口先だけじゃん


「生きてる?」

 図書室の奥、ベンチソファーに仰向けで寝転がる男の眉が私の声に反応してピク、と動く。そこにいつもの丸眼鏡は見当たらなかった。男は重たそうに瞼を持ちあげて、薄目で私の姿を確認すると寝起きのがさついた声で「生きてるよ」と返事して、再び瞼を閉じる。知らない人みたいだ、と思った。
 
「優等生みたいな顔して、ユッキーも授業サボったりするんだ?」
「時には休息も必要だよ。ほら、日本一多忙な男子高校生だから、俺」
「さすがにそれは大袈裟じゃない?」
「ひどいなぁ。昨日だって撮影のあとにサッカーの練習入れてて夜遅かったんだよ?」

 仕事と部活と学校生活の両立。雪宮剣優はその全てで成功を収めていた。日本一かどうかはわからないが、確実に県内一と言えるくらいには多忙な高校生なのかもしれない。そして成功の背景にはきっと平凡な私には計り知れないほどの努力があるんだろう、と肌荒れ一つない彼の肌を見て思った。

「名前もサボり?」
「そう。でも、雪宮様のほうがお疲れでしょうから、そのまま寝てていいですよ」
「名前は悪い子だけど優しいね」
「うるさいな!」

 そう言って私はベンチの足元に設置されたコンセントにスマホの充電器を刺し込み、そのまま地べたに座り込む。カーペットの硬い繊維がざらりと太ももに触れた。短い充電コードに繋がれてる姿はまるで軒先の犬のようだ。
 座り込んだすぐ真横にはベンチに横たわる雪宮の頭があった。ふわりと緩く波打った髪は今すぐ触れようと思えば触れられるだけの距離にある。そう意識した途端に私は呼吸の仕方も、心臓が打つべきリズムもすっかり忘れてしまっていた。

「ユッキー、起きてる?」

 私は意識してゆっくりと静かに呼吸をするように努めながら、すぐ真横で眠る男に声を掛ける。返事はない。もうスマホなんて握っていられなかった。私はスマホを置き去りにして雪宮の側面に移動する。

「ねえ、起きてる?」

 もう一度声を掛けた。返事が無いことを確認してから私は恐る恐る彼の顔を覗き込む。王子様が棺の中の白雪姫を覗き込むときもこんな気持ちだったんだろうか?普段は身長差のせいで細部まで見ることが叶わないその顔を間近で見るというおこないは、まるで禁を破るような思いがした。
 肩幅に対してその顔は小さく、表情は目を瞑っているのに自信に満ちていた。そう感じさせるのは形の良い眉のせいだろうか。いや、口元か?真横から見る彼のすっと通った鼻筋の美しいラインは私の網膜にじりじりと焼き付いた。
 
「ユッキーは本当に綺麗なお顔をしてるね」

 ただ眠っているだけなのに展示されているという言葉のほうがしっくりくる。もっと、さらに、その形を細かに捉えて記憶に刻んでみたいと思った。

「あのさ、もっと近くで見てもいいんだよ?」

 眠っているはずの男のふっくらと血色の良い唇が動き、言葉を発したものだから私はすっかり驚いて膝をソファの足にぶつけた。

「痛ッ、……起きてんなら返事してよ」
「何されるのかなぁ、って気になっちゃった」
「……別にヘンなことしないよ」
「こんなに綺麗な顔が目の前にあるのに?」
「……もしかして、謙遜って言葉、知らない?」
「でも、コレで稼いでるしねぇ」
「うわっ、正論だけどムカつくなぁ」

 過去にたった一度だけ、雪宮がモデルとして掲載されているページを見たことがある。眼鏡を外して、洒落たスタイリングとアンニュイな表情。知らない人のようだった。今の彼は、その時の彼の姿に少しだけ似ている。

「ねぇ、顔、触ってみてもいい?」

 私の突拍子もない発言に「え、顔?」と雪宮が聞き返す。自分でもおかしなことを言っている自覚はあった。でもそれは純粋な好奇心だった。美術館の展示品を直接手で触れ、厚みや重なり、曲線、筆跡をなぞってみたい欲に近い。
 私も、彼も、同じように顔という土台があり、同じように目が二つ、鼻と口が一つずつ付いているのに、完成形はまるで異なる。触ったところで何かが変わるわけではないけれど、触ることで何かを知れるような気がした。

「ユッキー、ごめん、」

 やっぱりいいや。そう言って立ち上がろうとした瞬間だった。今まで微動だにしなかった雪宮の腕が急にグワッと伸びてきて、私の手を掴んだ。かと思えば、雪宮はそのまま私の手を彼の顔のすぐ近くまで引き寄せて言った。

「触ってドーゾ」

 薄く開いた目の奥で、雪宮の澄んだ黒目が私を捉えていた。じゅわと濡れた瞳は私の知らなかった感情の扉を開けようとしている。その扉を開けたら、もう引き返せない気がして、私は「それ、誰にでも許すの?無防備すぎじゃない?」と笑った。私は、上手く笑えているだろうか?

「これ、名前だから許すんだよ」
「あはは、そういうの、本気にしちゃう子いるんだから言う相手には気を付けなよ」

 導かれるまま私は雪宮の眉と鼻筋を順になぞった。ちょうどTの字を描くように。

「名前は本気にしないの?」
「してほしかった?」
「そりゃ勿論」

 頬を撫でる。皮膚越しに骨の形を感じとる。かたい。やわらかい。あたたかい。

「ほんと、そういうとこだよ。誰にでも優しくて誰にでもかっこいい雪宮クン、」

 同じパーツを持っているのにまるで違う。思わず「綺麗だねぇ、」と言葉が漏れた。

「ありがと。満足した」 

 ふう、と胸を撫で下ろし、顔をなぞっていた左手を引っ込めようとした瞬間だった。

「ちょっ、」

 私の手首は雪宮に捕らえられ、そのまま力任せに引き寄せられた。予想外の出来事に驚いた私の身体は、私自身を庇うようにバランスを失い、彼の上に崩れ込んだ。
 「ごめん、」と慌てて退けようとした私の肩に雪宮の手が添えられる。制服越しに手のひらの熱が伝わってきて私は思わず動きを止めた。
 
「なんていうかさ、」
「……な、に、」

 混乱に声が震える。雪宮の力強く見開かれた目に眠気は少しも残っていなかった。突き刺すような眼差しまでもが私の動きを封じる。

「キミも呑気っていうか、」

 私の動揺なんてこれっぽっちも気にしていない様子の雪宮はふふっと笑って私の手を絡めとる。

「無防備すぎるよ、名前」

 彼はそう言って私の左手薬指の爪先に、ちう、と軽く口づけた。
 たかが爪先、されど爪先。接面から燃え上がる様に熱が身体を駆け巡り、思考が全部溶け落ちた。溶け落ちたあとは真っ白だ。私は「名前、」と甘ったるく声を掛けられてようやく我に返る。

「なに?もっとスゴイことされると思った?」

 目を細めて不道徳に微笑んだ表情はもはや芸術作品だ。

「顔に出てるよ。可愛いね」
「出てない、し、可愛くない」
「まぁ、安心して。俺は平和主義者だから、乱暴なマネはしないよ」

 もう、何を言っても敵わない予感しかしない。黙り込む私を尻目に「よいしょ、」と身体を起こした彼は、4限終わりのチャイムを合図に、とどめの一言を囁いた。

「今日はここまで、ね」

 これのどこが平和主義者だと言うのだろうか。