降った愛が道標


 ウォータープルーフのマスカラでコーティングされた睫毛を、雪が容赦なく濡らしていく。今なら泣いてもばれないかもしれない。私はずずっと鼻をすすった。泣いたわけじゃない。寒かっただけ。ニュースいわく今日は今年二番目の寒さらしい。雪の予報なんてなかったじゃん。傘なんて持ってきてないよ。

「寒すぎ!いったんコンビニに避難しよ!」

 彼に腕を引かれて立ち寄ったファミマの出入口にはスポーツ新聞が陳列されていた。『激闘!U―20戦!ブルーロック劇的勝利!』の見出しの下、潔選手の後方でピンぼけして写る男が私の隣で鮮明に笑っている。

「あはは、名前ってば真っ白!」
「えー、廻だって頭に雪積もってるよ」

 指摘された廻はブルブルと豪快に頭を振って雪を落とした。さながらシャンプー後の犬だ。緩やかにウェーブした黒と黄の髪が遊ぶように揺れる姿を見ながら私は身体についた雪を払った。

「待って、名前、濡れてる」

 そう言って、雪に濡れた私の頬を廻の親指が拭う。外はあれだけ寒かったのにその指先は内側からじんわりと熱が滲み出していた。触れられた箇所がじんじんと火傷みたいに熱い。

「あ、いいこと思いついちゃった」

 私の頬を拭っていた廻は口元に上機嫌を浮かべて、私の手を引くと店の奥へとずんずん進んでいった。そのまま廻は冷凍ケースの前で立ち止まる。足元で雪に濡れた靴底がキュッ、と鳴った。

「冬と言ったらコレっしょ!」

 そう言って彼は冷凍ケースの中に並ぶアイスの中から自信満々に雪見だいふくを取り出した。

「白くて、すべすべで、もちもち」

 嬉しそうに微笑んだ彼の視線の先は私の瞳の数センチ下にあった。思わず先程まで触れられていた頬を自らつまんだ。白くて、すべすべで、もちもち。突如、冷えきっていた頬に血が巡り発熱した感覚があった。

「こんな寒いのに、アイス?」
「でも、雪見 だいふくなんだから、冬が旬でしょ?」

 雪見だいふくに旬という言葉を使う人間を初めて見た。旬があるかは定かじゃないが、たしかにお馴染みの赤いパッケージをあらためてまじまじ観察すると今日の雪によく似た大ぶりの雪がゆらゆらと舞っている。
 じっとパッケージを見つめる私に気付いた廻は冷凍ケースを閉じる手を止めて「名前も食べる?」と同じものをもう一つ取り出そうとした。

「いいよ、私は。寒くなっちゃいそうだし」
「そう?」

 それでも余程食い意地が張って見えたのだろうか。

「じゃあ、一個わけてあげる」
「二個しかないのに随分と大盤振る舞いじゃん」

 そりゃそうよ。と、廻は雪見だいふくを購入する動機であるらしい私の頬をぷに、とつまみ、肉の感触を確かめてから言う。

「だって、名前は俺のトクベツだもん」

 彼の目は優しげに弧を描いていた。『愛の本質は与えること』とは誰の言葉だっただろうか。たかだか150円そこらのアイス一つで大げさかもしれない。けれど、なんの躊躇もなく、さも当然のように、二個のうちの一つを差し出すという行為は紛れもなく愛情で、トクベツだった。
 
「寒くなっちゃったら、俺が暖めてあげるね」
 
 含みのある悪戯っぽい笑顔。私は彼のぬくもりが染み付いたいつもの布団を思い描いた。散らかった机、おもちゃみたいなオブジェ、独特の模様が描かれたラグマット、家全体に薄く漂う油絵具のオイルの匂い。私はあと何回あの部屋に通えるだろうか。

「じゃあ、アイスと一緒に炭酸水も買ってあげる」
「あれ?名前、ほっぺ赤くない?もしかして、照れてる?」
「赤くない!照れてない!」

 私は廻の手からアイスを奪い取り、近くに積んであった買い物かごにそれを放り込んだ。そして冷凍ケースと対面の位置にあった飲料コーナーから彼がいつも飲んでいるのと同じ銘柄の炭酸水を手に取った。

「もう、名前ってば素直じゃないなぁ」
「可愛くなくてごめんなさいね!」
「あれ?自分で気付いてない?」
「何が?」
「可愛くないところも可愛いって」
「はぁ?」

 思わず炭酸水も買い物かごに乱暴に放り込んでしまった。ああ、これは家でキャップを開けたときに噴き出すかもしれないな。と考えを巡らせている私に「そういうところだよ」と廻が笑う。このとき図らずして視線がぶつかり絡まった。べっ甲飴のような透き通った黄色の瞳に私が映る。

「名前、ほっぺも鼻先も耳たぶも全部真っ赤だね」

 そう言った廻の眉はほんの少しだけ困ったようにハの字を描いていた。

「会計、してくる」

 私は廻を突き放すように買い物かご片手にレジへと進んでいった。レジの真横では相変わらずスポーツ新聞が彼と彼らの活躍を讃えていた。来年の冬は私と廻、お互いどこにいるんだろう。
 店員がビニール袋にアイスと炭酸水を詰める姿をぼんやり見つめながら、私は二人でアイスを選ぶ冬はこれで最後になるかもしれないなと思った。途端に鼻の奥がツーンと痛み、私は唇を噛み締めた。頬も鼻先も耳たぶも全て真っ赤になった本当の理由にきっと廻は気付いている。自動ドアの向こう側ではまだ雪がちらついていた。

「廻、おまたせ、行こっか」
「ううん、ほら、俺持つよ。重たいでしょ?」
「ありがとう」

 廻は私の手からさほど重くもないビニール袋を受け取って、私たちは来たとき同様再び手を繋いで歩きだした。

「……俺、ずっと、」

 数歩進んだところで廻が立ち止まった。私も足を止める。不安になって彼を見上げると、そこにはじっと真剣な眼差しを向ける廻がいた。

「この先どこにいても、名前のことが好きだよ」

 ウォータープルーフのマスカラでコーティングされた睫毛を、雪が容赦なく濡らしていく。今なら泣いてもばれないかもしれない。私はずずっと鼻をすすった。けれど、泣いたわけじゃない。寒かっただけ。……そういうことにしておいてよ。

「っ……私だって、ずっと、どこにいたって廻が好きだよ」