檸檬
──十七歳。恋はまだしたことがない。笑ってくれてもいいよ。
「借りるね、ありがと」
教科書を受け取った廻がニカっと笑いかけた相手は私じゃなかった。教科書の持ち主である彼女の「今度はちゃんと返してよね」という言葉で“前回”があったことを察する。同じ空間に私もいたのに、生返事の廻は私に一瞥の視線もくれないまま踵の潰れた上履きをパタパタ鳴らして自分のクラスへ戻っていった。
「……あっそ、」
いつも私を頼ってくるから勘違いしちゃったじゃん。私はペットボトルの緑茶で喉元の不快感を流し込む。
私にとっては特別な友達。でも、彼にとってはその他大勢の一人、かもしれない。
二限目の予鈴が鳴っても、梶井基次郎の解説が始まっても、気持ちは引き締まらなかった。
じじじ、と挿絵のレモンが脳裏に焼き付く。それは彼の髪によく似ていた。中心は眩しいくらいに黄色くて、輪郭は透けてしまいそうに淡い。
クラスメイトの音読も、黒板に刻まれる達筆な「檸檬」の字も、くぐもっていて曖昧だ。
私だけを頼ってほしい。その他大勢は嫌。友達相手にこんな執着心っておかしいかな?抱えきれなくなった不吉な塊がぽろぽろとこぼれていく。
私はもう一度緑茶を口にする。夏はやたらと喉が渇くからいけない。
「廻のクラス、学祭何やるか決まった?」
「まだー。今日の5限のホームルームで決めるんだって」
「うちのクラス、わたあめやるって」
「いいなぁ!食べ行くね!」
昼休み、私たちはいつも自然とそこに集まった。
コンクリート造りの非常階段の冷たさは照りつける西日の熱を和らげる。私たちは手すりが作る小さな影に身を潜めて日差しをやり過ごしながら、もそもそと昼食を食べるのだ。
私の座る数段上で、早々に昼食を終えた廻は伏せられた長い睫毛を揺らしながら、うつらうつらと眠りの淵に足を掛けていた。私は食べ終えた菓子パンの袋を結びながら廻に言う。
「教科書、私以外からも借りれるんじゃん」
廻はぴたりと動きを止めた。驚きで大きく見開かれた目から眠気はすっかり抜けている。けれど、面食らったのは私もだ。からかってやるつもりで放った言葉のトーンが冗談からはあまりにもかけ離れていたから。それは、重くて、冷たくて、醜悪。
「名前、もしかして、拗ねてる?」
「なんで私が拗ねるのさ」
「うーん、俺にゾッコンだから?」
ゾッコンなんて滅多に聞かない単語だから私は思わず「なにそれ」と噴き出した。死語だよ、それ。何かの拍子に空になった緑茶のペットボトルがカタン、と軽い音を立てて倒れた。
「ねえ、廻、」
「ん?」
「変なこと聞いていい?」
「あはは、ヘンなこと大歓迎」
へにゃりと笑って廻は首を傾げた。倒れたままのペットボトルが風に吹かれてコトン、コトン、と階段を転がり落ちていく。
「友達のこと、もっと知りたいって欲は存在するよね?」
「そうだね」
「自分と一番に仲良しでいてほしいって欲も存在するよね?」
「かもしれない」
じゃあさ、友情と恋愛感情はどこで線引きするの?
「……廻にとっての特別でいたいって気持ちは、それはもう友情とは違う感情なの?」
平静を装った私の声は震えていた。切実だった。怖かった。何かを手放すみたいで。
「ねえ、私って、廻に恋してるの?」
「……ずるいなあ」
そう言って廻は頭をわしゃわしゃと掻いた。緩いウェーブを描いた髪がぴょこぴょこと遊ぶ。かと思えば、両手でぱんと膝を叩いて彼は勢いよく立ち上がった。そしてそのまま私を見下ろす。
「確かめてみたい?」
「うん、」
私の答えを聞いた廻は一段、一段、確かめるように階段を下りてきて、私の隣に腰を下ろした。
「暑いからもっとそっち寄って」
言われるまま身体を寄せて、廻と二人、狭い影に収まる。すぐ隣で聞こえる廻の呼吸は私のそれよりもピッチが速かった。次第に自分の呼吸のリズムがわからなくなる。落下したペットボトルは非常階段の踊り場に突き当たってそのまま止まった。制服の夏服から伸びた腕が一瞬触れ合う。
日陰でも遮り切れないワイシャツの白が眩しい。お互いに腕はじわりと汗ばんでいて、私は気恥ずかしさから反射的にこぶし一個分にも満たない隙間を作った。
「ねえ、名前、どきどきしてる?」
廻が囁くように尋ねる。
触れた肌そのものよりも、彼から放出される熱で形作られたその輪郭のほうが、よほど彼自身のようで、どきりとした。触れてないのに触れてるみたいなもどかしさに胸がつかえる。
「俺は、してる」
私を覗き込む廻の柔らかな眼差し。その奥に歯痒さと苦悩があると気付いたのは上がった口角がどことなく不自然だったからだ。心の柔らかい部分に廻の言葉が食い込む。
廻は困ったように笑った。
「あのさ、そんな表情しないでよ」
「どんな表情?」
「……多分、俺と同じ表情」
廻と同じ表情。
思わず自分の顔に触れた。頬が、熱い。
「イヤと思ったらすぐに言って」
どういうこと?と尋ねる前に、その切羽詰まった表情に飲み込まれて私はだらりと腕を下げた。それを合図にゆっくりと廻の顔が迫る。レモンのような大きくて形の良い目は次第に伏せられて、輪郭が、熱が、迫る。
「嫌だ」と言うには十分な時間があったし、たぶん嫌と言ったら廻はすぐにそれをやめただろう。
けれど「嫌だ」という気持ちが微塵も湧かないまま、コマ送りで迫る顔を見つめていたら、彼と私の唇はそのまま触れ合っていた。
一瞬触れた腕よりも、彼の輪郭の熱よりも、静かに触れた唇のほうがずっとずっと熱い。
ファーストキスはレモン味なんていうけれど、実際は無味だった。代わりに制汗剤のシトラスとミントが彼の体温でほのかに香り立つ。
「イヤだったらすぐ言って、って言ったじゃん」
廻は私との距離感を慎重に測るようにこわごわ、ゆっくり、身体を離す。遠ざかっていく熱が名残惜しかった。
「嫌って思わなかったらこうなったの」
「それ、俺以外には、ダメだからね」
吐息混じりに廻は笑った。
薄く開かれた瞼から覗く黄色の瞳に心臓が爆ぜる。
「どうしよう、わたし、爆発する?」
「するかも」
「またそうやって適当言って」
なにかの境界線を明らかに踏み越えた感触があったわりに、私は自然と笑えていた。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
私は立ち上がり、スカートを軽く払った。スカートの裾が揺れる。そのまま私は日なたに出て、非常階段からの景色を眺めた。
キスをしたからって何か見えかたが変わるわけではなかったけれど、空の青と並木の緑のコントラストが眩しくて思わず目を細めた。
「ほら、行こ」
廻が昼休みの始まりと何ら変わらない無邪気な笑顔で手を差し出す。私はその手を握って歩き始めた。
「廻、すきだよ」
──十七歳。恋はもう知っていた。笑わないでよ。