言ったもん勝ち
「俺、サッカー選手になる」
御影玲王は宣言した。
私は七夕の短冊を思い出す。けれども彼は5歳児ではなく、高校一年生だった。
「20歳までには、絶対に」
5歳児の夢と違いがあるのだとすれば、その具体性だろう。20歳。あと5年も無い。16歳の私にとってそれは、民間人が宇宙を目指すのと同程度、無謀なものに思えた。
その口から語られた夢のスケールと、私の部屋の手狭さはあまりにアンバランスだ。部屋に差し込む午後の暑い日差しのせいか脳の輪郭がちかちかと眩む。
それでも私はいつものおしゃべりな口をぎゅっと結んで封印し、その意志の強さが灯る真剣な眼差しを見つめ返して、ゆっくり小さくうなずいた。
なぜなら夢を語った玲王の眼差しが私に告白してくれた時のそれとまったく同じだったから。
「“普通”になりたいんだ」
私は、サッカー選手も“普通”にカテゴライズされるわけではないんだよ、と言いたい気持ちをアイスティーと一緒に飲み干した。大きな氷の塊がグラスの内側に当たって、からりと鳴る。
「“御影コーポレーションの御曹司”を上書きするには、これしか無い」
机の上に出しっぱなしになっていた白紙の進路調査書。そこに視線を落としながら玲王は言う。彼の長いまつ毛が目元に小さな影を作った。
「上書き……」
私は彼の薄く柔らかい唇の形を真似て同じ言葉を呟く。さながら言葉を覚え始めたばかりの幼児のように。
玲王は無言で私に向かって腕を広げる。それは私と彼の間で通じる抱きしめたいの合図だった。私は広げられた腕の中で自分の身体を玲王の身体にくたりと添わせた。
玲王が「なぁ、」と耳元で囁く。私を抱きしめる腕がうすく汗ばんでいて私は夏を実感する。
「その時は、迎えに行くから、名前のこと」
彼の計画通りに万事が進むのだとすれば、その時まではもう5年も残っていない。「だから、」と続ける玲王は抱きしめる力を強めた。骨も皮膚も痛くはないが、なにかが軋むように痛かった。
「だから、どこにも行かず俺のこと待ってろよ」
背筋に冷たい汗がつぅと走る。
腕の力を緩めた玲王は私の顔を覗き込んだ。
「サッカー選手なら、一般女性と結婚しても何も不思議じゃないよな」
そう言って照れくさそうに笑う玲王の瞳にはぎこちなく微笑む私の姿が映っていた。得体の知れない不安感にまた冷たい汗が背中を流れていく。
私は今すぐにでも鍵をかけたかった。
海外留学の案内パンフレットが入った机の引き出し。
“御影コーポレーションの御曹司”にとって物理的な距離など取るに足らない問題かもしれないけれど。それでも封じておかなければならない、と取り乱している自分は何に怯えているんだろう。
あれから結局、進路調査書は白紙のままだった。
「未提出の人は放課後までに」と言われたその日の5限目、定年間近になる数学教師の念仏のような解説をBGMに私は用紙を取り出した。
その真っ白なA4用紙にボールペンのペン先を置いたはいいが、一画目の行き先が決まらない。海外留学のパンフレットが脳裏を過ぎり、直後に玲王の汗ばんだ腕を思い出す。私の心の煮え切らなさがペン先を伝って、用紙にインクの黒い染みを作った。
── 提出期限 7月7日(火)
七夕だった。七夕の短冊にしてはこのA4用紙は夢がない。いや、そうさせてるのは自分自身か。
「“普通”のサッカー選手、か」
私は5年後どこにいるのだろうか。
一体、何者になるのだろうか。