ヴィクトリアへの予告


「ずっと一緒にいてよ、そばにいて」

 蜂楽の口ぶりは「消しゴム忘れちゃった、貸してよ」と同程度に軽くなめらかで、ふわりとした耳障りだった。あまり重大なことではないかのように。すぐ隣から聞こえるシャープペンが文字を綴っていく音がその一瞬の静寂を埋める。

「一緒にいたいから、俺、こうやって補習受けてるんだよ?」
「嘘つけ。Tuesdayのスペルを間違うような成績だから補習を受けてるんだよ?」

 それはそれ、これはこれ、と蜂楽はもっともらしく言って課題のプリントをいかにも当てずっぽうな様子で埋めていく。汚い文字でスペルを誤魔化すなど小手先のズルを駆使しながら。私も何もなかったみたいに手元のプリントに視線を落とした。大問四、仮定法過去、一番嫌い。
 
「名前は、俺にとっての勝利の女神サマだからさ、」

 シャープペンのノック部分が柔らかく頬にめり込む。驚いて視線を上げると蜂楽がその丸い目を悪戯っぽく細めて私を見つめていた。ちょっとアンタね、と文句を言いかけたところに蜂楽は言葉を重ねる。 

「なんかさー、ハットトリック決められそうな気がするんだよね」

 四つ上の兄がサッカー部だったこともあって、かろうじてハットトリックの意味は知っていた。

「それ、一人で三点取るやつ?」
「そうそう。なんかさ、予感がするんだよね」
「予感?」
「一緒にいると、ハットトリック決めたときみたいにドキドキする」
「なにそれ」
「思い描いたこと、全部叶っちゃいそうな予感」

 そんな漫画みたいなことってある?身内がサッカー経験者だからこそ、なおさらそのドラマチックな言葉に疑いの目を向けた。それを察してか蜂楽は「おいでよ」と言葉を続けた。

「俺の試合、見に来たことないっしょ?おいでよ。」
「え、」
「捧げるよ、三点」

 私よりも大きくて形の良い目は、はっきりと見開かれ自信に満ち満ちていた。

「証明してあげる。俺の勝利の女神サマだって」

 真正面からのド直球なアプローチに私は内心あたふたと狼狽していた。それでも動揺を表に出したらなんだか負けな気がして、鈍感、あるいは手慣れてるかのように、唇の端を一瞬わずかに引っ張って、なんとか微笑みを返した。

「あれでしょ、格下の相手なんでしょ」
「ううん、前に試合した二回ともウチの学校が負けてるよ」
「なのに、捧げる、とか言ってるの?」

 蜂楽は依然として自信あり気に大きく頷いた。そして「賭けてもいいよ」とさえ言った。
 そこまで言われるとなんだか私も張り合いたい気分になって、存外私も負けず嫌いなんだなと気付かされる。

「じゃあ、そう、……三点決めたらキスしてあげる」

 決して自分を安売りしてるわけじゃない。そんなドラマチックなことが本当に起こるのだとしたら、もっとドラマチックなことが起きてもいいんじゃないかと思ったのだ。それこそ漫画みたいに。

「そんなこと言っていいの?」
「蜂楽の悔しがる顔、早く見たい」

 普段の蜂楽ならきっとわざとらしく不機嫌そうな顔を作って「絶対勝つもん」などと言うだろう。なのに今日の彼はふっと唇を緩ませるだけだった。それに対して私が違和感を感じるよりも早く彼は動いた。教室の窓から吹き込む風みたいに。その風が柔らかくカーテンを揺らすみたいに。蜂楽の唇が私の唇に、触れた。

「蜂楽、私の話、聞いてた?」

 唇が離れたあと、私は確かめるみたいに自分の口元を押さえながら彼に問いかけた。蜂楽はキスの直後とは思えないくらいケロッとした表情で、さも当然と言わんばかりに答える。

「だって俺、ハットトリック決めるもん」

 呆れた。もし決まらなかったら詐欺じゃん。文句を言いたげな私のことなんかお構いなしに蜂楽はニッと笑って私を指差す。

「最前列に座っててよね。俺のスーパーゴール見逃さないように」
 
 その週の土曜日、私は馬鹿正直に競技場の最前列でちらちらと揺れ動くインナーカラーの黄色を追っていた。試合終了のホイッスルが鳴り響く。試合のスコアは4-0でうちの学校の勝利。
 え?スコアの内訳?それはもちろん……

「ねー、一点多く取っちゃったからボーナスで、もう一回キスしていい?」