほうが彼らしくてよほど印象的だった。
「まだ何かある?」
「んー……、」
愛空は、もうここまできたら全部言っちまえよ、と私を小突いた。
でも私はなんだかもう理想像に遠く及ばない部分を挙げ連なるのが馬鹿らしくなっていた。自己嫌悪を練り上げたところで、きっと愛空は私を肯定し納得させるに違いない。そういう男だ。
「そうだなー。乾燥機のタオルそのままにしちゃう、とか?」
随分と前に洗濯と乾燥を終えたタオルはまだドラム式洗濯乾燥機の中にいた。
一転して深刻さに欠ける自己嫌悪を漏らした私を愛空はきょとんとした顔で覗き込んでいる。かと思えば、彼は唐突に噴き出し、その大きな身体を揺さぶってげらげらと笑った。そして目の端に滲んだ涙を拭いながら言う。
「そうね、うん、タオルは俺が片付けるよ」
そんなに笑わなくてもいいじゃん!と抗議しながら気付けば私も笑っていた。
「あ、やっと笑った」
見計らったようにチンッ、と電子レンジがハンバーグの完成を軽快に告げる。
「ありがとう、愛空」
彼は安堵したように唇を緩ませ、私の頬に手を重ねた。
「こういうのが『二人で生きていく』ってコトなんじゃないの?」
力強く頷く私を見つめる愛空はプロポーズの時と同じ表情をしていた。
「タオル片付けるついでに、あとで一緒に風呂入ろっか」
「いいよ」
うん、そうだな。一人で生きられなくもないけれど、やっぱり『二人で生きていく』ほうが合理的でハッピーでロマンチックだ。