馬鹿の宴と虚言癖


「お前みたいな奴が一番嫌いだ」

 ここまで積み重ねてきたすべてが崩壊するみたいにノートの束が崩れ落ちる。それはもう何もかもが元に戻らないことを暗示するようでもあった。

 馬狼のどっしりとした声に放課後の空気が凍りつく。教室にいた全員が息をのんだ。拒絶の言葉を吐かれたあの子は今にも泣きそうな表情で小さく震えている。さっきまであの子を面白おかしくからかっていた馬鹿どもは、あの子にひどい言葉を言える度胸はあっても、馬狼に物申す度胸は無いらしい。馬狼が馬鹿どもを鋭く睨みつける。三年二組の教室は完全に音を失ってしまった。

「あのさ、アイツ、ああいう奴なの。放っておきなよ」

 静寂を破ったのは、馬狼でも、あの子でも、馬鹿どもでも、呼び出しの校内放送でもなければ、他でもない私だった。
 馬狼はそれを聞いて無言のまま教室を出ていく。乱暴に閉まった引き戸の音で教室の空気が震えた。

「そっか、そうだよな」

 ホッとした様子で馬鹿がおどける。お前に言ったんじゃねーよボケナス。あの子も少し力が抜けた様子で私を見上げる。ゆるゆると空気がぬるく溶かされていく。登場人物は全員揃いも揃って馬鹿ばっかりだ。うんざりする。
 
──「馬狼に一発抱かせてやったら?」
 気色の悪いおぞましい言葉。きっと発言した本人にそんな自覚は無いんだろう。深夜のバラエティ番組の真似事のつもりで本人だけが面白いと思ってる。最悪だ。反吐が出る。
 なんならきっとアンタたち馬鹿は馬狼があの子にだけはやけに親切で、あの子も曖昧に笑うだけだから、自分たちのこと恋のキューピッドくらいに思ってるんだろう。なにも見えちゃいない。なにもわかっちゃいない。頼むから金輪際関わらないでくれ。
 
 私は知っている。あの子に親切にしてやるときの馬狼の優しい目と少しだけ赤く染まった耳を。
 私は知っている。か弱い印象を持たれているあの子が華道部の部長として凛と強く部員をまとめている一面を。
 私は知っている。馬狼に気があると噂されて曖昧に笑うあの子が本当は困った顔を浮かべていることを。そして馬狼もそれに気付いていることも。
 私は知っている。知っているのだ。知りたくなんてなかったのに。

「ごめん、そういや私、顧問に呼び出されてたわ」

 それらしい嘘をついて、適当に周りにバイバイと手を振って、私も教室をあとにする。
 
 ほとんど人の出入りが無いコンピューター室のわきにある階段の踊り場に馬狼はいた。いつもみたいに背後から「うっす、」と平手で背中を叩いてやろうと思ったけれど、その先の言葉が思いつかなくて私は振り上げた手をゆっくり元に戻す。
 景色を切り取ったみたいな大きな窓の前で馬狼はぼんやりと外を眺めていた。私もそれにならって隣に並び、特に目新しくもない景色を眺めた。
 私の存在に気付いた馬狼がぴくりと反応する。馬狼の何か言いたげな表情に私は気付かないフリをした。

「ねぇ、打ち合わせなしのプロレスはやめてよね」
「はぁ?」

 いつもと変わらないトーンの返事に少し安心している自分がいる。

「馬狼、アンタかっこいいことするじゃん」

 私はもうそれ以上なにも言わなかった。
 
 あの時、馬狼の口から拒絶の言葉が出た瞬間、私は察してしまった。馬狼本人が、あるいは何も知らない第三者が、もう下世話な噂話であの子を傷付けることがないように、すべて断ち切るつもりなのだと。「悪役(ヒール)」を貫き通すことに決めたのだと。
 だから私はアイツのその馬鹿げた意志を尊重してやることにした。悪役のままあの子の前から去れるように。

「ありがとな」

 馬狼はかろうじて聞き取れる程度の小さな声で言った。その言葉が出るまでにどれくらいの時間沈黙があったかわからないが、空は夕焼けの気配がした。遠くに吹奏楽部の練習の音がする。

「そこで頭を撫でてやれないからダメなのよ」
「するとしてもお前にはやらねぇよ」
「はあ〜、ほんとムカつく男だな!」

 ぎゃあぎゃあと憤慨する私を馬狼が鼻で短く笑う。よかった。ヘンに傷付いた表情を見せられるくらいなら馬鹿にしてくれたほうがずっとマシだ。

「……アンタ、ほんと馬鹿だよね」
「……かもな」
 
 馬狼も、クラスの馬鹿どもも、あの子も、なんなら神様も、みんな揃いも揃って馬鹿ばっかりだ。どうしてこんなに救いのない物語にしちゃったんだよ。
 でもさ、そこで「私にしておけば?」って言えなかった私も本当に馬鹿なんだよね。
 あーあ、うんざりする。