郷愁


 ブルーレイレコーダーは地層だった。月9ドラマ、サッカー天皇杯、大晦日のガキ使、間違って録画されてた再放送。録画一覧に積み重なった怠惰と未練は地層そのもの。「これ、なんだっけ?」と押す再生ボタンは真夜中への入口。
 
『本日のゲストはサッカー日本代表〈ダイヤモンド世代〉のオリヴァ・愛空さんです!』
『どーも、ヨロシクお願いします』
『本日はオリヴァ・愛空さんと共に、いきますよ、せーのっ、《地元ぶらり散歩》!』
 
 ダサいタイトルコールを合唱させられている愛空の不憫さを思うと笑わずにはいられなくて、深夜二時の1LDKには私の笑い声が響いた。巻き戻して同じシーンを何度も繰り返し再生しては笑う。
 四度目の再生のあたりでリビングと玄関を隔てる扉の向こうから鍵の開く音が聞こえた気がした。私の家の合鍵を持ってる人間は生憎一人しか存在しない。
 
「なに、寂しくて俺の番組見てた?」
「録画消化しないとレコーダーの容量もう無いの」

 テレビ画面の男が私の隣に腰を下ろす。タイトルコールを終えた番組は、商店街を歩きながら彼が日本語しか話せないことで笑いを取っている最中だった。「見た目は外国のかたっぽいんですけどね」と。私にはさっきのダサいタイトルコールのほうがよっぽど面白かった。

「あー、これまた随分古い録画だこと」
「タイトルコール、ダサくて好き。ウケる」
「あっそう、」

 地元つっても親父の仕事の都合で数年しかいなかったから、あんまり地元感無いんだけどね。と、愛空は画面の向こうで微笑む過去の自分を見つめた。過去と現在、二人の愛空の声が私を包む。

「っていうか、そんなこと話すためにウチ来たわけ?」
「あのねぇ、久々に会う恋人とのコミュニケーションを『そんなこと』扱いはひどいんじゃない?」

 私は何かを察したように手さぐりでリモコンの停止ボタンを押す。部屋には現在の愛空と私だけが残った。八の字の眉で露骨に寂しさを表現しながら愛空が私の顔を覗き込む。そっと両手で頬を包むと表面はまだ春の夜の冷たさを残していた。「愛空、」と名を呼ぶ。直接触れたのは数か月ぶりだった。

「ひどい表情ね」
「ありゃ、色男が台無し?」
「そうやって、抱え込んでるくせにすぐ余裕のあるフリする」
「カッコつけたい年頃なのよ」

 ああ、間違っちゃったな。さっき、停止ボタンじゃなくてテレビの電源ごと切っちゃえばよかった。テレビから流れてきた国歌斉唱と、少しの間をおいて響き渡る歓声。
 
『今日の代表戦のハイライトです!日本代表、オリヴァ・愛空選手に、ああ!相手選手の執拗な、スライディング!これは危ない!度重なるラフプレーを……避けた!さすが〈ダイヤモンド世代〉!簡単には傷付かない!……』
 
 テレビの音なんてまるで無視して、緩く微笑んだ愛空は私の伸びかけの前髪を掻き分けて額に淡くキスを落とす。

「ありがとな、こんな時間まで起きて待っててくれて」
「自惚れないでよ。ただの夜更かし」
「あらそうですか」

 そのまま互いにうまく言葉を作れないまま身体をくたりとくっつけた。体臭と混ざった香水の匂い。少し重たい。なんだっけ、トムフォード、だっけ?忘れちゃった。そうしてしばらく交信するみたいに服越しで触れ合っていると「あのさ、」と愛空が口を開いた。

「サッカー選手の平均引退年齢ってご存じ?」
「しらない」

 けれど、現役最年長記録が三浦カズの五十四歳っていうのは知ってる。でも、たぶん愛空が言いたいのはそういうことじゃないんだろうなと私は口をつぐんだ。

「サッカー選手の平均引退年齢は25〜26歳。まぁ、そっから考えたら俺の現役選手としての寿命はあと7年ってとこ?」

 怪我でもすりゃ明日には寿命が尽きるかもな。と愛空は鼻先で笑う。

「……そんとき、まだここに俺の居場所はあるかな?」

 いつの間にかスポーツニュースは週間天気予報に切り替わっていた。明日からの数日は雨らしい。私は愛空の手を握って子猫がじゃれるみたいに軽く爪を立てた。塗ったばかりの桜色の爪。

「バカね。明日だろうが、7年後だろが、30年後だろうが、あんたが帰ってくるところはここしかないじゃんよ」
「そうなんだよね」

 愛空が私の真似をして私の薄っぺらい手の甲に緩く爪を立てる。「痛いよ、」と笑ったら、彼もまた「仕返し、」と笑う。
 ……そりゃそうよ。くすぶってたあんたが野望を丸呑みにした目でJ2のスタメンからトップクラブを、日本代表の席を、虎視眈々と睨みつけていたその頃から、あんたの居場所は変わらず、ずっとあるのよ、ここに。
 愛空の大きな手が私の頭に触れる。

「そう。ああ、帰ってきたな、って思える場所は、ここだけ」

 そのままゆっくりと確かめるように彼は私の頭を撫でた。これまで重ねてきた時間を懐かしむように。慈しみ尊ぶように。

「たとえそこが築20年のボロアパートだろうと、港区のタワマンの一室だろうと、アンタのいるところが俺の『故郷ふるさと』だよ」
 私は、ふっと力を抜いて愛空の胸に収まる。本当は抱きしめてやりたかったけれど、なんだかこっちのほうがしっくりくるのが私たちだ。

「おかえり、愛空」
「ただいま、名前」