罫線を手繰り寄せて


 鮮烈。LOFTの文具コーナーで私の視線を絡め取ったノートの表紙は、豹馬の髪色。
 気付けばそれは私の手元にあって、代わりに私の財布からは759円減っていた。衝動買いと言ってしまえばそこまでだけど、ここはポジティブに運命と呼ばせてもらおうか。直感には従ったほうがいいと思わない?

「というわけで、交換日記をしよう」

 みんなごめん。これを一刻も早く伝えたくて掃除当番は露骨な手抜きで終わらせてきた。
 私は机に向かう豹馬を見下ろしながら、鞄から取り出したノートを差し出して「交換日記、しよ?」と、もう一度口にする。自習室における私語厳禁のルールは撤回だ。だって今ここには私と豹馬しかいないのだから。
 赤紫の表紙と私を交互に見比べた豹馬は「普通に自分で日記つければ?」とたとえ恋人相手でも興味の向かないものには容赦無い。

「ひとりじゃ続かないもん、三日坊主だから」
「で、俺を巻き込むことにしたってワケ」
「うん、……それに手書きってなんかロマンチックじゃん」
「じゃあ、俺が貸すノートにもロマンス感じてくれてんだ?」

 そう言って豹馬は頬杖をつきながら上目遣いに私を見上げた。気まずさとくすぐったさに火照り始めた顔に豹馬もきっと気付いてる。「まあ、ズボラな豹馬に頼むもんじゃないか」と可愛くない照れ隠しの言葉を差し出す代わりに、私はノートを引っ込めようと腕を引きかけた。

「なあ、」

 しかし豹馬は私の手首を掴み、それを許さない。いつだったか、蟹の脚みたいに細いのな、と揶揄した私の手首は彼の手を振り払えなかった。

「諦めんなよ、」

 そのまま豹馬は私をぐいと引き寄せる。私は慣性の法則に身を任せ、されるがまま不可抗力のように豹馬に抱きついた。豹馬はしてやったりという顔を浮かべて、赤ん坊の寝かしつけのように私の腰を一定のリズムでポン、ポン、と叩いて言う。

「やらないとは言ってない」

 いつの間に取り上げたのかノートは彼の手元にあった。

「ロマンチック、お望みなんだろ?」

 かくして私たちの交換日記は始まった。
 手書きの文章はその人の魂に触れるみたいでこそばゆい。罫線からはみ出した勢い任せの文字。誤字の箇所とそこに引かれた取り消し線。掠れ気味のボールペンを途中で他のものに取りかえたりだとか。ページの中のそこかしこに存在する千切豹馬らしさが愛おしい。

 ──今月のTOP3 読んだ本
 なんか突然ランキング始まったし。深夜の静寂をできるだけ壊さないよう私は声を潜めてクスクス笑う。ノートを照らすデスクライトはさながらスポットライトだ。

「あはは、どんな顔してこれ書いてたワケ?テンション謎、」

 やっぱり交換日記はロマンスだ。SNSで不特定多数に垂れ流された日常を尻目に、耳元でねえねえと囁き合うみたく綴られたそれ。私が豹馬のために、豹馬が私のために綴ったそれ。あなたが何を書こうか思考を巡らせたその時間も、ノートの上にペンを走らせたその時間も、ぜんぶ私だけに捧げられたもの。
 こんな私たちだから、時にはノートが戻ってくるまで数日を要することもあったけれど、当初の予想よりはずっと長く続いたし、しっかり中身の詰まった内容だったと思う。その順調ぶりは、もはや習慣であり日常だった。

 でも、ノートは最後のページに辿り着かず終わってしまった。途切れた交換ノートの最後の順番は豹馬。
 そのページには一言、「行ってくる」
 それはどのSNSにも記されなかった彼の決意表明だった。そこから先、サッカーと向き合った彼がどこへ行くのか、何を得るのか、どうなってしまうのか。言葉にできない気持ちと一緒に、積み重ねた日々をノートごと抱きしめて私は眠った。


「ねえ、ママ、」

 床に座り込んでいる私の腕に小さな女の子が絡みついて私はようやく我にかえる。少女はつまらなそうに床に転がるクッキーの空き缶を爪先でつついた。俯く顔にかかる髪はノートの表紙と同じ色。

「これはねえ、パパとママの交換日記」

 コウカンニッキ?と首を傾げるその子に意味を教えようと口を開いた瞬間、部屋の扉が開いた。

「名前、そっちは荷造り終わりそう?」
「見て、豹馬、これ覚えてる?」

 クローゼットは時にタイムカプセルになる。引っ越しの荷造りで偶然見つけた交換日記を豹馬に見せると彼は「おー!懐かしいじゃん!」と歓声を上げた。「ほんと、よくここまで来たよね」としみじみ呟いた私の頭をくしゃりと撫でて、豹馬は私たちの遺伝子を分け合った存在であるその少女を抱き上げる。

「お前たちがいたから、だよ」

 当時高校生だった彼が参加したプロジェクト。そこで出会ったライバルたち。スタジアムでの晴れ舞台。その後の新たなステージでの活躍。そして何より彼の脚を生かしてくれた神様の気まぐれ。もうちょっとだけ欲張っていいなら私や娘の存在。ここまで重ねてきた全部がうまく繋がり、ピースがはまって、今がある。

「なあ、海外に引っ越すの、不安じゃない?」

 独り言を吐き出すみたく豹馬が私に問いかける。

「不安より楽しみのほうが大きいよ。だって、」
 
 だって、新たな夢への「行ってくる」、今度は私も一緒だから。