絶対服従の切り札


 その静けさに魔がさした。今しかない。放課後の教室には理性を失いかけている私と、蜂楽廻のパーカーだけが残されていた。
 私の自制心は薄寒の廊下に閉め出されている。むき出しになった欲望が私の自制心に説教した。度胸無しは反省するまで廊下に立ってなさい、と。
 私は息を呑みながらせり上がる不安を喉元でせき止めた。心臓は遠くから聞こえるブラスバンドの演奏よりもずっとずっと早いリズムを刻んでいる。最後にもう一度、手のひらの汗を制服のスカートで拭った。

「……ごめん」

 誰にも届かない謝罪は心臓の音でかき消された。意を決した私は椅子の背もたれにかけてあったパーカーの袖をぐっと掴んだ。だって本物の腕を掴む勇気はないから。
 使い込まれたパーカーは陽だまりのように温くて、くたりと溶け込むように柔らかかった。私は彼の実際の腕を思い浮かべながらパーカーの袖に腕を絡ませる。その瞬間ふわりと香った微かな甘さに身体の芯がきゅうっと締まった。同時に自制心の息の根も止まった。
 解き放たれた私は背もたれからパーカーを剥ぎ取る。脱がせる手つきのいやらしさに自分自身でも興奮していた。背もたれは蜂楽の肩幅よりも狭くて、蜂楽の身体よりも薄くて、蜂楽の体温よりもずっと冷たいのに。そして私は剥いだばかりの彼のパーカーにそっと顔を埋めた。
 大きく息を吸うと蜂楽の香りが鼻腔を、肺を、満たしていく。張り詰めた緊張感の中での後ろめたさと頬に触れる柔らかな生地のアンバランスさに思わず身震いする。脳のどこか大事な部分が霜焼けのようにじんじんと痺れて感覚を失っていた。

「俺のパーカー、どうかした?」
「ッ!」

 背後から聞こえた声に、私は声にならない悲鳴を上げた。同時にこのとき私は知った。人は本当に驚くと喉がぐっと締まり、大声など出やしないのだと。とっさに手放したパーカーがぼとりと落ちる。振り向こうにも首はまるで錆びついたかのように硬かった。

「ば、ちら、」

 ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく振り向いた先にはクラスメイトでありパーカーの持ち主でもある蜂楽廻が「やっほー」といつもの天真爛漫な笑顔を浮かべて立っていた。
 その瞬間、身体中の毛穴が開き、カッと身体が熱くなる。そのくせ背筋は凍るように冷たく、ぞわぞわとざわめいていた。耳に入る自分の声すらも現実を拒むようにくぐもって聞こえる。

「あ、いや、これは、その、引っかけて落としちゃったから」
「あらま、そうなの」

 私は咄嗟に「落としたパーカーを拾った」ということにした。苦し紛れに出た嘘は違和感でごわごわしている。落としたパーカーを拾って直後に落とす間抜けが果たしているのだろうか?いつから見られていたんだろう?こちらに向かって歩いてくる蜂楽に思わず私は身構えた。
 恐る恐る表情をうかがう私に気づいた蜂楽が「ん?ああ、適当に置いておいてくれていいのに〜」と緩くへにゃりと笑いながら、私の目の前で落ちたままになっているパーカーを拾い上げる。よかった、この様子だと肝心の場面は見られていなかったみたいだ。
 蜂楽はその大きく厚い手でパーカーについた埃を払うとそのまま雑に丸めて机の上に放った。彼の挙動を追っていたはずの視線が不意に彼の視線とぶつかる。蜂楽は唐突に「でもさ、」と切り出した。

「パーカーじゃなくて俺の腕、直接掴めばいいのに」

 私が言葉の意味を理解しているかなどお構いなしに蜂楽はそのまま話を続け、そして問いかけた。

「腕、組みたかったんでしょ?パーカーの袖にやったみたいに」

 そこでようやく私はすべてを察し、理解した。一気に血の気が引き、意識が霞んで白く眩む。心臓は硬く絞られたように苦しくて呼吸するので精一杯だ。私はなんとか踏みとどまりながら言葉を繋いだ。

「なん、知っ、えっ、いつから、……見てた?」

 困惑が細切れになって順序もぐちゃぐちゃの状態で口から漏れ出す。顔が熱い。蜂楽はきゅっと目を細めて笑った。それはいつもの明るくご機嫌な笑顔ではなく、舌なめずりが似合うような欲でじゅわと濡れた笑みだったから私はますます混乱してしまう。

「ん?見たって言っても、名前が俺のパーカーと腕組んで、脱がせて、そのまま匂いを嗅ぐところくらいまでだけど?」
「……最悪。最初からじゃん」

 それはほぼ一部始終だった。すべて見られていた。
 背筋を流れる汗の冷たさに反して隠すように伏せた顔は燃えるように熱い。私は恥ずかしさと絶望感で今にも泣きだしそうだった。好きな人が着ていた服をべたべたと触れるだけでなく、脱がせ、匂いまで嗅いで、当然これが気持ちの悪い変態行為だという自覚はある。蜂楽はどう感じただろう?ただのクラスメイトにこんなことされたら私なら絶対に軽蔑する。だから絶対に誰にも知られたくなかった。明日にはクラス中に知れ渡っているかもしれない。私は喉を締めながらパニックで荒くなりそうな呼吸を無理やり押さえつける。

「ごめん、気持ち悪いことして」

 今まで蜂楽と良好な関係を築けていたのに、私が自分自身の欲望で台無しにしてしまった。情けなさに眼球の底が熱くなる。締まった喉の隙間からかろうじて出た謝罪の言葉は小刻みに震えていた。

「ねえ、名前、顔見せてよ。今どんな表情してるの?」
「やだよ、見せたくない」
「口ごたえするの?あんなことしておいて」

 弱点を突かれた私はなにも言えなくなってしまった。蜂楽は顔を伏せたままの私の頭を柔らかく小突いて、からかいを含んだ声で言う。

「冗談だよ。イジワル言った。反応カワイイから」
「うそだ。気持ち悪いって思ってる。私が蜂楽の立場だったらドン引きして口もきかない」
「えー、そこまで言う?俺は結構嬉しかったのになぁ。俺、気持ち悪いなんて少しも思ってないよ」
「ほんと?」
「うん。知らない?俺が正直者だって」

 過去は覆らないし、言い訳もできないほど決定的な瞬間を見られている。次に視線がぶつかったら全部終わってしまうかもしれない。

「……ねっ、だから、顔上げて?」

 だけど私はついに観念した。その声が彼のパーカーと同じように柔らかくて温かくて甘かったから。私は恐る恐る顔を上げた。

「あ、やっとこっち見てくれた」

 顔を上げたら上げたで至近距離にニッと眩しく笑う蜂楽の顔があって、驚いた身体が後ずさろうと踵を上げた。けれど、一歩下がる寸前でそれは封じられた。蜂楽ががっちりと私の腕を掴んで離さなかったから。「え?」と困惑に視線を彷徨わせる私に蜂楽は言う。

「ダメ。俺、パーカーに嫉妬中だから」
「なにそれ、」
「なんで俺とは腕組んでくれなくてアイツは組めてるワケ?」

 むすっと大げさに表情を曇らせた蜂楽は机の上に放り投げられたパーカーを力強く指さす。

「許してあげるから、俺にも同じことさせてよ」

 蜂楽は返事をする隙すら与えてくれないまま私の腕を絡めとって一気に距離を詰める。彼の纏った体温が感じられるほどの至近距離で私は触れ合った箇所がじんじんと熱いことばかりに気を取られていた。私が拒絶しないのを確認して、蜂楽は指の背で私の頬を薄く撫でる。そして悪戯に私のワイシャツの襟に指をかけた。

「ッ、」
「だって、嗅いだでしょ?俺だって嗅がせてよ」

 蜂楽は私を絶対服従させるための切り札を持っていた。

「……いいよ」

「そうだよね、よくできました」と小さく笑って蜂楽は私の襟をめくる。そしてそのまま私の首筋に顔を寄せた。つんと鼻先が触れて、彼はさらに顔を押し付ける。通った鼻筋を首の皮膚越しに感じる。犬のようにすんすんと匂いを嗅がれて羞恥とこそばゆさに私は身じろぎした。

「ねえ、」

 吐息混じりの言葉が鎖骨を撫でる。しっとりと湿り気を帯びた熱のある声が鼓膜を震わせた。

「今度からは俺に直接してよ、なんでも」

 絶対服従の切り札が無くても私の答えは一つだ。