手のひらの大金星


──仰げば尊し 我が師の恩
 どこか下級生のクラスから聞こえてくる合唱曲の伴奏に鼻歌を乗せながら、この男は何者にも恩など感じなさそうだな。と失礼な感想を抱きつつ、私はその張本人である糸師凛を見つめる。真横から眺める彼の長く伸びた上下の睫毛は濡れたようにつややかで、手入れされたようにくるりと緩いカーブを描いていた。はしゃぐ心臓を悟られないように、私は少し深めの呼吸を繰り返す。吸って、吐いて、また吸って。

「先生、遅いね。会議、長引いてるのかな?」
「別に一緒に待っててほしいなんて言ってねぇけど」
「ちょっと、せっかく久々に会ったんだからそんなこと言わないでよ」

 二月もまもなく終わりを告げる。自由登校に切り替わり閑散とした三年生の教室のすぐ隣で、この空き教室はひっそりと忘れ去られ、色褪せていく最中だった。日に焼けきって黄ばみの強い乳白色に成り果てているこのカーテンはもともと何色だったんだろう。

「あーあ、敬語が使えない後輩を教育しきれないまま卒業かぁ」
「敬うほどの奴、いないからな」
「うわー、でたでた。そんなんでブルーロックにいる年上のお兄さんがたと上手くやれてんの?」
「別に上手くやる必要も無ぇし、そもそも他の奴らもこんな感じ」
「凛みたいな奴が大勢いるとか、引率する大人には心底同情するよ。学校だったら即刻学級崩壊してるでしょ」

 あはは、と私は豪快に笑いながら実のところはほっと胸を撫で下ろしていた。そうだ、本来はそうあるべきなのだ。礼節だの上下関係だの、旧世代的な価値観にとらわれるあまり目の前の才能に難癖つけて行く手を阻むなんて馬鹿らしい。時代は令和だ。邪魔になるものは全部この色褪せていく教室に置いていこう。たとえば私の凛への気持ち、とかも。

「でも、まさか凛が私と同じタイミングで卒業とはねぇ」
「卒業じゃねぇよ、転校だ」
「似たようなもんでしょ。ここからいなくなるんだもの」

 強化合宿に行くと言ったきり数カ月のあいだ音信不通だった後輩との再会は、校舎の中でも、校庭でも、駐輪場でもなく、リビングのテレビ画面越しだった。ブルーロックプロジェクト、ってなんだよ。なんで日本代表選手と戦ってるんだよ。ブルーロックだけに、まさに青天の霹靂って?いや、いいんだよ、そんなお寒いギャグは。とにかく私は驚きのあまり風呂上がりのアイスクリームをリビングのカーペットに落として汚した。

「転校先って通信制、だっけ?まぁ、その忙しさだとそうなるよね」

 その後、日本代表Uー20との試合を終えた凛は数回ひょっこりと部室に顔を出したかと思えば、また連絡がつかなくなっていた。再び新たな戦いに身を投じているんだろうな。しれっと部室から彼のロッカーと少量の私物が引き払われているのに気付いたその時から薄々こうなることには気付いていた。とはいえ彼の奮闘ぶりがリアルタイムで配信され始めたのは流石に予想外だったけど。
(「マネージャー、ブルーロックTVって見てる?」とサッカー部の部員から尋ねられたのと、「糸師くん、サッカー版のサバイバルオーディション番組出てるんでしょ?」とクラスのKーPOP好きな女子から声をかけられたのはほぼ同時期だったし、思わず「アイドルかよ」とツッコんだけど結局私も月額払ってそれを見ていた。)

「凛、いつまでこっちにいるの?」
「さあな」
「いつも急に来て、急にいなくなるよね」

 大勢が見守る中でまた一つ大きな戦いを終えた彼は、次の戦いまでのインターバルに入っていた。あの配信はあまりに話題になったから、もう凛と会うことは叶わないかもしれない。そう思っていた矢先、私と凛は職員室で鉢合わせた。それがつい30分くらい前の話。
 「あっ、」と小さく声を上げた私をよそに、彼の担任が「じゃあ、またあとで」と私と凛の間を通り抜けていった。その手にぺらりと持っていた書類には大きな明朝体で印字された<転学届>のタイトル。私はすべてを悟った。寂しいとか、悲しいとかって気持ちよりも先に、ついにブルーロックとやらは私立高校の経営でも始めるのか?という邪推が湧く。だって、これまでのスケール感を考えたらありえなくはないでしょ。
 
「凛、私の卒業式って来られそう?」
「知るかよ」
「とか言って、どうせ卒業式の前日とかに召集されるんでしょ」
「かもな」
「私のために『仰げば尊し』の二番と三番を歌う糸師クン、見たかったな〜」
「見んな」
「知ってた?卒業生は一番と三番を歌うんだよ。糸師クンと共同作業したかったな〜」
「ウゼェ」

 まあ、卒業証書の授与も、激励のスピーチも、送別の合唱曲も、在校生にとっての卒業式なんてひたすらに冗長で眠気を誘うだけのつまらない催しなんだけれども。
 でも、朝方の冷え込みの名残を感じる体育館に響く『仰げば尊し』は、早朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだときのように気が引き締まる感じがして好きだ。その空気の中に、私の生意気な後輩が、私の好きな糸師凛がいてくれたら、嬉しいな。って、ただ、それだけ。

「あーあ、卒業式の立て看板の前で凛と一緒に写真撮りたかったなぁ」
「断る」

 へらっと笑って「即答すんなよ」と小突いた上腕は、同じ部活で毎日顔を合わせていたあの時よりも筋肉がついて密度と質量が増していた。あの頃は、もうすべて、過去なんだよな。

──今こそ分かれ目 いざさらば
 校内に響いていた合唱曲が最後の一小節を終えて、再び周囲は静まり返る。空き教室の埃っぽく淀んだ空気は静寂をよりセンチメンタルなものにしていた。空気を入れ替えたところで事実は変わらないけれど、気分は多少マシになるだろう。私はサッシに手をかけて埃や砂粒がこびりついている窓を少しだけ開けた。吹き込む突風に色褪せたカーテンが揺れる。

「じゃあさ、何か記念品ちょうだいよ」
「は?」
「なんでもいいよ。物でも、手紙でも、なんでも」

 意味がわからないと言いたげな呆れを含んだ視線に私は「だって、」と言い訳する。

「もう私たち、部室で、駐輪場で、移動教室の廊下で、会うことないんだよ?」

 そうだ。もうあのカビ臭さが残る部室で「何聴いてんの?」と凛にちょっかいをかけることもないし、駐輪場であの細フレームの自転車を見かけることもなくなるし、移動教室がてら凛のクラスを覗いて塩対応で返されることもなくなるのだ。

「凛、サッカー部の寄せ書き、参加してないでしょ?」

 なにそれ、って顔するなよ。あったんだよ、後輩一同から卒業する先輩一人ひとりへの寄せ書きのプレゼント。

──<祝卒業!めでたい!>あはは、相変わらずへったくそな字。でもその豪快さは長所だからね。
──<またサイゼ行きましょ!>そうだね、よく練習終わりに行ったよね。今度は奢るよ。
──<大学でも勉強頑張ってください!>おう、キミも赤点脱出頑張れよ。もう勉強見てやれないからね。
──<いつも気さくで、時に厳しく選手たちを見守ってくれましたね。背番号はありませんが、あなたもチームの一員です。誇りを持って次のステージへと邁進してください>先生、ありがとうございます。気丈に振る舞う私がこっそり悔し涙を流せるのは先生の前だけでした。お身体に気をつけて。もう若くないんだから。

 でも、そこに糸師凛の名前は無いのだ。
 何年後かわからないけど、こうやって寄せ書きを見て三年間を振り返ろうとしたとき、あの神経質そうな筆跡も、淡白で生意気なメッセージも、そこには無いのだ。

「もう、先輩と後輩って関係で凛と会えるの、これが最後かもしれないね」

 なんなら、ブルーロックの次のインターバル期間には、彼は<糸師凛選手>として国外にいるかもしれない。なにせあのプロジェクトの展開は私を驚かせてばっかりだもの。国外は国外でも地球の裏側とかにいたら笑っちゃうな。

「だからね、後輩としての糸師凛を思い出すための、何かが欲しいんだ、私」

 欲張りだろうか。でも許してほしい。あなたとの思い出を象徴する何かを得られたら、あとはもう全部ここに置いていくから。そんな青春もあったよね、って笑い飛ばせるように。

「……くだらねぇ」

 そう言って、それまでずっとつまらなそうにスマホの画面を見たり、どこか遠くを眺めたりしていた凛が、おもむろに学ランの胸元に手を伸ばした。私は何を取り出すのだろう、とぼんやりその手の動きを目で追う。すると彼は学ランの第二ボタンに指をかけ、そのままそれをぷちりと引きちぎった。

「え、」

 引きちぎられる瞬間、西日を反射したボタンの金色がぴかりと瞬く。毎日の留め外しで糸が弱っていたボタンは案外すんなり取れてしまったものだから、目の前で何が起きているのか理解するよりも、そのボタンを乱暴に握らされるほうがはるかに早かった。

「……なにこれ」
「第二ボタン」
「えっと、」
「やる。持ってろ」

 ゆっくりと開いた手の中には手のひらの熱を吸って温かくなった金色のボタンがあった。私はそれを落とさないように再びぎゅっと握りしめる。
 この男は、その第二ボタンがどういった意味を持ち、どれほどの価値を持っているのか自覚しているんだろうか。凛の未来に邪魔になるものは全部ここに置いていくと誓ったばかりなのに、早くも決意を揺さぶられて私は思わず苦く笑った。

「えっと、これは……将来的にプレミア価格がついちゃうかもなぁ」
「売るな、馬鹿」

 頭を小さく小突かれて、痛くもないのに「いたっ!」と大げさにリアクションした。──そうでもしないと、私は自惚れに飲み込まれてしまいそうだった。
 私、思うんだ。私の恋と平穏を、アンタの未来と才能を、若気の至りで台無しのエンディングにするべきじゃないって。私なんかに構う暇あるなら、アンタはもっと上に上り詰められるはずでしょ。

「あっ、じゃあ、代わりに何かいる?……なに渡しても釣り合い取れないかもしれないけど」

 あはは、と自虐っぽく笑ったけれど、取ってつけたようなぎこちなさが拭えない。よこせと迫ったくせに、いざ受け取ると何かを差し出そうとしている私は狡くて小心者だ。数年先の未来で「ああ、あのボタン?おふざけで交換しただけだよ。今じゃ貴重だよねぇ。青春の思い出っていうの?」とさっぱりした様子で笑う自分の姿が浮かぶ。ねえ、思い出のまま終わらせてよ。アンタのために。私のために。

「なら、よこせよ」

 それだけ言って、凛は大きく一歩、私の前に壁のように迫った。細く開いた窓から冷えた空気が勢いよく吹き込んで乱暴に頬を撫でる。それとほぼ同時に凛は私の胸元で弱々しくはためいたセーラー服のスカーフの端を捕まえた。そしてそのまま手綱を引き寄せるように私との距離を詰めると前触れを感じさせる間もなく唇同士を重ね合わせた。二月の冷たく乾燥した空気の中で触れ合った唇だけがしっとりと熱い。

「今は、これでいい」

 彼の手は緩められることなくスカーフを握りしめたままだった。私たちは額を触れ合わせ、互いの表情を覗きあう。性急そうにぎらつくターコイズブルーの瞳は青二才という言葉を連想させた。

「プレミアついたそん時は、足りない分、回収しに行く」

 そのとき私はいったい何を差し出すことになるんだろう。
 もう、彼との関係を思い出という言葉でとどめておくのは難しそうだ。

「ねぇ、本当にプレミアついちゃったらどうするの?」
「……お前ごともらってチャラにしてやるよ」

 卒業すべきは糸師凛への想いではなく、己の臆病。そういうことなんだろう。
 色褪せた空き教室の中にひんやりと冷たい空気が充満する。もうそこに淀みはなく、それどころか清々しささえある。早朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだときのような。卒業式の仰げば尊しのような。

「じゃあ、絶対にプレミアついてもらわなくっちゃなぁ」

 フフッと小さく笑った私と無愛想な彼は、互いに熱を求めるようにじれったく鼻先を擦り合わせて、再び唇を重ね合わせた。
 握りしめた大金星の価値は私と凛、未来の二人で答え合わせをするとしよう。