夏が生まれる


 午前四時過ぎのひんやりとした外気に背筋が伸びる。あてもなく通りを歩くと、白み始めた空の色を真似るように街を覆っていた霧の余韻を感じる。霧に洗われた街は静けさの中におろしたてのシャツのようなさらりとした清涼感をもっていて心地よい。早すぎた起床も、二度寝を選択しなかったことも、すべてが正しかったかのように思える。──知らなかった。ピチチ、とさえずる野鳥の愛らしさも、生垣に茂るアサガオの青さすらも。
 
 こんな時間でも街は静かに呼吸している。住宅街を抜けるとそれがよりはっきりと感じられた。コンビニの窓ガラスを磨く夜勤の外国人留学生。コンビニの前を走り抜ける車たちは早朝からどこへ向かうのだろう。横断歩道の向こう側にはランニングをする男性の姿があった。そのお手本みたいな美しいフォームと、アスファルトを蹴り上げる音すらも聞こえてきそうな力強い走りに私は視線を奪われる。
 そして私は、その横顔を、知っていた。
 気付けば赤信号を無視して横断歩道を突っ切り、彼と並走している自分がいた。きっと必死の形相だった。

「っ、糸師くん、一緒に走っていい?」

 クラスメイトの突然の出現に糸師凛は一瞬ぎょっとした表情を浮かべたけれど、私がまばたきしている間にそれは見慣れたポーカーフェイスに戻っていた。

「勝手にしろ」

 それが彼の答えだった。
 
 膝の布地が擦り切れそうな中学の指定ジャージ。好きなバンドのツアーTシャツ。ピンチハンガーからむしり取った乾きたての靴下。雑に束ねた髪。幸か不幸か、このみすぼらしい恰好は走ることによく適していた。脚の長さもピッチも違う彼のスピードになんとか喰らいつきながら私は数メートル先を走る背中に尋ねる。

「毎朝走ってるの?」
「ああ、」
「いつから?」
「小学生の時から」
「すごっ!サッカーもその頃から?」
「ああ、」

 彼のサッカーの実力については噂程度に聞いている。お兄さんもサッカーで有名なことだとか、部活動に価値を見出せなくて外部のクラブチームに参加してることだとか、それをサッカー部の前で公言してバチバチに仲が悪いことだとか。その程度に。

「なんか、アサガオみたい」
「は?」
「早朝に咲くから」

 糸師くんは「意味わかんねえ」と呟いたけれど、どんなスーパーゴールを決める姿よりも、小学生の時から毎朝欠かさずランニングをしている姿のほうがずっとずっと糸師凛の本質を突いているような気がしてならないのだ。
 
 それからも私たちは走り続けた。言葉は交わさなかったけれど、彼の背中を追いかけるうちにアスファルトを蹴り上げるリズムが重なり、呼吸のリズムすらも重なって、私は一体感を感じていた。もうこんな経験は得られないと思っていたのに。時折ちらちらと振り向いて私の位置を確認していた糸師くんが不意に呟く。

「お前、意外と根性あるな」
「一応、“元”バレー部だからね」

 中学から続けていたバレーボール。大好きだったはずのバレーボール。高校では人間関係に躓いて、入部一ヶ月足らずで辞めてしまったバレーボール。

「案外すんなり辞めちゃった。結局、私の中ではその程度でしかなかったのかも、きっと」

 「かもな」と、一切のフォローもお世辞も無いのが糸師くんらしかった。

「でも、さすがに久々だと、キツい、」
「だらしねえな」

 ここまで順調に走れていたのに、お喋りで乱れた呼吸のリズムが太ももの筋肉を伝って爪先にまで波及していく。もつれてしまいそうな脚を懸命に制御しながら糸師くんの背中を追っていると、彼は徐々に減速し、やがて私有地のフェンスに身を寄せるとそこで立ち止まった。数秒遅れで私が到着すると、彼はフェンスに背中を預けて、ボディバッグから取り出したボトルで水分補給の最中だった。お疲れ、といった労いの言葉も無く糸師くんは彼の隣のスペースを親指でグッと指し示す。

「あー、やばい。私いま座ったらもう立ち上がれない」
 
 久々のランニングに私の身体は慌てふためいていた。私は膝に手を当て身を屈め、バレー部時代の練習を思い出しながら呼吸を整える。そんな私の視界を突如、ずい、とペットボトルが占拠した。「え?」と思わず驚きが口に出て、それを差し出してきた彼を見上げる。

「これ、いいの?」
「途中で倒れられたら迷惑だ」
「あ、りがとう」

 中にはまだ半分ほど水が残っていた。ボトルを受け取った衝撃で水はちゃぷんと波を立てて揺れる。早朝と言えど季節は初夏。身体は今すぐにでも水分を欲していた。それでも私の自制心はキャップを捻り開けたところで身体をぴたりと制止させる。

「おい、飲まないと途中で倒れるぞ」

 なかなかボトルに口を付けない私に糸師くんはいらついた様子で眉間に皺を寄せた。彼からの「飲め、」という圧におどおどしながら私はおずおずと控えめに尋ねる。

「糸師くんって、間接キスとか気にしないタイプ?」
「は?」
「いや、私は気にしないけど、さ、」

 水を分け与えるという仲間意識のようなものを私に向けてくれた嬉しさと、間接キスを気にする乙女心が不整脈のように私の心臓をざわつかせる。当の糸師くんは一瞬ぽかんと怒りでも恥じらいでもないニュートラルな表情を浮かべたあと、またぐっと眉間に皺を寄せて「文句あんなら今すぐ返せ」と語気を強めた。

「わー!ごめん!飲む!今すぐ飲む!」

 私は慌てて飲み口に唇を寄せる。糸師くんの機嫌を横目でうかがって喉を潤す私の視線は、形が整った彼のその薄い唇に注がれていた。「私は気にしないけど、」なんて、嘘。でも糸師くんだって優しくないフリして本当は優しいからおあいこじゃん?
 唇に向けた意識を誤魔化すみたいに何気なく視線を上げたのが間違いだった。アサガオの青と、白んだ空が混ざり合った、淡い青色の瞳。視線が、ぶつかる。一瞬なにが起きたかわからなくて私はそのまま茫然としていた。ただ目が合った。それだけ。

「腑抜け顔、」

 彼の呟きに心臓がぴりっとひりつく。動悸、困惑、そして興奮に似た何か。ねえ、知ってる?アサガオには毒があるらしいよ?勢いよく逸らされた顔と、赤く染まった耳、都合よく解釈してもいいかな?
 
「水、ありがと」
「ん、」
「ねえ、糸師くん」
「んだよ、」

 私はボトルを糸師くんに返しながら、ふと小学校に入って初めての夏休みを思い出した。「アサガオがツルを伸ばして成長するには肥料とたくさんのお水が必要です」そう言われて、アサガオの鉢植えを持ち帰った。あの時は水が足りなくてアサガオを枯らせてしまったのだけど、今からでもやり直せるだろうか。

「あのさ、明日も一緒に走っていい?」
「帰宅部のくせに?」
「今はね」

 アサガオのツルが螺旋状に伸びていくみたいに、糸師凛が毎朝積み重ねてきたみたいに、私も成長してみたかった。終着点もわからず進む姿は、まさに螺旋階段を上るような遠回りなのかもしれないけれど。

「備えたいんだ。私が本気になれるものに、いつ出会ってもいいように」

 糸師凛にとってのサッカーにあたる、私にとっての何かに出会える日を夢見て。

「勝手にしろ」

 それが彼の答えだった。
 
「遅れてきたら置いてくからな」

 あと二週間で夏休みが始まる。少し早いが観察日記を始めようか。