だって夏だし豪雨じゃん、


 今や赤道は日本を貫いている。だから今の日本って熱帯地域なんだよ。そうじゃなきゃこんなに暑いのって変じゃん。
 意を決して玄関の扉を開けると猛烈な熱気がモワッと流れ込んでくる。扉を開けた先には額に汗を浮かべる私の幼馴染が立っていた。

「久しぶり、凛」

 正月ぶりに会った幼馴染は相変わらず眩しかった。私は相も変わらず彼のことが好きだった。片思いだった。

「暑かったでしょ?入って。熱中症なっちゃうよ」
「そんなヤワじゃねぇよ」
「やっぱり向こうのほうが涼しい?ヨーロッパって暑い?」
「あっちも暑ィけど、湿度があるぶん日本のほうが体感で暑い」
「時期ずらして帰ってくればいいのに」

 世間のさまざまなイベントに「めんどくせぇ」だの「くだらねぇ」だのああだこうだ文句をつけるくせに、盆と正月は律儀に帰国してくる彼の変な生真面目さも私は好きだ。(ちなみに彼の兄は過ごしやすいからという理由で春と秋にしか帰ってこない。まあお互いに試合の日程だとかリーグ戦の都合だとかいろいろあるんだろうけど。)

「ん、これ土産」
「やった!」

 ぶっきらぼうに渡された紙袋の中には、細かいロマンチックな装飾が施された平たい缶がふたつ入っていた。いかにもヨーロッパって感じがする。聞くと中身は焼き菓子だそうだ。よかった、チョコレートじゃなくて。缶は日差しによって熱されていた。

「どうぞ、狭い部屋ですが。なんか飲む?」
「いや、いい。すぐ帰る」
「えー、お互いの近況報告とか話そうよー」
「お前の一人暮らし体験記には興味無ぇよ」
「興味もって!聞いて!」

 そう、私はこの春、転職を機に(同じ県内ではあるけど)実家を離れて部屋を借りた。職場まで徒歩15分の新築1K。初めての一人暮らし。この部屋に男を上げるのは引っ越し業者と父親以外では凛が初めてだった。私にとっては特別なことだった。

「もう実家には顔出したの?」
「ああ。昨日の夜に日本着いて、実家に荷物置いて、ちょっと話した程度。そのまますぐ寝た」
「素っ気無。もっとこう、ご両親と、ワー!お帰り!ただいま!ハグ!みたいなの無いの?」
「バカ。成人してる息子相手にやるかよ」
「そっかぁ」

 私はやりたいけどなぁ、という言葉をぐっと飲み込む。代わりに「ご両親はお元気?」と尋ねたら「相変わらずだよ」と返ってきて私は嬉しくなる。
 凛の実家は私の実家のお向かいさんだ。息子たちが巣立ってもなお、幼馴染である私のことをよく気にかけてくれていた。私が一人暮らしを始めるときにはお祝いに上等なバスタオルを贈ってくれたほどだ。

「これ飲んだら帰るからな」
「はーい」

 凛は私がちゃっかり注いだ麦茶になんだかんだ言いつつも口をつけた。私の部屋にはまだ大きなグラスはなくて、社員食堂でお冷用に出されるような小ぶりなグラスしかない。凛が麦茶を飲み干さないよう少しでも時間を長引かせたくて私は必死に話を振った。
 そんな私の健気な努力が天に届いたのかもしれない。街は滝に飲み込まれた。

「ひっどい雨、」

 いや、滝ではなく雨だった。
 アパートの屋根を突き破らんばかりの激しい雨音は慟哭や癇癪のようだ。私が子どもの頃、それは「通り雨」と呼ばれていた。今はもうそんな生易しい呼び名じゃ通用しないくらいの勢いだ。なんだか雨の降りかたは年々酷くなる一方に思える。凛は眉間に皺を寄せて恨めしそうに暗雲を睨みつけた。

「どうする?うち予備のテキトーな傘とか無いけど」
「いい。タクシー呼んで帰る」
「っていうか、もうちょっと様子見たら?多分すぐ止むと思うよ」

 呼んだタクシーが到着するのとほぼ同じタイミングで雨が上がり、あざ笑うような眩しい晴天を苦い顔で睨みつける凛の姿が脳内に浮かんだ。突然降り出す激しい雨ってなぜかだいたいそうなる運命にある。

「そうだ、お昼ごはん食べた?そうめん食べてかない?」

 凛は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたものの、少し考える素振りを見せてから、こくんと頷いた。

「よし、じゃあ決まり」

 そう言って意気揚々とさっそく準備に取り掛かったが、夏場のキッチンは地獄めいていた。なにかの刑や罰のように暑い。こんなところ10分もいたら私の身体は溶けちゃうんじゃないだろうか。人体ってそんなに耐熱仕様にできてない。
 私はしかめっ面でぐらぐらと煮えた湯に乾麺を投げ込む。そうめんは良い。2分もすれば茹で上がるから。茹で上がったらあとは火照った手も一緒に水で冷やして、適当につゆを用意して完成。薬味用の刻みネギはあらかじめ冷凍保存しておくと便利だってこの夏気付いた。ライフハックってやつ?
 私は部屋で涼んでいた凛を「できたよー」と呼びつけて箸だの薬味だのを運ばせる。働かざる者食うべからず、だ。

「いつまでこっちにいるの?」
「2週間くらい」
「長っ、私の倍じゃん。何して過ごすの?」
「墓参り行って、ブルーロック時代のやつらと会って、あと何件か雑誌とかテレビの取材入ってる」
「へ〜、雑誌とかテレビの取材って、もう半分芸能人みたいなもんじゃん」
「くだらねぇ。ったく、余計な仕事入れやがって」
「まあまあ。……とりあえず、食べちゃおっか」

 今や私の幼馴染はスーパースターだ。
 私はスーパースターとそうめんを食べる。

「いただきます」

 つん、とワサビの辛みが鼻から抜ける。
 私は潤んだ瞳で伏し目がちに彼を見た。かつて幼児で、児童で、幼馴染だった男を。
 向かいで胡坐をかいてそうめんをすする凛は、このうだるような猛暑も息苦しい湿気も似合わない冷涼な風貌をしていた。スポーツマンらしからぬひんやりとした印象の肌。綺麗に通った鼻筋は彼のシャープな印象をより強固なものにしている。あの緩やかなカーブを描く繊細な睫毛が私はずっと羨ましかった。

「ンだよ、」
「え、」

 冷えびえとした青緑色の瞳がこちらを怪訝そうに見つめ返す。ぶつかった視線に私は慌てた。電気代をケチっていまひとつ冷え足りない部屋の温度が1度上がった気がする。

「ううん、……なんか、小学校の夏休み思い出さない?」
「はぁ?」
「覚えてる?よくウチの実家で一緒にそうめん食べたじゃん?」
「よく、ってほど頻繁でもねぇだろ」

 雨が降ると凛の所属するジュニアチームの練習はたびたび休みになった。私たちより2つ年上の冴は凛のチームの上級生クラスにあたる団体にいて屋内練習場を使っていたし、当時すでに海外を意識して英語の勉強をしていたから、暴風雨警報が出ようとも冴は冴で忙しそうにしていた覚えがある。
 一方で彼らの母親は息子たちのサッカー漬け生活を支える傍ら、もともとの国家資格を活かして復職した天職に束の間の充実感を得ていた。そういった背景もあって私の母が実質一人で留守番状態だった幼い凛を我が家の昼食に招いたのが始まりだったと記憶している。

「お前は実家帰ってんの?」
「うん、県内だしね。あさって実家帰って両親と一緒に墓参り行くよ」
「じゃあ、袋ん中の菓子、一箱渡して」
「いいけど……」

 渡された袋の中の菓子を総取りするつもりだった私は少し落胆した。変に期待させるくらいなら最初から私の実家に直接渡しに行ってくれればいいのに。

「っていうか、2週間も日本に滞在するなら、うちの実家に顔出していけばいいじゃん。実家お向かい同士なんだから。うちの両親も喜ぶよ」
「変だろ、急に訪ねていっても」
「変ってことないでしょ、一人娘の大事な幼馴染なんだから」

 漫画なら「ふんっ、」と書き文字が現れそうな勢いで不機嫌を露わにした凛はめんつゆに沈んだ麺をすくって険しい顔ですすった。私は相変わらずの気難しさを鼻で笑って「まあ、渡しとくよ」と返事する。

「そういえばさ、なんで来なくなったんだっけ?そうめん食べに」
「デカくなりゃ自然と疎遠になるもんだろ、普通」
「別に顔合わせたら普通に会話してたし、一緒にホラゲの新作やった記憶あるし、疎遠になる前触れとか無かったよね?」

 凛の言う一般論もわかる。でもそういうのって異性同士であるがゆえの気恥ずかしさとか、ぎこちなさから徐々に疎遠になっていくものだと思うんだけど、私と凛のそれはもっとこう、ぴんと張った糸をハサミで切ったようにすっぱりと突然だった。だから幼い私は困惑したし、何か彼の気に障ることをしたのではとも思った。未だに疎遠の理由はまったく見当がつかないままだ。
 凛のことだから冴の真似をして英語の勉強に本腰を入れ始めたか、あるいは練習メニューをよりストイックなものに調整したのか。そのあたりのあり得そうな理由を勝手に推測して当時の私はなんとか納得したけど、今になってふと答え合わせをしてみたくなった。

「で、実際のところは?」
「しつこい。なんでもいいだろうが」

 悪態をついて凛はそのまま黙り込んだ。私はじっと見つめて答えを待ったが強情な凛が口を開くとは思えなかった。子どもの頃からずっとそう。
「遠足のおやつ、何にするの?」「読書感想文の本、読むやつ決まった?」「……好きな人、いる?」
 凛が私の問いにだんまりを決め込むのは今に始まったことじゃない。「じゃあ、もういいよ」といつもは私が根負けするんだけど、この日は違った。私が諦めていつもの降参文句を口にしかけたその時だった。

「惚れたから」

 凛はたった一言そう言った。

「惚れた……って、好きになったってこと?恋愛的な意味で?」
「それ以外に何あんだよ、アホか」
「あはは、カワイイ〜!」

 大笑いしながらもボッと全身が火照った。こんなの凛にとっては、既に時効を迎えているずっとずっと遥か過去の話なのに。
 私の凛への恋心はいつからだったっけ?もしかしたらお互い気付かず両想いだった瞬間があったのかもしれない。今や片思いする側となった私は掴み損ねたチャンスを笑い飛ばすほかなかった。

「え、私のこと意識しちゃったんだ?あはは、まさか凛少年にもそんな時期があったとは」
「……なに過去の話にしてんだよ」
「え?」

 意味深な言葉に呆然としている私を睨みつけながら、凛は箸を置き両手を合わせて小さく頭を下げる。この男、口は悪いが顔と行儀だけは良く出来た男だった。

「なんでもねぇよ。……雨止んだから帰るわ」

 立ち上がる凛を見て私はようやく我に返る。
 確かに窓の外は明るく、雨音の代わりに蝉しぐれが街を包んでいた。やっぱりすぐ止んだんだ。もう少し降っててくれてもよかったのに。

「今日はありがとうね。凛のご両親にもよろしく伝えて」
「ああ、お前もな」

 玄関まで見送りに行くと、玄関は外の熱さに浸食されていた。あの大雨をもってしても暑さや湿度を洗い流すことはできなかったらしい。
 靴を履く凛と、彼を見送る私、たった二人立つだけで1Kの手狭な玄関はぎゅうぎゅうだった。私は出しっぱなしのサンダルとパンプスを隅へ追いやって申し訳程度にスペースを作る。もっと日頃から綺麗にしておけばよかった。

「忘れ物はない?」
「無い。お前と一緒にすんな」
「ほんっと一言多いよね」

 まあ、確かに私は糸師家に遊びに行ってランドセルを忘れてくるような子だったけれども。
 ああだこうだ言い合いながら、靴を履き終えた凛に私は小さく手を振る。

「それじゃあ、」

 私たちはお互い大人になった。はずだった。
 お向かいに住んでいた幼馴染は、今や県境どころか国境も越えて遠くヨーロッパの地でサッカー選手をしている。それなのに、バイバイの時間だけは小学生のあの頃と何も変わらなかった。ちくりと寂しくて、ワガママ言って引き止めたくて、楽しい夢から目覚めたあとみたいに何かが心に引っ掛かる。

「おい、」

 でも、この日は私の「またね、」の言葉を待たずに凛が被せ気味に一言放った。

「なに?」
「お前は、」

 なにか大事なことを問われるような気がした。

「……お前は意識したことないのかよ。昔も、今も」

 終わったはずの会話が凛によって再び蒸し返された。
 お前は意識したことないのかよ。昔も、今も。昔も、今も。
 何度頭の中で繰り返しても発言の意図が掴めなくて、私は「えっと……」と視線をさまよわせた。冗談も誤魔化しも通用しない真剣な瞳が力強い視線で私の一挙手一投足を捉えている。

「……聞いても笑わない?」
「逆に俺がお前の話で笑うと思ってんのか」
「それもそうか」
「おい」

 うそ、意外と結構、私の前だと笑ってたよ、凛。
 ねえ、今どんな答えを求めてる?
 ねえ、軽率に気持ちなんて聞かないでよ。
 今も好きって知ったら、どうするのさ。
 嘘を吐けるような器用さなんて持ち合わせてないって知ってるくせに。

「……なんとも思ってなかったら一人暮らしの家に上げないよ」
「お前それ、どういう意味か分かって言ってんの?」

 私は静かに頷く。凛の言葉を借りるなら「それ以外に何あんだよ、アホか」だ。
 後戻りはもうできない。彼がこの部屋に来ることはもう無いかもしれないな、と私は静かに覚悟した。どうせ後戻りできないなら、もっと直接的に好意を伝えたって変わらないか。

「好きだから。凛だから、だよ」

 自分から直接的な告白をしたのは人生でこれが初めてだった。長い長い片思いの終わりがこんな突然に訪れるとは。ねえ、私の気持ち、伝わってる?

「名前、」

 私の疑問に答えるように凛が鼻で小さく笑った。

「お前、顔真っ赤。ダサっ」
「なっ!凛が悪い!」
「ああ、そうかよ」

 私が凛を睨みつけるよりも先に、そのしなやかで大きな手が私の頭を無造作に撫でた。手首かな?香水の匂いがふわりと鼻を掠める。くすぐったくて背筋がもぞもぞする。

「……俺も、惚れてる。今でも、名前のこと」

 ずっとずっと聞きたかった言葉がいざ目の前に現れると、それはそれで現実味がなかった。恥ずかしそうに視線を逸らしながら頭を撫で続ける凛をニヤニヤと見つめながら私は甘えたがりの飼い犬のごとく頭を彼の手のひらに押し付ける。この手は、私のものってこと、なんだよね?

「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「お互い様だろ」
「じゃあお互い意気地なしの馬鹿ってことで」

 凛のその腑に落ちていない表情を笑ったら、不機嫌そうに鼻をつままれた。「ちょっと!」と抗議する私の鼻声を凛が笑う。目を細めて、口を開いて、しっかりとした眩しい笑顔だった。彼の本当の笑顔を私は小学生ぶりに見た気がする。
 ああ、やっぱり、好きだな。

「こういう状況なわけだけど、……帰っちゃう?」

 私は凛の羽織るリネンシャツの裾をちょこんと掴んだ。寂しさが指先から漏れ出す。
 靴を脱いで、やっぱりもうちょっといようかな、なんて言ってくれないかな。このまま夜まで、なんなら朝まで。ううん、嘘、ほんとは滞在中ずっと一緒にいてほしい。
 まるでシャツに縫い付けられたみたいな私の手を凛はするりと剥がしてぎゅっと握ってくれる。それから名残惜しそうにゆっくりと手を離した。

「このあと予定入れちまったから無理」
「ですよねー」
「お前こそ仕事盆休みだろ。予定無ぇのかよ」
「終日部屋でダラダラするのも社会人の立派な予定の一つだよ」
「あっそ。……じゃあ、また今夜な」

 ガチャリと開けた玄関ドアの向こうから、熱気とともに濡れたコンクリートの匂いがむわりと流れ込んでくる。

「え、今夜って」
「夕方で用事終わるから、またあとで来る」
「いいの?」
「嫌ならいいけど」
「ううん、会いたい」

 大人になって唯一良かったのってこれかもしれない。いつでも「じゃあね、バイバイ、またあとで」ができること。

「夕飯なに食いたいか考えておけよ」
「わかった」
「じゃあ、またあとで」

 私は遠ざかっていく凛の背中をぼんやり眺めて、曲がり角でその姿が見えなくなってからようやく扉を閉めた。
 玄関に残るのは熱くなった身体としんみりとした寂しさ、そして香り。
 私は閉めたばかりの扉を通して恋人の残像を見つめた。

「夏休みだなぁ」