抱いていれば大人しい台風


「蜂楽って馬鹿だよね。知ってたけど」

 当の本人はそれを聞いて白紙の原稿用紙に突っ伏しながらケラケラと笑う。二人きりの生徒指導室は少し埃っぽくて、窓から斜めに差し込んだ日差しの中、小さな塵がきらめきながら漂っていた。
 私が蜂楽の向かいに座って30分ほど経つが、シャープペンも消しゴムも最初の位置から一ミリだって動いていない。この調子じゃ、あれだけ怒鳴り散らしていた学年主任も今日中には反省文を回収するのは難しいだろう。

「馬鹿って言うわりにホントはドキッとしたんでしょ?」
「血の気が引くほうの、ドキッと、ね」
「名前は大袈裟だなぁ。あんなのたかが鼻血じゃん」

 相手の転びかたがヘタクソだっただけだよ。と悪びれる様子も無い蜂楽は思い出すのも嫌そうに顔をしかめた。

 発端は今から一時間ほど前、放課後の廊下での些細な出来事だった。
 私は隣のクラスの出入口付近で蜂楽に貸していた教科書を回収するべく、ロスタイムに突入したらしいホームルームの終わりを待っていた。少しすると終礼の挨拶が教室に響き、生徒たちが清々しい表情でわらわらと群れを成しながら廊下になだれ込んでくる。その群れの中に蜂楽はいなかった。まだ教室の中かな?と私が教室の扉から身を乗り出そうとしたその時だった。

「邪魔、ブス、」

 教室から出てきた名前も知らない男子生徒が私に強くぶつかった。彼はよろめいた私をいらいらと険のある表情で睨み、舌打ちすると、そのまま何事もなかったように去って、いくはずだった。
 
「謝れよ」

 それが蜂楽の声だと認識したときにはもうすべて終わっていた。
 バネのように大きく跳ねた蜂楽が、相手の背中を大きく飛び蹴ると、そのアシックスの白い上履きの靴底は、ぐしゃッ、とワイシャツの背中にめり込んだ。上履きに入った青い3本線のラインはあまりに鮮烈で、私はただ茫然と立ち尽くしてそれを見ていた。まるでどこかから連れてこられた野生の獣みたいだ、と思った。
 蹴り飛ばされた男子生徒は蜂楽の奇襲のような飛び蹴りで受け身もとれないまま前のめりで床に沈んだ。その衝撃で鼻血が出たらしい。血で顔面を濡らした男子生徒。それを見た女子生徒の悲鳴。伝染してくざわめき。私はそこでようやく我に返った。
 
 ほどなくして騒ぎを聞きつけた学年主任が血相を変えて飛んできた。日頃から素行不良の男子生徒と、変わり者の蜂楽と、まあまあ勤勉で校則違反もない平均値な私。その組み合わせに学年主任は一瞬首を傾げたが「まずは手当を、」と血まみれの男子生徒は保健室へ、私と蜂楽は事情聴取のため生徒指導室へ連行されることになった。
 途中、蜂楽が「大丈夫」と唇の動きだけで私を励ます。その言葉の通り、私はお咎めなしとの判断が下った。

「やっぱり蜂楽は馬鹿だよ」

 蜂楽は大袈裟と言ったけれど、騒動の直後よりも今のほうがずっと血の気が引いていた。
 悪意の言葉も、出血も、悲鳴も、今となっては些細なことに思える。私はあんな男の悪意に傷付かないし、それで心が壊れたりもしない。最悪!って友達同士の話のネタにすれば解消される、そういう程度のもの。なのに、蜂楽、アンタが飛び蹴りに使ったそれは、アンタの脚は、

「そんなことに使っちゃダメ。その脚は、蜂楽の人生なんだから」
「そんなこと、かぁ」
「……サッカー出来なくなったらどうすんの」
「んー、停学になってもボールがあればサッカーは出来るし」
「ちがう、怪我の話をしてるの、私は」
「あんなので壊れるほど人間ヤワじゃないよ」

 蜂楽は話を逸らすように「あーあ、反省してないから書けないや」と反省文用の原稿用紙を机の端に追いやると、そのまま大きくバンザイして背を反らしながら身体を伸ばした。
 
「ねぇ、名前、そんなことよりさ、俺のこと好きになった?」

 無防備な私の身体を熱い血が一瞬で駆け巡る。言葉の意味が脳に届くまで長い時間を要した。間抜けな声で「は?」と聞き返す私に蜂楽は信じられないとでも言いたげに「えーッ!」と不満そうな声を上げる。

「は?じゃないよ!何で俺があんなことしたと思ってるワケ?」

 蜂楽は体を反らせた反動でグワンッと前のめりになると、至近距離で私をジッと見つめた。その真ん丸でたっぷりと水気を含んだ瞳に、動揺している私が映る。

「俺さぁ、好きな子がブスって言われて黙ってられるほど、温厚じゃないよ」

 蜂楽はゆっくりと腕を伸ばして私の頭をひとつ撫でた。私の肩がびくりと跳ねる。蜂楽はうっとり恍惚とした表情で独り言のように呟いた。

「ねぇ、名前、好きだよ」

 ニッと笑ったその目は、背中を蹴り飛ばしたあの時と同じように、野生の獣の如くぎらついていた。

「蜂楽、アンタってホント、馬鹿」
「それでもいいよ」