ウサギと少女とワンダーランド


 きっと私は寝たきりで、醒めない夢の中を過ごしてる。新しく買った英語の参考書も、アウトレット価格のエアマックスも、サイゼリアのミラノ風ドリアも、ぜんぶ夢。緊張して上手く笑えないのも、夢だから。
 初めてできた彼氏とのデート。三回目にもなるというのに未だ現実味が無くて私はずっとふわふわしてる。キミの髪の毛みたいに。

 「あ、」と一瞬だけ止めた足にキミは気付く。普段ぼんやりしてるクセにね。「気になるの?」だとか「寄ってく?」なんて一言も言わずに、まるで自分が入りたかったみたいな顔して半歩先を進んでいく。私は慣れない巻き髪の毛先を揺らしてほんの少し早歩きでキミのあとを追いかける。そのもどかしさは未だに下の名前でキミのことを呼べない私と、「キミ」こと「凪誠士郎」との距離感に似ていた。
 
「好きなの?」

 極端に言葉を削ぎ落した問いかけに、私は売り場のキーホルダーに伸ばしかけていた手を止める。凪くんはそのキーホルダーとサイズ違いのぬいぐるみに視線を向けていた。ああ、と彼が削り落としてしまった主語を見つけ、拾い上げる。

「うん、ミッフィー、好き」

 凪くんに似てるから。タイミングを逃してしまった言葉を丸呑みして、無かったことにして、「ミッフィーショップ、かわいい。うれしい」と微笑んでみせる。ここは「ありがとうね」と言うべきだったのに、肝心なところを削ってしまった。私たちはきっと互いに言葉の削りかたがへたっぴだ。

「よかった」
「え、」
「今日イチで目きらきらしてる」

 参考書も、エアマックスも、ミラノ風ドリアも、特別好きってワケじゃない。必要に迫られていたり、ちょっと気になったり、限られた選択肢の中から偶然選んだだけ。でも、そう、たしかに、この白くて無表情のウサギは私が自らの意思で好きなもの。謎に納得して、うん、と頷くと凪くんはフフッと微かに笑った。

「凪くんも笑ったりとかするんだね」

 私の記憶の中に口角の上がっている凪くんはいなかった。たまに目尻が優しげに下がっていることはあったけれど。初めて見た緩やかな笑顔に気を取られていたら存外失礼なことを口走ったなと気が付いて、慌てて「いや、笑った顔、可愛いなって」とフォローを付け加える。けれど、男の子に「可愛い」はこれもまた失言だったかなと私の目が泳ぐ。

「俺だって笑うよ。俺のことなんだと思ってんの」
「……ミッフィーちゃん」

 ヘタなジョーク。店に並ぶウサギたちは揃いも揃って今の彼と同じ無表情だった。怒らせたかと思っておどおど謝罪を述べようとした瞬間、彼がその大きな手でぬいぐるみをむんずと掴み、彼の整った顔の真横に並べた。

「似てる?」

 彼なりのジョーク。あの「凪誠士郎」もジョークを言ったりするんだ、という意外性。そして機嫌を損ねたわけではないとわかった安心感で笑いが漏れる。発せられた笑い声が思いのほか大きくて私は慌ててそれを抑えつけた。腹筋がきゅうと締まる。それを見て凪くんはまた表情を綻ばせた。

「やっぱ、アンタのほうがずっと可愛いよ」

 率直すぎる感想に心臓が潰れる。じゃなきゃ、こんなにバクバクと鼓動がうるさいのはおかしいじゃない。私の言葉も、表情も、絡まった糸みたいにもつれてる。

「なにニヤけてんの。調子狂う」

 そう言って凪くんは遠慮がちに私の頬をつまんだ。指先も力加減もぎこちなくて、今度こそ私の心臓は潰れてしまったに違いない。表情は相変わらず周りのウサギたちと同じだったけれど、耳だけはじわりと熟した桃の色に染まっていて、そこで初めて彼が照れているのだと気が付いた。

「調子狂うのは、私もだよ」

 これからもっと、私の知らない、なんならキミ自身も知らない表情がこうやって産声をあげるのかな?互いの知らない部分に足を踏み入れて、光を当てて、知っていくのだろうか。
 そう、私たちはまだ十代。心すらも未開拓。

「ね、誠士郎って呼んでもいい?」

 まずは、ここから。