ラベージュの隙間で溺死


「うっしゃ!!」

 録画したマンUとチェルシーのプレミアリーグの試合。いや、これ観るの何度目だよ。確かにビッグマッチだろうけどさ。
 廻は大騒ぎしながら、もうわかりきった試合をまるで初めて見るような眼差しで追っていた。折角の午前授業で生まれた長めの放課後をソシャゲで浪費している私も偉そうなこと言えたもんじゃないけど。しかも廻の家で。

「ソシャゲ、スタミナ尽きた。暇」
「一緒に試合見る?」
「いい。そのあとハーフタイム明けに1点でしょ。知ってる」
「おー、よく覚えてんね」
「私が家に来るとき二回に一回はそれ見てるじゃん。さすがに覚える」

 “さすがに覚える”もなにも、恋人でもない男の部屋にそれだけの頻度で入り浸るのがそもそもアレなんだけど、廻だったらそれもまぁ許されるかなと思ってしまう。男友達って多分こういう感じ。廻のお母さんも優しくて、おおらかで、あんまり些細なことを気にしない人だし、なんなら気前よく夕飯を振る舞われることもあるくらいだから、結局私は息抜きみたいにここへ来ている。だからあくまでも、彼は、男友達。

「廻、なんかヘアピンとか無い?」
「んー、なんで?」
「前髪伸びて邪魔なの」

 時間を持て余してからようやくそれが気になった。スマホを見るにもテレビ画面を見るにも、ちくちくと視線を遮る前髪。普段は前髪を巻いてどうにか誤魔化していたけれど、いい加減切ってしまいたい。よりによって今朝は午前授業に浮かれて朝のんびりと身支度していたら前髪を巻き損ねてしまったし、ヘアピンの入ったポーチすら丸ごと家に置き去りにするという大失態をしでかした。

「俺、切ってあげよっか?」
「それ絶対失敗するパターンのやつじゃん」
「えー、俺、自分の前髪いっつも自分で切ってるよ?上手くない?」

 廻は自分の前髪を軽く持ち上げながら「ホラ、全然いけるっしょ?」と口をすぼめた。確かに仕上がりは悪くない。

「じゃあ、お願いしようかな」
「よしきた!」
「何そのテンション!絶対失敗はナシだからね!」
「ガッテン承知〜」
「ホントにわかってんの?」
「わかってるわかってる、ほらー、こっちで切るよー」

 引き出しから櫛とハサミを取り出した廻は「こっち、」と私の腕を掴んで部屋を出た。

「え、部屋で切らないの?」
「普通は風呂場で切らない?」
「え?」
「ん?」

 冷静に考えれば確かに浴室で髪を切って、浴室の床に落ちた髪をシャワーで排水溝に流す方法が一番散らからずに合理的な方法なのかもしれない。……でも待ってほしい。男女が浴室で二人きりになるというシチュエーションはちょっとどうなんだろう?なんか、ちょっと、ねえ?
 浴室に一歩また一歩と近づくにつれて緊張で身体が強張る。洗面所に転がる洗顔料、蓋を被せただけの整髪料、母親のものと思しき基礎化粧品、うちと同じハンドソープのボトル。生活感に満ちた洗面所がやけにリアルで生々しい。私ばっかりこんなに意識して馬鹿みたい。むしろ逆になんで廻は自然体なのか。

「どれくらいの長さで切る?」
「えっと……」

 浴室は互いの声がよく響いた。カラオケのエコーとは異なる反響。なんだか恥ずかしくなった私は思わず声をひそめた。

「ぎりぎり目にかからないくらい」
「え、そんなちょっとでいいの?」
「うん、前髪流したいから」

 廻は洗面所にあったクリップで私の顔回りの髪を手際よく留めると櫛で前髪を丁寧に梳かした。ラベンダー混じりのベージュカラーをした前髪が視界を塞ぐ。簾のような前髪越しに廻の視線を感じた。

「おー、本格的、」
「でしょ。お店でやってもらうやつの真似」

 動かないでよ。と念を押しながら廻はハサミを構えた。じりじりと焼かれるみたいな、熱を持った真っすぐな視線。もしかしたら、廻からこんな視線を注がれることは、もう二度と無いかもしれない。

「そんな真剣な表情、サッカー以外でもすることあるんだ」
「名前が知らないだけで、結構あるよ」
「うそー、例えば?」

 刃先が前髪に触れる。

「……名前のこと、考えてるとき」

 ジャキン。ハサミの音。切った髪がぱらぱらと床に散らばって足先に触れる。開けた視界。廻と、直接、視線がぶつかる。言葉の真意も、その真剣な瞳が捉えているものもわからなくて、あのハサミは前髪以外の何か大切なものも切り取ってしまったのかもしれない。

「あ、やば、」
「え、」

 あまり危機感のなさそうな「やばい」の単語で我に返った。慌てて浴室の鏡を覗き込む。そこには想定よりも1センチ弱短い仕上がりの前髪になった私が映っていた。

「え、どうすんのこれ」
「でも、ちゃんと綺麗に真っすぐ切れたよ」

 確かに切り口は綺麗だけど、この長さじゃ前髪は流せない。ちょっとでもスタイリングしようものならオン眉だ。廻は「あれだけ言ったのに!」と吠える私の前髪をわしわし撫でて、床に落ちきらずに残っていた細かい毛をはらった。

「気に入らないの?」
「お願いしたのと違う!」
「えー、でも、俺とお揃いじゃん」

 無邪気な丸い瞳が私を映しながら「それでも嫌?」と微笑む。

「パッツン前髪……」

 不貞腐れる私の顔を覗き込み、廻は「うん、似合ってる」と断言した。

「誰よりもかわいいよ」

 躊躇も照れもない一言と満面の笑み。廻はそのまま流れるような自然なモーションで私の額に唇で触れる。

廻は「切った髪、シャワーで流すから出てて」といつもと何ら変わりない様子で私を浴室から追い出した。

「……なにそれ」

 私だけが意識して、私だけが混乱して、私だけが動悸に慄いている。
 そんなの変じゃん。おかしいじゃん。
 浴室から聞こえるくぐもったシャワーの音。気のせいや勘違いには留めておけない言葉と行為に私は茫然とするしかなかった。少しすると浴室から廻が出てきて、再びじっと私を見つめる。

「どう?前髪、気に入った?」

 さっきも散々クレームを伝えましたけど?けれど、目の前で微笑む男と同じ前髪だと聞かされれば、不思議と良いものに思えてくるのだから、私もまぁ単純な女だこと。

「……結構良い」