すべてはあるべきところに


 コンビニの効きすぎた冷房だけが去りゆく夏にしがみついていた。陳列された商品はすっかりと秋めいているのに。
 これは説教だ。友人の立場に甘んじてぬるま湯の関係にしがみつく私への。
 私はぶるりと身震いしながら蜂楽の会計が終わるのを待った。
 いつものコンビニ。いつもの炭酸水。いつもの私たち。そしていつもの駅へと向かう。

「名前、一口飲む?」
「冷えてる?」
「キンキンのシュワッシュワ」
「じゃあ、いらない。余計に寒くなるから」

 私は首を横に振りながら半袖のワイシャツから伸びる腕をさすった。触れた二の腕はもうすっかり冷たくなっている。さすっていた手のひらも二の腕に熱を奪われてすぐに冷たくなってしまった。

「名前、ほんと寒がりだよね」
「いや、普通に夜はもう寒いって。蜂楽が暑がりなだけ」
「サッカーやってる分、代謝が良いんじゃない?」
「いいなー、身体あったかいって」

 目の前の男は未だうっすらと夏の陽気を纏っている。蜂楽はコンビニの自動ドアをくぐりながら真夏の夜と変わらず炭酸水をグビグビと飲んでいた。可愛らしい顔立ちとは不釣り合いに隆起した喉仏が上下に動く。私はその様子をただぼんやりと眺めていた。私の視線に気付いた蜂楽が小さく笑う。

「なに?あっためてあげようか?」
「私のこと彼女にしてくれるなら」

 不意に冒険してみたくなった。ぬるま湯を抜け出した先に何があるのか見てみたくなったのだ。でも、保険をかけるように冗談に聞こえるギリギリのラインを狙う私はやはりもう少しコンビニの冷房に叱られておいたほうがよかったのかもしれない。
 蜂楽は私をじっと見て、二、三まばたきをしてから言う。

「冗談はナシね」

 炭酸水を半分近く飲み干した蜂楽は残りをリュックに押し込むと、ありったけの熱をそこに集めるかのように両手をこすり合わせてから、そのまま左手を私の前に差し出した。

「ほら、行くよ」

 あまりに自然に差し出された手に、私はなんの躊躇もなく自身の右手を重ねていた。もう彼と友だち同士の顔はできないとわかっていても。
──かちり、がちり、ちちち……
 右手に彼の熱が触れたその瞬間、私の中で不揃いに散っていた無数の歯車たちが噛み合い、大きな何かが工場のように、あるいはロボットのように動き始めた気配がした。“人生が動き始めた”のだとなぜか私は直感的に理解した。これを“運命”と呼ぶに違いない。
 けれど私はこの直感を素直に口にすることができなかった。歌でも、ドラマでも、漫画でも、すっかり使い古された“運命”のワードはあまりにも安っぽい気がしたから。

「案外私たち、相性が良いのかもね」

 相性が良い。“運命”の代わりに置き換えた言葉はどこかしっくりこなくて、絡め取られた手だけがしっくりときている。
 その手は私の手より一回りから二回りほど大きく、指の長さも皮膚の厚さも私のものとは異なった。それでも指の付け根に、関節と関節の間の窪みに、ぴたりと指が沿ってはまる。まるで最初からそのように設計されていたかのようにぴったりと。それはもはや異様なまでに。

「相性が良い、か」

 嬉しそうに細められた彼の目の奥で瞬く瞳は満月と同じ蜂蜜色だ。
 ひんやりとした夜のなか、私と彼の密着した皮膚の上で終わりかけの夏が燃えている。私たちはゆっくりと歩きだした。

「案外、って言ったけどさ、違うよ」
「え?」
「絶対、だよ。俺たちは絶対に相性良いよ」

 そう言って蜂楽は私の手を握る手に力を込めた。根拠のない彼の確信に私は小さく頷く。

「そうだね、絶対」

 男の子と手を繋ぐのはこれが初めてではない。だからこそ私は人生で初めて経験するこの感覚を“運命”と呼ばずにはいられなかった。たとえ安っぽくてもこの言葉がもっともしっくりくる。私と彼の手のように。
── もう、この人以外にはいないだろう。
 私もまた根拠のない確信をもっていた。

「まだ寒い?」
「マシになった」
「俺のおかげだね」
「そういうことにしておこうか」
「素直じゃないなぁ」
「……あったかいよ。蜂楽の手」

 ゆったり。だらり。のろのろ。
 普段の帰り道も決してきびきびと歩くわけではないけれど、その日は特に遅かった。一緒の時間を少しでも引き伸ばしたかったのかもしれない。駅なんかなくなっちゃえばいいのに。ローファーの踵が気だるげにアスファルトを蹴る。

「歩くの遅くてごめん」
「そう?遅い?俺もこんなもんだよ」
「ホントかなぁ?」
「ホントだよ」
「じゃあ、やっぱり相性が良いんだろうね、私たち」

 元カレも、その前の彼氏も、やたらと歩くのが早かった。いつも私が早足で相手に合わせて、それでも距離は開いてしまって、追いつけない分互いに腕を伸ばしていた。きっと周りから見れば散歩を嫌がってリードが伸び切っている飼い犬みたいだっただろう。
 繋いだ手も歩くペースもしっくりくるこの男のことを相性が良いという言葉で括ってしまうのはやはりなんだか安易に思えた。

「蜂楽は優しいね。知ってたけど」
「優しくないよ。大切にしてるだけ」
「大切、かぁ」
「そう。俺の大切な人だから」

 静かにゆっくりと心拍が上がり、じんわりと体温が上がっていく。恋と呼ぶにはあまりに穏やかすぎた。ならばこれは、

「愛、だね」
「うん。ちゃんと伝わっててよかった」

 小さく首をかしげた蜂楽は私に見せつけるように繋いだ手をかかげて悪戯っぽく微笑んだ。その顔は中性的で可愛らしい男子高校生の顔ではなく、一人の女を誠実に愛する男の顔だった。

「あのさぁ、」

 駅前通りの交差点に差し掛かり、蜂楽が独り言のように私を呼んだ。青信号が点滅していたけれど私も彼も駆け出すことはしなかった。やがて点滅していた信号は赤信号に切り替わる。そこでようやく私たちの足は完全に止まった。きっと信号が青になってもお互い歩き出すことはないだろう。不思議とそんな気がした。

「あのさぁ、俺、今から変なこと言うけど笑わないでね」
「変なこと?今さらじゃん?」
「あー、なに?俺のことそういうふうに思ってたワケ?」

 わざとらしく不貞腐れた表情は友達同士であったときから散々見慣れていた。まだその表情をこちらに向けてくれることに思わず安堵する。

「まあ、いいから言ってみなよ」

 私に促されて蜂楽が言葉を発するよりも先に信号が青に切り替わった。交通量も人通りも多いこの駅前通りの交差点は信号機の切り替わりがやけに早い。
 私は横断歩道を渡る気などさらさら無かった。彼もそうであってほしいなと思い、私は蜂楽を見上げる。彼もまた微動だにしなかった。私たちの隣や後方で同じく信号待ちをしていた人たちがこちらを不思議そうに一瞥して横断歩道へと踏み出していく。取り残された私たちは再び青信号の点滅を目撃した。

「俺たち、運命だと思うんだよね」

 点滅が終わるころ、ようやく蜂楽が口を開いた。私の心臓は“運命”の単語に大きくどきりと跳ね上がった。

「だってこんなにしっくりくるから」

 デジャヴだろうか。
 蜂楽は感触を確かめるように私の手を握り直す。そして言った。

「俺の身体みたいだ」

 もしかして俺の片割れだった?と冗談っぽく笑う蜂楽の耳たぶは桃色に染まっていた。そのすぐ横でインナーカラーの黄色が緩やかに波打ちながらわずかばかり覗いている。桃色と黄色の組み合わせがコスモスみたいだと思った。やっぱりもう秋が来るんだ。

「それってさ、欠けていたパーツを取り戻したような、たった今完成したような、そういう感覚?」
「そう。全部があるべきところに戻ったような感覚」

 彼の言葉は的確で適切だった。全部があるべきところに戻ったような感覚。
 この感覚が私の独りよがりではないとわかって、なんだか私は泣き出しそうだった。

「だからさ、」
「うん、」
「これから先の人生で答え合わせさせてよ。これが運命かどうか」

 嬉しそうに弧を描いた目の奥で蜂蜜色の瞳が揺れていた。彼も私と同じ、なんだか泣き出しそうなのだ。私は蜂楽の手を強く握った。

「正解がわかってるクセに答え合わせも何もないでしょ」

 私は涙をこらえて、大きく目を見開きながら視界の中心にしっかりと彼を捉える。

「答え合わせなんかしなくても、運命だよ、私たち」

 蜂楽の下がった目尻の裾で一粒なにかがきらめいた。私の目尻も熱かった。
 「なに泣いてるのさ、泣き虫」と照れくさそうに笑いあう私たちを冷えた夜風が撫でていく。秋の匂いだ。過ぎゆく時間を惜しむように、ほどけまいとしっかり組まれた手だけが去りゆく夏に未練がましくしがみついていた。まだ駅には着きそうにない。