そうやって主張しないで


「まだちょっと時間あるね」

 剣優はその薄っぺらなネイビーの文字盤に視線を落として呟いた。艶消しされたマットな金具とベルトは今日の白いコットンシャツによく似合っている。シンプルだけど上質そうな彼の腕時計は彼自身によく似ていた。秒針の音がうるさいのも、彼の時折無意識に人の神経を逆撫でするところに似ている感じがする。私は新幹線のチケットをジャケットのポケットに収めている剣優に問いかけた。

「ねえ、東京、行くの?」

 新幹線の改札前はキャリーカートを引く観光客やスーツ姿のビジネスマンで賑わっていた。彼もまたブランドの秋冬コレクションの撮影のため東京に向かう。でも、私の問いは、今、これから、撮影のために向かうそれを指しているわけではなかった。
 剣優は私の問いかけに「え?」という表情を浮かべたけれど、何かを察したように納得した様子で

「うん、行くよ」
 
 と、それだけ言った。きっと訂正する気はないんだろう。
 
 ── 東京
 その洗練された容姿には、こんな地方の政令指定都市なんかよりも、東京という土地がお似合いだった。在るべきものが在るべき場所にかえる感覚。だから、その鞄からうっかり出てきた都内の大学の赤本に今更驚いたりもしなかったけれど、でも、

「言ってくれてもよかったじゃん」

 変なトコ秘密主義だよね。と笑って私は俯いた。絶対に顔は上げない。上げてやるもんか。だって、今、剣優と視線がぶつかったら絶対に泣いてしまう自信があったから。悲しくて?ううん、悔し泣き。

「東京行くって言ったら、私が泣いたり怒ったりするとでも思った?」
「ううん。そういうタイプじゃないでしょ、」

 ああ、ほら、そういうところ。きっと今、私が顔を上げたって、彼の予想に反して私の顔が涙と悔しさでぐちゃぐちゃになっていたって、雪宮剣優はいつもの余裕を崩さない。取るに足らないことみたいな目で私を見る。知ってるよ。だからこそ驚いた。

「一緒に、来る?」

 彼の性格上、まず出てこないであろう言葉が降ってきたから。私はアンタほど成熟した精神を持ち合わせてないからさ、あれだけ固く誓っていたのに顔を上げて、その整った顔を見ちゃったわけ。……で、結局バカを見るのは私。表情でわかったよ。私の答えを見通した上で、この男、全部わかって言ってる。

「……私が一緒に行かないってわかってるクセに言うワケ?」
「よかった。一緒に行くって言い出したらどうしようかと思った」
「そんな軽率な生きかたしてないよ」
「うん、そのほうがいいよ。自分の人生なんだから自分の責任で選んで」

 突き放すような物言い。恋人だろうが何だろうが、あくまでも、私と彼は個人と個人でしかない。それを突き付けるような距離感が心地良くて、時折猛烈に私を寂しくさせた。

 だから、悔しかった。一緒に行かない選択をした私に対してもっと焦って縋ってきてよ。私と同じように寂しさを感じてよ。でも、そんな雪宮剣優だったら、私はきっと好きになってない。それは多分きっと彼もそう。泣いて焦って縋るような女とはそもそも関わらない。
 悔しさを目一杯込めて睨みつけても剣優の表情は変わらない。それどころか少し嬉しそうにさえ見える。

「やっぱり、」

 そこで一度言葉を区切って、剣優はその長い指の背で私の頬に触れた。彼の使っているハンドクリームの爽やかなマンダリンが鼻先を掠る。

「俺のことで悩んでるときが一番かわいいね」

 勝利宣言だった。

 そうだよ、こんなに心を乱されている私の負け。認める。悔しい。その悔しさがさらに彼を喜ばせているかと思うといてもたってもいられなかった。この性悪。

「こういうときは恋人同士ってキスするらしいよ?」
「それは嫌かな。だって公共の場所だし。時と場合はわきまえるべきじゃない?」

 剣優はジャケットのポケットから再度新幹線のチケットを取り出し、その腕にある秒針のうるさい時計に視線を向ける。そして「そろそろ行くかな」と呟いた。

「あんまりよそ見してると私もどこかに行っちゃうかもよ」
「心外だな。よそ見してるように見えた?」

 ただでさえ大きくて丸い目をさらにきょとんと丸くさせたかと思えば、剣優は目を細めて緩く微笑み言った。

「まぁ確かに、どこかに行っちゃうなんて思ってないから油断はしてるかもね」
「なんでそんな余裕なの?」
「だって名前、俺のことめっちゃ好きじゃん」

 彼は呼吸するかのごとく事も無げに言い放つと、もぞもぞとその腕につけていた腕時計を外し、私の腕を掴んだ。

「これ、しばらく預かっておいて」

 プレゼントしたわけじゃないからね。それだけ言うと剣優は私に向かって小さく手を振り改札の向こう側へと消えていった。改札をくぐる前も、改札を抜けたあとも、彼は一度たりともこちらを振り向くことはなかった。相変わらず腕時計の秒針はうるさい。

「やっぱり、この時計、嫌いだな」