今日だけは盲目


 今日2月14日を差し置いて、ピンクのペンとハートマークで飾られたその日は、空白が多い私のスケジュール帳の中でもひときわ輝いていた。その一方で今の私はひどく沈み、くすんでいる。私が悄然としている理由を掴み取れないでいる目の前の男は申し訳なさそうに眉を下げた。でもその謝罪は恐らく見当違いなのである。

「名前、こんな時間にごめんね」
「ううん、明日休みだし大丈夫」

 重たい玄関ドアの閉まる音が私に自白をせまっていた。雪宮剣優はドアに鍵とチェーンをかけながら、落ち着きなくさまよう私の視線を拾う。

「どうしたの? 今さら部屋に来るの緊張するってことはないでしょ?」
「あー……そういうんじゃなくて、えっと、」

 私は答えを引き伸ばしながら、靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。部屋の中にはまだ雑踏の余韻があった。彼も今しがた帰ってきたばかりなんだろう。雪宮剣優は意見を言わずにぐずぐずと溜め込むことを良しとしない男である。これ以上引き伸ばしたところで事実は変わらないのだし、予期せぬ失敗を表に出してしまった時点で私の負けだ。

「……ごめん、剣優と会うの、来週の予定だったから、まだ無いの」
「無い?なにが?」
「バレンタインチョコ」
「……バレンタインチョコ」

 剣優は神妙な面持ちで律儀に私の言葉を復唱する。それから数秒遅れでようやく意味を理解したのか、ぷっと噴き出し、誤魔化すように咳払いした。

「あのねえ、別にそれ目当てで呼び出したワケじゃないから」
「そうなの?」
「むしろ、俺がたくさんもらってくるから、名前は今日拗ねてるんじゃないかなって心配になってさ」
「私のご機嫌うかがいで呼び出した、ってこと?」
「まあ、そんなところ」

 彼の所属事務所に届くチョコレートの量ときたら、クラスのイケメンがもらうチョコレートの量なんかお遊びみたいなもんだ。嫉妬するのも馬鹿らしくなるほどの圧倒的なスケール。そもそも彼のファンや仕事の関係者にいちいち目くじらを立てていたら身がもたない。
 剣優がピントの外れた理由で私を呼び出したことがわかり、私は安堵と拍子抜けで鈍く呆けた表情のまま彼にコートを脱がされる。私の体温と外気の冷たさが混ざりあったコートを小脇に抱えて剣優はようやく私を抱きしめ、耳元に口を寄せた。

「……って、まあ、そういうのは口実で、純粋に会いたくなったから」

 重たい声が耳から胸へと伝い落ちる。

「バレンタインに街中での撮影ってあんまり良いものじゃないね。寒いしさ、たくさんカップルも歩いてて、なんかもう途中からずっとキミのこと考えちゃって、……どうしても今日会いたくなった」

 ぜんぶを言い切った彼は唇で私の頬を撫でて「冷たいね」と小さく笑う。

「寒かったでしょ? 今コーヒー淹れるから座ってて」

 私を腕の中から解き放つと、剣優はソファーの背もたれに私の上着をかけ、いつもと変わらない様子でキッチンへと向かっていった。バレンタイン、カップル、どうしても今日会いたい。彼の言葉から単語を拾い上げながら、らしくない発言だと私は再び呆けた。頬が熱いことに自分でも気付いていた。つまり、寂しいってこと?
 その解釈に行き着いた途端、いてもたってもいられなくなった。私は彼を追いかけてそろそろとキッチンへ足を運ぶ。すると、私の気配に気づいた剣優が「大丈夫だから座ってて」と声だけでこたえた。彼は背を向け、ヤカンを火にかけていた。

「私もなにか手伝うよ」
「手伝いはいいってば」
「いや、でも、」
「あっち行ってて。……今の俺、すっごく情けない顔してるから、名前に見られたくない」
「え?」

 話のオチをつけるように沸騰したヤカンがピーピー甲高く鳴く。彼は火を止め、「これが一番ラクで美味しい」と愛飲しているインスタントのドリップパックコーヒーをてきぱきと手際よく淹れた。コーヒーが抽出されるまでの間、私は彼が今どんな表情でいるのか想像をめぐらせて過ごしたが、彼はこちらに背中を向けたままで、頑なにその表情を見せようとはしなかった。

「……ほら、もうできるよ」

 コーヒーの抽出が終わった頃、彼はドリップパックを片付けながらようやく私のほうを向いて「だからあっちで座ってな」とたおやかな表情を浮かべた。そこにはもう彼の言う「情けない顔」の存在は確認できなかった。
 私は言われた通りとぼとぼとリビングへ引き返す。ソファーに腰を沈めているとさほど時間もかからずに二人分のマグカップを手に持った剣優が戻ってきた。

「おまたせ。どうぞ」
「いただきます」

 いつもと何ら変わりないやり取りに調子が狂う。ふうふうとコーヒーを冷まし、曇ったメガネをテーブルに置くところまでいつもと同じだ。剣優はコーヒーを一口飲むと大きく息を吐いて身体の力を抜いた。このときばかりは彼の身体が一回りほど小さく見える。

「名前も目が悪かったらいいのに」
「え?」
「ううん。……俺、かっこつけだからさ、名前に見せたくない部分、いっぱいあるなぁって」

 あいにく私の視力は両目とも1.2だ。ちらりと剣優の視線がこちらを向く。しかしその視線はすぐ気まずそうにどこか遠くのほうへと泳いでいった。目が良いせいで見えないものもあるらしい。

「じゃあ、今だけ目悪くなろうかな」
「ははっ、なにそれ。都合良い視力だね」

 そう笑って剣優はマグカップを机に置くと、まだ泳ぎ足りなそうな視線を再び私に戻して言う。

「じゃあ、今は見えてないってことでいい?」

 私は小さく頷く。見えないとどうなるんだろう。剣優の様子をうかがっていると彼はさらにくったりと力を抜き、そのまま私の太腿を枕にごろりと横たわった。驚いて「剣優?」と呼びかける。彼は寝起きのように小さく唸り、私の腹へ顔をうずめた。こわごわ手を伸ばした私はしなやかに流れる黒髪をゆっくりと撫でる。

「名前、ありがとう」
「甘えたい日なの?」
「さあ、どうだろうね。……ちゃんと見えてない設定で頼むよ」

 つつけば破れてしまいそうな虚勢に小さく笑うと黒髪の間に熱の溜まった赤い耳を見つけた。スカート越しに彼の頬の熱さを感じる。腹にあるこそばゆさは不思議と心地よかった。私はそうしてしばらく毛流れに沿って彼の頭を撫でて過ごした。

「剣優、寝た?」
「いや、起きてる」

 私の脚は剣優の頭の重みに痺れ始めていた。彼はようやく仰向けになって私を見上げる。もう顔の火照りは抜けているようだった。どこか残念な気持ちでいる私に剣優は腕を伸ばして頬をなぞる。

「名前はもう眠い?」
「ううん。むしろ、こんな時間にコーヒー飲んだから寝れそうにないかも」

 それを聞いた彼は弓なりに細めた目の奥で、昼の終わりと朝の始まりを溶かした濃い橙色の瞳に私を取り込もうとしていた。

「それは俺にとって好都合だな」

 微笑を唇に漂わせたまま彼は上体を起こした。一気に顔と顔との距離が縮まる。
 モデルともフットボーラーとも異なる、私だけが唯一知る表情のひとつをたたえながら彼は言った。

「今日はこのまま俺ん家で夜ふかししてくれるよね?」

 今度は私が顔を火照らせ視線を遠泳させる番だ。

「あー……なら、コーヒーのおかわりがほしいかも」
「ふふっ、仰せの通りに」

 そう言ってキッチンへと足取り軽やかに向かっていく姿は少年のように無邪気だった。今は、まだ。