きたない


「満月は人を狂わせる、らしいよ」

 いつかどこかで見た迷信を口にせずにはいられなかった。
 遠くに見えるマンションの最上階よりも少し低い位置に浮かぶ巨大な満月。街灯か看板かと見紛うほど濃いオレンジ色をした満月は、今いる駅のホームの灯りに引けを取らないほどの強烈な光を放っていた。その満月の色と瓜二つの瞳をもつ男が隣で言う。

「別に女の子と二人きりで帰るからって、ヘンなことしないよ?」

 そのへんの男子高校生が言えば途端に不純で不潔感が出るセリフも、現役高校生モデルが言うと途端にユーモアと信憑性を帯びるのだな、と私は変に感心してしまった。たかが美醜、されど美醜。

「どうだろう、雪宮くんだって男の子なワケだし」

 と、口にしてから私は気付く。なんてことを言ったんだ、と。その発言には自分が『そういう対象』になり得るという意味を含んでしまっていた。私は異性と二人きりのシチュエーションにさほど慣れていなかった。雪宮くんが相手だとことさら言葉選びに悩む。そんなことをグルグルと考えてるうちに私は弁解のタイミングを逃した。
 雪宮くんは、あはは、と清涼感のある笑い声を響かせたあと、ほんの少しコンマ数秒考えこんでから言った。

「手を繋ぎたいとか、キスしたいとか、セックスしたいとか、結局それって性欲じゃん」

 幸いにも駅のホームには私たちしかいなかった。
 私には彼の言葉よりも、そのすべてを悟ったような憂いの滲む表情のほうがよほど印象的だった。その次に、あの雪宮剣優でもキスやセックスなどという俗っぽい単語を口にするんだな、と謎の感動が押し寄せて、そこでようやく言葉の意味を考えるに至った。
 私の理解など知らぬ存ぜぬで彼は言葉を続ける。

「それを恋だとか愛だとか綺麗な言葉で正当化して、相手に求めるのって、なんか、汚い」

 考えるのも嫌そうに雪宮くんは顔をしかめた。

 「きたない、」と私は彼の言葉をなぞるようにくり返す。それは『卑怯』という意味での『汚い』かと思っていたら、「あと、体液全般、汚くて嫌い」と、さらに苦い顔で言い放ったものだから、私の理解は混迷を極めた。

「汚い、」

 私は再度その言葉を重ねた。
 確かに雪宮くんの顔立ちは綺麗だし、親切で紳士的ではあるけれど、なにかの関係を結びたいだとか、彼に触れたいなどとはちっとも思わなかった。私にとっての雪宮剣優の存在は、なんだかもっと神聖で、高次なもので、そういう対象に据えることは失礼にさえ思えた。
 それでも彼の「汚い」という言葉のあとでは、隣に立つことすらもおこがましいような気がする。私は重心を右足から左足に移すフリをしながら摺り足で一歩分、さらに彼との間隔を空けた。ざら、ざら、とローファーの底が鳴く。

「じゃあ、さ、雪宮くんにとっての恋や愛って?」

 自分から尋ねておきながら、そんなもの無い。と言われることさえ覚悟した。
 高校生が放課後の帰宅時に話すトークテーマにしてはいささか哲学的かつ莫大なカロリー消費量だ。でも、聞いてみたいと思った。雑誌のインタビューには決して載らないであろう彼の本心を。

「神聖で、触れるどころか近付くことすら恐れ多い。そういう感情」

 その答えを掻き消そうと暗躍しているのか駅のホームにアナウンスが響いた。彼が乗る予定の電車は一つ前の駅を発車したとのことである。

「それって、」

 その先の言葉が出なかった。
 彼の基準で言えば、私が雪宮くんへ抱く想いは『恋や愛』ということになってしまう。それが嫌というわけではない。心の一部分を指先でつままれ皺が寄る。そんな気持ちだった。自分の感情に新たな解釈が加わったことで脳がひたすらに混乱している。そんな私の心情を知ってか知らずか、雪宮くんは「だからさ、」とさらに一言付け加える。

「今、一生分の勇気を使い果たしてる気分だよ」
「え?」

 言葉の意味とはにかんだ笑顔の関連性を突き止める間もなく、ホームに電車が滑り込んできた。

「じゃあ、電車、きたから」

 そう言って下り電車に乗り込む雪宮くんの背中を私はただ無言で眺めることしかできなかった。言うだけ言って、謎だけ残して、彼はもうこちらを見ていない。本当は私のことを見てほしかったけれど、同時に、絶対にこちらを向いてくれるなよ、と思った。
 私の乗る上り電車はあと三分後にやってくる。その三分が無性に恨めしかった。満月だけは相も変わらずじっとこちらを見つめている。