正しさを唱えよ


 雪宮剣優は誌面に載るたび、どんな色にでも染まった。ただ唯一、私の色には染まらなかった。
 
「名前、手を貸して」

 そう言っていつも彼が塗ってくれるハンドクリームは微かにジャスミンの香りがした。スマホケースも、キーホルダーも、洋服も、靴下すらもお揃いにしてくれない彼が、ハンドクリームを塗ってくれるこの瞬間だけは私と同じ香りを放つ。

「せっかく綺麗な手なんだから、俺と会えない時でもきちんと自分でケアしてよ」

 呆れを含んだ声に反して、剣優はまるで私の形を覚えようとするかのごとく熱心だった。私の手にクリームを塗り広げながら、私の手の輪郭をなぞり、位置や形を確かめるように関節や爪を撫でる。
 視線も、彼の手も、気配すらも熱い。冷たく乾燥した空気の中で私の背筋だけはセーターの向こう側で初夏のように薄く汗ばんでいた。

 平たい手のひら、ふっくらと柔らかい親指の付け根、主張の薄い指の関節、深爪気味の爪。これまでの十数年を共に過ごしてきた私の手。私は彼を通して自分の形を知る。

「剣優、そんなに見られたら、穴空いちゃうよ」
「いや、名前って、こんな手なんだな、って」
「あはは、今更?」
「そう、今更なんだけどさ。俺の腹や背中に触れる手。余裕なさそうにシーツを握りしめる手。それがこの手なんだなと思ったら、あらためて愛おしいな、って」

 ゆるやかな微笑みの中に二人だけのとろとろとした秘密を含ませながら剣優は私の反応をうかがう。私はぐるぐるとやり場のない熱や恥じらいや嬉しさを誤魔化すように「もう、」と軽く彼の肩口を叩いた。ところが当然、日々のトレーニングで鍛えられた身体はびくともしなかった。それどころか彼は私のささやかな暴力さえも逆手にとる。

「そうやって照れ隠しで俺に振るう手も愛おしいよ?」

 すっかり何も言えなくなってしまった私を見ておかしそうに笑いながら彼は「はい、おしまい」と私の手を解放した。
 
 今度は私が彼の手を熱心に見つめる番だった。
目ざとい私は、剣優が鞄からさりげなく取り出したハンドクリームが私に塗ったものとは異なる香りであることに気付いていた。パッケージには『シダ―ウッド&』とある。&の先は彼の指に隠れて見えなかった。

「ジャスミンの香り、嫌い?」
「好きな香りだよ。そうでなきゃ毎回キミに塗ったりしない」

 そう言いながら、彼は滑らかさと無骨さを器用に併せ持ったその手の甲にクリームを乗せる。彼がクリームを塗り広げると同時に力強い木々がジャスミンの花を上書きしていく。

「嫌いじゃないのにわざわざ違う香りを上から塗るの?」

 なんとも言えない違和感だった。わざわざ花畑を根こそぎひっくり返しておきながら緑化を謳って植樹をするような、そういう違和感だ。
 剣優は微笑みを絶やさないまま、無知な私に教えを授けるように言う。

「俺には俺の、キミにはキミの最も似合うものベストマッチがあるからね」

 確かにそうだった。彼に似合うものはどれも彼が身につけるからこそ余剰も不足もなくぴったりと収まるのであって、それは到底、私には当てはまらない。
 「でさ、」と剣優が付け加える。視線は私のセーターをとらえていた。偶然にもそれは彼が私に贈ったものだった。
 
「俺は、キミに似合うものは誰よりも知ってるよ」

 雪宮剣優は自分の正しさを少しも疑わない。だから私は時折、自分の考えが誤りで、少数派で、傍若無人なものに思えてしまう。
 
「……お揃いが嫌なら、素直にそういえばいいのに」
「じゃあ、俺が素直に言っても泣かないでいられるの?」
「大丈夫、泣いたとしてもそれは悔し泣きだから」
「あはは、名前のそういうところ、好きだな」
「そんなこと言ったって私は騙されないんだから。どうせ私と何かをお揃いにする気なんてさらさら無いくせに」
「うん、俺はお揃いって好きじゃないからね」

 素直に言えと自分からせがんだくせに、いざ面と向かって告げられると動悸がした。でも悔し泣きはしなかった。剣優の返事に躊躇や悪気のようなものが少しも見えなくて、涙よりも驚きが上回ったんだと思う。

「だってダサいよ。そういうの。原始的っていうか」

 それは呆れたり馬鹿にしたりというよりは、歴史の教科書に載る人類の過去の愚行を眺めるような、どこか遠くのものを語るような口ぶりだった。
 
「純粋に疑問なんだけど、愛し合ってるのに、この人は自分の所有物だって示す必要性、ある?」
「必要性……?」
「所有物だと示さないと奪われてしまうかもしれない。それって自信の無さの現れであると同時に、相手に不信感があるってことなんじゃないの?」

 疑問に思うことすらも躊躇させる圧倒的な正しさを振りかざされて、私はもはや、どうしてそんなにお揃いにこだわっていたのかもわからなくなってしまっていた。
 剣優はすっかり木々の香りで覆われたその手で私の手を再び握り、私の表情を覗き込む。私に注がれた視線は真剣で、真っすぐで、正しかった。
 
「俺はキミを夢中にさせ続ける自信もあるし、キミが俺を裏切るなんて思ってもいないよ」

 彼の口元が力強く弧を描く。私はその自信と力強さに満ちた表情が何よりも特別に好きだ。
 
「だから、俺がキミとお揃いにしたいのは、結婚指輪と苗字だけ」
「それって……」

 結婚指輪と苗字のお揃いをちらつかされたあとでは、恋人同士の間で交わされるいかなるお揃いやペアグッズも気休めの口約束にしか思えなかった。
 
「名前、それまで我慢できるよね?」

 私はその問いかけに頷くほかなかった。