地中海でも春は来る


「私だけはずっと冴くんのそばにいるからね」

 幼い私の一方的な誓いを彼はもう覚えていないだろう。
 あの頃、幼いながらに私は彼のことを可哀想な人だと思っていた。そしてあれから約十年経った今も、彼は可哀想な男のままだった。皆で寄ってたかってそうしてしまったのだ。
──憧れは、理解から最も遠い感情
 中学生のとき古本屋で立ち読みした漫画の中に出てきたそのセリフで、私は真っ先に冴のことを想った。だから彼は可哀想なんだ、と気付いた瞬間でもあった。そして私は再び心の中で同じ言葉を誓い直したのだ。私だけはずっと冴のそばにいよう。心のそばに。



「おかえり、冴」
「ああ。なんかようやく帰ってきた、って感じがする」
「お花見の場所、いろいろ考えたんだけど、やっぱり神社かなって。鎌倉だし。なんか観光にきたお上りさんみたいでアレだけど」

 空調の効いた成田空港から一転、気の早い太陽が深い木々をものともせずジリジリと私たちを焼く。まだ四月の後半だというのに風が止むと途端に初夏の暑さが身体を包んだ。私はブラウスの袖口を捲くって薄く汗ばんだ腕を空気に晒す。

「でも、ちょうど晴れてよかったね。一昨日までは雨続きだったんだよ?」

 私は冴を連れて神社へと向かう参道に連なる長い桜並木の間をだらりと歩く。石畳も側溝も、路上駐車された車のボンネットすらも、春の終わりに向けて桃色に染まっている最中だった。

「こんな直前じゃなくて、もっと事前に連絡くれてたら桜の見頃と帰国のタイミングが合うように教えてあげられたのに」

 ふぅん、と私の言葉に生返事で応えていた冴は途中で何かを思い出したようにぴたりと立ち止まると昼中の眩しさに目を細めながら桜の大木を仰ぎ見た。日差しに透けた髪の赤色は、この桜並木の入口にそびえ立つ鳥居の朱色によく似ている。

「冴、覚えてる?幼稚園のとき、このへんで凛と三人で鬼ごっこしたこと」
「そうだったか?」
「そうだよ。で、私が派手に転んで、頬を擦りむいてさ、」
「傷口洗ってやったら大泣きするし、服がずぶ濡れになった、って?」
「やだちょっと、覚えてるんじゃん」
「もう転ぶなよ」
「あのぉ、私もう高三なんですけど」
「お前のおっちょこちょいはガキのころから変わんねぇだろ」

 冴とのくだらないやり取りを通して私はいつも安堵する。<糸師冴>にきちんと向き合えているという実感に。

「冴だって変わんないよ。そういう、細かいこと覚えてて、意地悪で、でも本当は面倒見がいいところ」

 今も昔も、彼と関わった誰もが<糸師冴のサッカー>を語る。
 好奇、憧憬、羨望、嫉妬、語り口は様々だったが、皆一様に糸師冴のサッカーを語った。血の繋がった実の弟でさえも。サッカーが無くとも、糸師冴は糸師冴であるという当たり前のことを、誰もが見失っていた。それくらい彼の才能は目を焼くほどに眩しく鮮烈なのだ。小学校高学年の頃にはすでに、己が放つその強すぎる光によって、初対面の人間が糸師冴という人間性の輪郭を捉えることは難しくなっていたように思う。
 でも、私にとっての糸師冴は神童でも、日本サッカー界の若手有望選手でもなければ、レ・アールの下部組織に所属する有力選手でも、新世代世界11傑でもないのだ。

 私は覚えてる。
 幼稚園の年少のとき、家から数百メートル先の近所で迷子になって泣いてた私を補助輪つきの自転車で迎えに来た冴のこと。小学生のとき、自分の分は我慢して練習終わりのアイスを凛と私に差し出してくれた冴のこと。中学生のとき、同級生から意地悪されて影で泣いていた私のために教室に乗り込んできて暴れた冴のこと。
 私は知ってる。
 たとえ糸師冴のサッカーが凡人並みだったとしても、あるいは野球少年であったとしても、冴は私に同じようにしてくれたであろうことを。

「そういえばさ、スペインって桜咲かないの?」
「咲く」
「へぇ、……って、え!咲くの!?」
「そんなに驚くことか?」
「いや、だって冴、急に帰国するって連絡よこしてきて、花見がしたいって言い出すから、てっきりスペインには桜が無いんだと思って!」

 小言を捲し立てる母親のような早口を冴は鼻で小さく笑う。

「だって日本まで来ないとお前いないだろうが」
「それとお花見がどう関係……」
「あれ?お前、今年の春で高3?」

 昔からこうだ。テレビのチャンネルをザッピングするように、プレイリストの音楽をランダムで聴き飛ばすように、彼の気分一つで脈略無く話題は変わる。もう十年以上の付き合いともなれば、いちいちこんなことで目くじらを立てたりはしないけれど、彼は遠い異国の地でも同じようにこんな調子なのだろうか。その姿があまりに容易く思い浮かんで私はひとり唇の端を緩ませた。
「そうだよ。今年高3」と私は年齢差を指折り数えて確認している冴に答える。

「じゃあ来年は向こうで花見だな」
「……向こうって?」

 その瞬間、彼の口元も同じように緩く弧を描いていたのを私は見た。

「スペインにきまってんだろ」

 生温い四月の風が頬を撫で、スカートの裾を揺らす。石畳に散った桜の花びらは私たちを置き去りにして風下へと流れていった。聞き間違いではないのだろう。ごうごうと轟くほどの強い風ではなかったはずだ。むしろ音もなく、そよぎ、流れていった。
 困り果てた視線が藁をも掴むように冴のもとへと泳いでいく。今の気持ちを表現する適切な言葉が見つけられないまま開いた口は、開いたというよりはただの薄っすらとした隙間でしかなかった。

「だからパスポート作っとけよ。卒業したら迎えに行くから」
「……えっと、それは、観光的な?」
「いや、移住」

 移住。世界史でしか馴染みのない単語を投げ込まれて、耳元で爆竹を鳴らされた思いがした。頭が揺れてくらくらする。強すぎる日差しのせいかもしれない。周りの音が緩やかなノイズキャンセリングのように遠のき薄らいでいく中で、冴の「ってことはビザの申請もいるな」という独り言だけはやけにはっきりと聞き取れて、また私は混乱した。

「……聞いてんのか?」
「あ、はいっ!」

 慌てて見上げた先にあった冴の瞳は地中海をイメージさせる澄んだ青緑色だった。私の中で寄せては返す波のように再び<移住>の二文字が押し寄せてくる。

「嫌か?」
「そうじゃないけど」
「けど、なんだよ」

 それって、冗談とか、その場の思いつきでの話?高2の学年末試験で英語は赤点スレスレだったよ。一人っ子だからお父さんとお母さんを残していくの心配だな。飛行機3時間以上乗ってたことないんだけど海外行きの飛行機ってどんな感じだろう。進路変更って今からでも間に合うのかな。……ずっと、冴と一緒にいてもいいってことなんだよね?本当に、ずっとずっと一緒?
 山ほどある聞きたいことが絡まり合い喉の奥で詰まっていた。

「なんで、移住、なの?」

 冴への問いかけは、喉奥を塞ぐ疑問たちの僅かな隙間から絞り出されたようなか細い声だった。

「なんでって……」

 その瞬間、庭に干した洗濯物の間を吹き抜ける風のような軽やかさで冴が私の肩を掴み、そのまま、ぐいと引き寄せた。バランスを崩した私を受け止めるように冴は腕を私の背中へと回し直し、改めてきちんと私を正面から抱きしめる。

「俺の帰る場所は、お前の隣だから」

 春の陽気を目一杯吸い込んだ彼のシャツの胸元はほこほこと温かい。自然と私の帰る場所もここだと思った。

「いちいち15時間もかけて帰ってくるの怠いんだよ」

 不貞腐れたような物言いに思わず小さく笑みが漏れる。
 目は口ほどに物を言う。耳だけじゃなく、目でも言葉を受け止めたかった。私はその腕が緩められたタイミングを見計らって彼のことを見上げる。同時に冴もまた私のことを見下ろしていた。

「だから、ずっと俺の隣にいろ」
「……ほんと、冴って自分勝手」
「満更でもないくせに。それに、お前だけはずっと俺のそばにいるんだろ?」

 ああ、やられた。いつかの誓いをしっかり彼も覚えていた。

「またそうやって、細かいこと覚えてて意地悪言う」

 熱を持った顔を隠すように私は冴をきつく抱きしめ直してその胸板にぎゅっと顔を押し付ける。頭上から珍しく彼のクスクス笑いが聞こえたかと思えば、あの細くしなやかな指先がつつくように私の耳朶に触れた。

「桜と同じ色してんな」
「うるさいんですけど」

 誤魔化すようにグーで小突いた胸板からそっと顔を上げるとその先には異国の浜辺を思わせる青緑の瞳があった。私は彼と歩く日本とスペイン、両国の浜辺を想った。異国でもあの桃色の花弁は舞うのだろうか。

「スペインの桜も同じ色かな?」
「自分の目で確かめるんだな」

 確かにどうやら実物と見比べるしか手立てはなさそうだ。