堕ちるは易し


 サッカーをつかさどる神はたいそうな加虐趣味をお持ちであられる。そうでなければ心が狭くて醜い容姿のダサい男に違いない。
 もともと雪宮剣優は、我々凡人とは違うステージにいる男だった。顔も頭もスタイルも良く、さらにはメンズモデルでサッカーの才能もあるときた。そのうえ彼は周囲の妬み僻みも弾き飛ばすほどに気立ての良い男でもあった。
 そう考えるとやっぱりあれは神の加虐趣味なんかではなく、単純に醜い嫉妬だったのかもしれない。

「そういや剣優、卒業おめでとう」
「めっちゃ今更だね。しかも今言うの?」
「思い出した時に言わないと忘れそうだから。っていうか今更もなにも、アンタは卒業式の日ですらブルーロックで試合してたでしょうが」

 私は雑居ビルの狭くて急な階段を上りながら、久しぶりの再会にもかかわらず軽快なテンポで進む剣優との会話に胸を撫で下ろしていた。その一方で彼の知名度を案じ、こじんまりとした隠れ家系カフェを選んでしまったことに後悔もしていた。

「いいよ剣優、ゆっくりで」

 先頭を切って一歩一歩、確かめるように階段を上っていく剣優は筋肉が落ちたのか心なしか以前よりも全体のシルエットがほっそりとして見える。後方の私を気にしてちらりと振り向く彼のボストンフレームの眼鏡には、高校時代よりも明らかに分厚くなった瓶底のようなレンズがはまっていた。
 剣優は「普段の生活は問題ないんだけど、こういう狭くて不安定な、平衡感覚が問われる場所はまだちょっと慣れてなくて」と言い訳するみたいに自分の状況を説明した。私は何も言っていないのに。

「……でさ、ねえ、なんていうかさ、どこまで聞いてもいいわけ?」

 席につき、注文していたカフェモカを一口飲んだところで私はようやく切り出した。鼓動がいつもより少し早い。しっとりと汗ばんだ太ももが合皮のソファーに吸い付く。
 剣優は返事を後回しにして目の前のブラックコーヒーに口をつけた。一口、少し間を空けてもう一口。しっかりと時間をかけて唇を濡らすと彼は滑らかに口を開き、短く尋ねた。「何について?」と。

「何って、全部だよ、全部。私の前からいなくなって、それからの全部」
「ああ、」

 鼻で笑って寄越した視線。その瞳には自罰も他罰も呪いも祈りも、すべてがあった。

「変に気遣われるほうが気持ち悪いから好きに聞けよ。……現役引退のこと」

 ああ、ついに堕ちてきたんだ。この凡人ばかりのつまらぬ地上に。あの、雪宮剣優が。

「現役引退、か」

 サッカーをつかさどる神はたいそうな加虐趣味をお持ちであられる。
 ブルーロックで高みを目指した彼はサッカーの神に愛されるどころか、その神に未来や才能、持ち得るすべてを剥奪されていた。
 その出来事は『ブルーロック 雪宮剣優選手 無念のリタイア―非情なる神の見えざる手―』と仰々しいタイトルで報じられた。メディアは持病による視力低下で選手生命を絶たれた彼を悲劇的なエンタメとして消費することに余念がない。卑しい凡人どもは完璧な男が転落していく様を見るのが好きで好きでたまらないのだ。

「進路、どうすんの?決まってる?」
「うーん、浪人して進学かな」

 平凡な回答だと思った。浪人して進学。私は胃がむかむかした。私の胃ってたまにカフェインが合わない時がある。胃を慰めるように私はお冷やのグラスに手を伸ばした。水はレモンのフレーバーがついていて爽やかだ。こくり、こくり、と水を飲む私に剣優が言う。

「ぶっちゃけ、もう気持ちが続かない」

 別れ話をされた気分だった。胃がズシンと重くなる。
 私たちは剣優がブルーロックへ旅立ったのをきっかけに疎遠となり、恋人関係は自然消滅的に終わった。だから今日は久しぶりの再会だった。
 彼、私の次はサッカーと関係解消するつもりらしい。

「視力が落ちた俺でもいいって声かけてくれてる国内クラブも一応いるんだ。下部リーグだけどね。本当にありがたいと思ってる。……でも、思ったように見えない、動けない、そんな中でプレーするのがもどかしくて、悔しくて、」

 剣優の言葉はどんどんと尻すぼみになっていく。こんなにも正直に内面を吐露する彼を私は初めて見た。私は焦った。

「やめてよ、急に。いつもの自信家ノリはどこ行ったわけ?自分の弱みをペラペラ喋るなんて、らしくない。余命宣告でもされた?」
「余命宣告、か。まあ、俺の知ってる俺はもう余命わずかかもね」

 そう言って影のある笑みを浮かべる剣優に私はピシャリと言い放った。

「私、笑えない冗談、嫌い」

 私は唇を引き結んで険しい顔のまま剣優を見る。彼は「相変わらずハッキリ言うね。この感じ、懐かしいな」と笑った。

「遠慮せずに言えよ。馬鹿だな剣優、って」
「言えるか馬鹿」

 世間の凡人からすれば、海外クラブからの治療込みでのオファーを断るなんて馬鹿げてる。ブルーロックにしがみついて全部を失うなんて明らかな選択ミスだ。と、思われるだろう。けれど彼のことをよく知る私からすれば、挑戦を捨て、安定を取ってオファーを呑む雪宮剣優なんて彼じゃない。そんなの気持ち悪い。つまるところ結局どちらを選んだって彼はサッカー人生における大事な何かを失うんだ。
 剣優は再びコーヒーを口にして黄昏れるように窓の外を見た。私も釣られて外を見る。窓の外では葉桜の新緑が西日を受けて眩しく輝いていた。
 しばらくの無言のあと、剣優がぽつりと呟いた。

「……オファーを呑まずに夢を追ったこと、別に後悔はしてないんだ。ただ、まだ区切りがつかないだけで」

 そして彼は私に視線を戻し、困ったように眉を寄せながら苦笑気味に言った。

「俺、サッカーに出会う前って何してたんだっけなぁ」

 私は無性に、目の前のしおれた男の頭を撫でてやりたくなった。
 けれどテーブルの奥行きと私たちの身長差から考えるとそれは困難で、それ以前に私は彼とまだそういう行為が許される間柄にあるのかすらわからずにいた。

「まあ、とりあえず遊ぼうよ。浪人生なら時間あるでしょ。いつ暇?」

 私は行き場を失った手を鞄に伸ばして、中から手帳を取り出した。パラパラとページをめくる私とは対照的に剣優はスマートフォンを何度かスワイプして「来週の金土日は空いてる」と告げた。その日は私も丁度予定の無い日だ。来週の行を指でなぞりながら私は言った。

「なんていうかさ、剣優って優男のくせに頭は固いよね」

 唐突な批判に晒されて剣優は目を丸くした。いまひとつ理解できていなさそうな彼に私は言葉をつけ加える。

「考え方がゼロか百だなって言ってんの」

 それでもピンときていないのか彼は黙ったままでいた。私は剣優の反応などお構いなしで一方的に言葉を浴びせ続ける。

「あのさぁ、トップクラブで五体満足にプレーするだけがサッカーの土俵じゃないでしょ」

 その時、剣優の眉間がピクリと動くのを私は見逃さなかった。「見てよ、これ」と私はおもむろにスマートフォンでYouTubeのとある動画を再生し、彼に見せる。動画の中では選手たちが鈴の音の鳴るサッカーボールをパスで繋いでいた。選手は全員その目元にアイマスクをつけている。

「ブラインドサッカー。あれは見えないことが大前提の競技だよ。土曜にこの近くで公式試合がある」

 彼はそれでもまだ口を開かなかった。私も負けじと話し続ける。

「あとさ、剣優はかなりの短期間で、それも独学であのレベルのサッカーに達したじゃない?どんな方法か知らないけど、最短距離で世界レベルに迫れた。その方法、指導者の立場になれば確立された方法になるかもね。雪宮メソッドなんて名前がついちゃったりして。まっさらな小学生に相手に教え込んだら大きく化けたりするのかな?」

 私たちの通っていた高校の近くにある運動公園では日曜に地域のジュニアサッカーチームによる練習試合が予定されていた。

「あとね、あとね、サッカーもファッションもライフスタイルも、何にだってこだわりの強い剣優が、自分自身のために作ったものって同じ境遇やハンデを持った人にとっても、便利でセンスが良くって最高なものになったりするんじゃない?」

 幕張メッセのホームページに掲載されているイベントカレンダーには来週の金曜日、国内最大級のスポーツ用品展示会の開催が記されていることを私は知っている。

「……だからさ、余命わずかなんて言わないでよ。また自信たっぷりにサッカーの話聞かせてよ。……アンタの将来について勝手にいろいろ妄想した私がバカみたいじゃん」

 そう言って俯いたのは失敗だった。目が熱い。手帳にはすべて水性ボールペンで書き込みしているのに。私は不意に溢れた涙が手帳の文字を滲ませてしまわないか、そればかりを心配していた。

「……ほんと、キミってバカだよね」

 突如、視界の中に大きくしなやかで節くれた手が入り込んできて、手帳の上に乗っていた私の手を上から覆った。じんわりと熱を感じる。その手が剣優のものだと気付くまで少し間があった。そして「あっ、」と顔を上げると真正面から彼と視線がぶつかった。

「それ、全部調べたわけ?」

 それ、と彼は私の手帳を顎で指す。剣優の視線の先、カレンダーのマス目の脇にあるメモ欄にはびっしりとスケジュールが羅列されていた。ブラインドサッカーと地域のジュニアサッカーの公式試合と練習試合、スポーツに関わる各種展示会、それら全部のスケジュールだ。

「勝手に見ないでよ」
「そう言われてもね。……あーあ、すっかり忘れてた。キミって態度だけじゃなくて字もデカいって」

 そう言って意地悪そうに口角を上げる剣優は私のよく知る雪宮剣優だった。優男の皮を被った、意地悪で自信家で野心的なサッカー少年。彼はかつての私の恋人。

「私さ、思うんだよね。区切りをつけるって、打ち切り漫画みたいに無理矢理終わらせることとは違うんじゃないかなって」
「打ち切り漫画、ね」
「だって、あの『スターウォーズ』でさえ完結したと見せかけて続編作ったりスピンオフがたくさんあるんだよ?……私はまだ見ていたいよ。雪宮剣優の続きを」

 それを聞いて剣優は、ぷはっ、と噴き出し笑った。

「ほんとキミって突飛だよね。なんなの、急にスターウォーズを引き合いに出すとかさ」
「最近配信で一気見したから……」
「面白かった?」
「すっごく!」

 それから二人でもう少しだけブラインドサッカーの映像を見て、Wikipediaでざっくりとルールを確認しながら、締めくくりにぬるくなったコーヒーを二人同時に飲み干した。結局、来週末の予定はもう少し考えてみるとのことだった。

「そろそろ行こうか」

 もたもたと身支度する私を置き去りにして、剣優は伝票の挟んである細長いバインダーを片手に一人スタスタと会計へ向かってしまった。慌てて彼の背中を追い、「自分の分、自分で払う!」と主張する私のことなど無視して、剣優はあっという間に支払いを終えてしまう。「もう、」と不貞腐れながら、私は剣優がブルーロックへ行ってしまう直前にしたデートも支払いは彼だったな、と思い出していた。

「剣優、ありがとう」
「どういたしまして」

 礼を言う私に向ける笑顔は爽やかな優男のそれだった。
 雑居ビルの階段を降りると、淀みを洗い流すように夕暮れの冷えた風が頬を撫でる。私たちは軽く顔を見合わせてから、おのずと同じ方向へ向かって歩き出していた。

「……っていうかさ、」

 駅へ向かう途中で、ふいに剣優が口を開いた。

「俺、見たことないんだよね」
「何を?」
「スターウォーズ」
「は?そのくせエヴァは旧劇含めて全部見てるわけ?」
「それとこれは関係ないだろ」

 剣優のムッとした顔がなんだか幼く見えて私は笑った。

「やっぱり予定変更。帰る前に今からTSUTAYA行くよ」
「え、スターウォーズ借りさせられるの?」
「もちろん」
「別に配信で見ればいいじゃん」
「ダメ!配信だと、そのうち見る〜とか言って結局見ないんだから!期限がないとダメ!」

 はいはい、わかった。と大袈裟にうんざりとした表情を作る剣優の口元には笑みが滲んでいた。ああ、そうだった、この人は昔から私の突飛なワガママにもなんだかんだ応じてくれる人だったっけ。

「来週会うときまでが期限だからね。宿題だよ。感想聞くからね」
「えー、じゃあ一緒に見ようよ」
「私この間一気見したばっかりって言ったじゃん!」
「いいじゃん、付き合ってよ。恋人同士なんだから」

 そう言って意地悪そうに口角を上げる剣優は私のよく知る雪宮剣優だった。優男の皮を被った、意地悪で自信家で野心的なサッカー少年。彼は今も私の恋人。

「ほら、名前、行こ?」

 自然に差し出された剣優の手を私は迷わず掴んだ。
 それは雪宮剣優の第二章を隣で見ることが許された瞬間でもあった。

「剣優、サッカーの神様なんてぶっ飛ばしちゃお」
「ん?なんか言った」
「なんでもない」