馬鹿と偏愛のメロウ


――冬用のショートコート。新型iPhone。スタバの新作。
 今欲しいものを無心でノートの隅に書き連ねる。宿題も予習も終わって、問題集にも飽きてしまった。というか集中力がぷっつりと切れてしまった。限界。
 そんな私のもとに「閉館時間です」と無慈悲な呼びかけ。私は追い出されるようにいそいそと図書室をあとにした。廊下に私だけがぽつりと取り残される。夜の校舎は電灯もまばらで、しんと静まり返っていた。後ろを振り返っても人の気配はない。
 同じ時間でも先月の初めまでは、まだかろうじて空の端が明るかったのに今ではすっかり隅から隅まで真っ暗だ。不気味さと心細さに耐えかねてそのまま校舎を後にした私は校門前にある屋根付きのバス停に備え付けられたベンチに腰を下ろす。学校の周辺で灯りがついていてきちんと座れる場所はここくらいだ。心細さから逃げるようにここへやってきたのに、時刻表の下で剥がれかけている色褪せた広告が寂しさと重なる。

――『もうちょっとでおわる。まってて。』

 時間を確認しようと覗き込んだスマホの画面上にラインの通知が本文と一緒に表示された。直後に送られてきた意味不明でシュールなスタンプが無性に腹立たしい。

「うそつき」

 溜息と一緒に呟いた言葉は微かに白かった。『バス停のベンチで待ってる』と返信を打ち込む指先が震える。ユニクロで買ったカーディガンの防寒性はあまり高くない。朝は丁度よかったのにな。冬はもうすぐそこまで迫っている。
 寒さを紛らわすように身体を揺らしながら私は思わず、ああもう、あんな馬鹿のことは放っておいてバスが来たらそのまま乗っていこうかな、なんて考えてしまう。とはいえ、私はバス通学じゃないし、むしろ学校から家までは徒歩圏内なのだけど。

「名前ー!」

 声のする方向に顔を上げると校門の手前から、もこもこと羊のようなボアジャケットに身を包んだ男子生徒が大きく手を振っていた。あれが、私の彼氏だ。

「名前、なんでここで待ってんの?」
「バスで帰るんですー」
「じゃー、一緒に乗って帰る?」
「廻ん家、徒歩圏内じゃん」
「名前もじゃん」
「うるさい、サッカー馬鹿……」

 私の隣に腰を下ろしながら「学校の中で待ってりゃいいのに」と首をかしげる廻は、人のいない校舎の不気味さも知らないし、図書室が24時間営業だと思ってるんだろう。人の気も知らないで呑気なこと言いやがって。

「もうちょっとで終わるから待ってろってLINEしてきたのそっちじゃん。もっと早く来ると思ったんだもん」
「だっけ?」

 廻はスマホを見ながら「あ、ほんとだ、送ってた」と、へらへら笑う。今に始まったことじゃないけれど、廻はサッカー以外のことには本当に無頓着でめちゃくちゃで適当だ。もう一生サッカーだけやってろ。と眉間に皺を寄せていたら、突然伸びてきた手に鼻をつままれた。

「鼻、赤い」
「だからって突然つまむな」
「鼻つめたいね」

 どうやら廻は私の鼻をつまんでその鼻先を温めているつもりらしい。サッカーの練習で十分身体を動かしたあとの廻の指先は熱そのものだった。手のひらで溶けていく雪の結晶みたいに私の鼻先もするすると溶けてしまいそうなくらい熱い。

「外、寒かった?」
「蜂楽くんと違って私、制服とカーディガンだけなんで」
「先帰っててもよかったのに」
「だって、……一緒に帰りたかった」
「うん、おれも」

 これだけ文句をつけておきながら、結局私はチョロい女で、廻のそのふやけた笑顔を前にしたら何でも許してしまう。おれも、か。もうサッカー馬鹿なのは治らないから仕方ない。いいよ、許すよ、全部。

「あ、そーだ」

 廻は着ていたボアジャケットを脱いで私の肩にかけるとそのまま軽く抱きしめた。ジャケットには廻の香りと体温が残っていて胸の奥がきゅう、と鳴る。これを恋と呼ばずになんと呼ぶのか。鼻先だけでなく肩までもじゅわじゅわ、するする、溶けていく、気がする。

「それ着てな」

 夜の暗がりの中、蛍光灯の下で見る白のワイシャツ姿は眩しかった。目に映ったその白さが涼しく爽やかで心地よかったのは夏の頃まで。今ではすっかり寒々しい。きっとブレザーの上着はリュックの底に沈めてあるんだろう。そういうところも、もれなくだらしない人だから。

「私がこれ着てたら廻寒くない?」
「ううん。むしろ練習のあとだから暑いんだ俺」
「じゃあなんでこれ着てきたのさ」
「そうだなー、寒がりの彼女に貸すため?」
「あはは、いきなり良い彼氏ぶるのやめてよ」
「えー、俺、良い彼氏じゃないの?」
「……変人だけど良い彼氏」
「あっそ」
「わたしは?」
「救いようがない馬鹿だけど、最高の彼女」
「ちょっと、二言くらい余計なんだけど」
「あはは、ホントのことだから仕方ないじゃん」

 廻は笑って私の腕を引っ張った。無抵抗のまま廻に引き寄せられて、その意外と大きな手に両頬を包まれる。廻の手は今にも脈打ちそうなほど熱い。彼の瞳もまた、ピッチの興奮を引きずるように血走った熱を持っていた。熱が接近する。コツリ、と額同士が触れ合った。駄目だ、ぜんぶ、頭から爪先まで、ぜんぶ溶けちゃう。

「ホント、俺のこと好きとか、名前は救いようがない馬鹿」
「……馬鹿同士、お似合いじゃん?」

 サッカーが原動力のサッカー馬鹿。それが蜂楽廻。私の大好きな人。適当でも無頓着でも考えが浅くても、もういいよ。もう好きなだけサッカーしててください。同じくらい馬鹿な私はなんだって許すから。
 
「廻、途中でコンビニで肉まん買おうよ。半分こ」
「炭酸も買っていい?」
「ご自由に。私は奢りませんー」
「ちぇ、」