心身飢餓


 ちらちら小さく振り向きながら、少し遠くの列で眠そうにしている先輩にアイコンタクトを送る。まるで自分の存在を知らせるみたいに。けれど、ばちりと視線がぶつかって嬉しくなるよりも先に脳味噌がショートした。
 暗転。ゆらぎ。くるくる。ばいばい。
 体育館に響く校長先生の長話が遠ざかる。驚いたクラスメイトの小さな悲鳴。目の前が真っ暗になる寸前、私は、黄色を見た。発光するみたいに力強い黄色。

「名前、おはよ、」

 次に目を開けた瞬間、状況を把握するよりも先に聞き慣れた声が降ってきた。

「全校集会中に突然倒れたからびっくりしちゃった」

 「どっか痛いところとか無い?」と私の頭頂部に触れる彼は同じクラスの蜂楽廻だった。
 ベッドに横たわる私を蜂蜜色の瞳が覗き込む。その背後には天井から床までの長さがある真っ白なカーテンが私たちをぐるりと一周覆っていた。やたらと真っ白な空間の中にぽつんと私と彼だけが存在している。つん、と消毒液の匂いが鼻をついた。

「どこも痛くないから、多分もう大丈夫」
「先生が貧血だって言ってたよ。もうちょっと寝てたら?」
「じゃあ、そうする」

 応急処置のひとつなのか、渋々留めたワイシャツの第一ボタンも、首に巻かれた制服のリボンも、ワンポイントの入った濃紺のハイソックスも、ありとあらゆる窮屈が取り除かれていた。つま先に触れる糊のきいたシーツがひんやりと気持ちいい。
 遠くで学生たちのにぎやかな声が聞こえる。このやたらと白い空間は病院ではなく保健室のようだった。

「今、何時?」
「わかんないけど昼休み中だよ」

 制服のポケットから取り出したスマホには倒れた私を心配するクラスの友達からのLINEが数件。先輩からの連絡は無い。もやもやと胸がつかえてきた私は考えることを放棄して、そのままスマホを枕の下に押し込んだ。

「そーだ名前、一緒に食べよ?」

 昼休みだし。と蜂楽はカサカサと袋を鳴らしながら私の膝の上にいくつかのパンを並べた。ツナサンドとハムサンドとたまごサンドがセットになったミックスサンド、新発売のシールが付いた欧風カレーパン、ザクザク系のメロンパン、板チョコが包んであるクロワッサン。
 関節を痛めた老人のようにのろのろと上体を起こした私はミックスサンドに手を伸ばす。私は成分表示のシールに視線を走らせてから再びそれを元の場所に戻した。

「私はいいよ、食事制限中なんだ」

 蜂楽のぱっちりした目がきょとんと丸く見開かれる。

「それで、か……」

 ふっ、と細めた目の奥で色の薄い瞳が気の毒そうに、寂しそうに、私を見つめていた。

「倒れた時さ、抱きかかえたら俺のリュックくらい軽いから、俺すっごくビックリして、怖くなっちゃった」

 じゃあ、これは俺がもらうね。と蜂楽は私が手にしていたミックスサンドを手に取った。ばりばりばり。静かな保健室にビニール包装を裂く音が響く。

「ねぇ、それって、彼氏のため?」

 耳に残ったビニールの裂ける音と蜂楽の声が重なる。ずん、と沈んだ温度の低い声だった。
 腹の奥がぐねりとうねり、どろどろと血が巡るのがわかる。蜂楽には知られたくなかった。そう思ってしまった自分のいやらしさに唖然とし、嫌悪感がせり上がってくる。ここで彼氏の存在を誤魔化してしまえばさらに自己嫌悪が加速するような気がして、私は正直に「うん、」と答えた。

「先輩に『痩せろよデブ』ってからかわれるから」

 私は同じ部活の先輩と付き合っていた。多分私は先輩が望むような、華奢な骨格をした身体の薄い女の子にはなれないけれど、努力する過程で認めてもらえるんじゃないかと信じ込もうとしていた。

「なんだよ、それ」

 え、めっちゃひどくない?サイテー。だとかって軽い調子で受け止めてほしかったのに、蜂楽は目を伏せて今にも泣きだしそうに眉をひそめた。蜂楽の長く黒い睫毛がその目元に小さな影を作る。その奥でじわりと潤んだ瞳は輝き、いっそう深く、澄み渡って見えた。そんな自分のことみたいに深刻な顔、しないでよ。
 私はあなたに“彼氏の存在を知られたくなかった女”なのにさ。その真っすぐさに耐えられなくて視線を背けた瞬間だった。

「食べて」

 口元にぐにゃりと何かが触れる。サンドイッチだった。

「やめ、」

 唇に押し付けられたそれを拒もうと声を発したら、そのまま口の中にサンドイッチを押し込まれた。
 ツナサンドだった。舌先になめらかなペーストが触れる。ツナの旨みと刻み玉ねぎのさっぱりした風味。マヨネーズの酸味とコク。私は気付けばそれを咀嚼していた。サンドイッチ用のパンは柔らかく、具材の発する湿気を吸いもっちりとしている。玉ねぎのしゃきりとした食感。ほのかな小麦の甘さ。

「おいしい、」

 思わず言葉が漏れる。マヨネーズの脂質も、炭水化物の塊であるパンも、私にとっては脅威だった。しかし身体は正直なもので、カロリーや成分を無視した食事に身体中の細胞がわっと一斉に湧きたつように昂る。
蜂楽は何も言わず残りのサンドイッチを私の口に運んだ。与えられるがまま私は無言で完食する。マヨネーズでぬらついた私の唇はすっかり潤いを取り戻していた。

「ごちそうさま」

 なんだか恥ずかしかった。結局食べるんじゃん、私。
 ちらりと蜂楽の顔色をうかがうと、彼と私の視線が絡んだ。じっと交錯したまま時が止まり、熱っぽい視線が私に注がれる。蜂楽はなにか言いたげに、もどかしそうに表情を歪めた。そして彼が意を決して口を開くその瞬間、二人の間の空気が大きく揺らいだのがわかった。

「俺のこと、好きになってよ」

 言葉と同時に手を握られた。

「答えるまで離さない」

 脅迫めいた言葉とは裏腹に蜂楽はもうほとんど泣き顔だった。振り払おうにも、しっとりと汗ばんだ手のひらが私の手を強い力で握って離さない。蜂楽の手の甲には青い血管がぷくりと道をつくった。

「ありのままを受け止めるから、俺のこと、好きになって」

 身体中の細胞が昂る。サンドイッチを口に含んだ時によく似た、甘く悦ばしい感覚が全身をさざ波のように駆け巡る。

「ばちら、」

 先輩のことが一瞬脳裏をかすめる。
 でも、倒れた私に駆け寄りもしなかった彼が、保健室に運ばれた私に連絡一つよこさない彼が、何より私が自分自身を削り、歪めて、差し出すことを当然と思っている彼が、蜂楽廻よりも優れているところって、……どこ?
 私の口に食事を運ぶ彼の献身が、ありのままを受け入れると断言する盲目さが、泣き出しそうなほどの感情に惑うその純粋さが、私を内臓ごと掴んで揺さぶる。

「俺、名前が、好きなんだよ」

 悲痛な、搾りだすような告白だった。
 私の頬を安堵ともしれない涙が一粒だけ転がり落ちる。

「私も、すき、」

 私は与えられるがままサンドイッチを完食した時と同じように、心が求めるまま彼の手を無意識的に握り返していた。

「こんな、……弱みにつけこむような俺でも好き?」
「乗り換えるような狡い女でも好き?」

 あはは、と蜂楽は笑って身を乗り出すと私を抱きしめた。毛布で包み込むような、あたたかで柔らかな抱擁だった。蜂蜜色の瞳が私を覗き込む。黒髪の間から発光するような力強い黄色が見えて、私は自分の決断に正しさを見出したような気がした。

「後悔しない?」
「するわけない」

 抱きしめ合った弾みで膝の上に広げられた菓子パンと惣菜パンがベッドから転げ落ちる。「あ、」と声を洩らした私に蜂楽は言う。

「好きなだけ、お腹いっぱいお食べ?」

 この時ようやく、私は心も身体も飢えていたのだと気が付いた。