日用の糧を与え賜え
彼の視線の先で少女は黒い血溜まりに浸かり、声もなく泣いていた。ページを捲る男の指はさらりと白い。西日が差し込む保健室には消毒液の匂いが充満していて、その潔癖な空気をとろかすように時間は緩慢と流れていた。黒い合皮張りのソファーは日差しの熱を吸ってほのかに温い。
「雪宮、そんな悪趣味な漫画よく読めるね?」
「その言葉、そのままキミに返すよ」
こちらに一瞥もくれないまま向かいのソファー座る雪宮は紙袋から新たに漫画本を一冊取り出す。
「あ、でも、この漫画はもうちょっと借りるね。まだ読み切れてなくて」
「いいよ、急いでないから」
先週、H&Mのビニール袋に入れて無造作に貸し出した漫画本たちは丁重に厚手の紙袋へと移し替えられていた。紙袋のロゴには『メゾン・マルジェラ』とある。そこから取り出された漫画本の表紙に描かれる少女の背には、皮膚を裂くようにして生える歪な翼。
彼の無意識が生んだ、ブランド品の紙袋と悪趣味な漫画の珍妙なミスマッチは物語の薄気味悪さを体現するようでもあった。
「キミこそ悪趣味なものばっかりよく知ってるね?なんかもっとマトモなもの色々あるでしょ」
「だってさ、予定調和のハッピーエンドとか、妬ましくて見てられなくない?」
「下劣だねぇ」
「雪宮もこっち側の人間じゃないの?」
「当然のように同じ括りに入れないでもらえる?」
目の前の端正な顔はその眉間に皺を寄せ表情をもってして遺憾の意を表明するが、彼が初対面のその時から品性の露悪さを包み隠さず明かしてくれたことを私は忘れていない。
*
その年、過度に神経質でありながら一般的な女子高生に擬態していた私にも夏の訪れと共にいよいよ限界が訪れた。
教室で交わされる周囲のありとあらゆる一挙手一投足がノイズとなり、まとわりつく湿度も、視線も、舞い上がった埃すらもがストレスで、学生服の彼らの鈍感さが妬ましく、私の情緒はひどく乱暴に、ひしゃげた。そして自意識の袋小路に追い込まれた私は夏休み明け、ついに一般的な女子高生という枠組みから脱落する。このような状況でもなお、周囲の理解ある大人たちにより保健室の潔癖で清閑な空間と卒業までの学習計画とが提示されたのは不幸中の幸いだった。私はもう卒業までずっと一人でいい。群れたくない。私は病的に心が狭い。全員揃ってまとめて嫌いだ。
「あれ、新入りさん?」
そんなある日のことである。保健室登校にも慣れ始めたころ、私唯一のテリトリーになんの前触れもなく突如男が現れた。すこぶる顔の良い男。彼こそが、雪宮剣優だった。
当たり前のように養護教諭と挨拶を交わし、「ようやく仕事も山場を越えた感じ」などと雑談混じりに近況報告をしている様子から、ここは彼のテリトリーでもあるようだった。彼のほどよい品の良さとカジュアルさを含んだ清潔感のある容姿、そしてそれをそのまま出力したような声色はまるで洗いざらしのリネンだ。
「俺以外にもいるんだ。ここに登校する子」
眉目秀麗な優男は仲間のような顔でこちらに微笑みかけてきたが私は知っている。最初から──こいつは仲間でもなんでもない。
私の保健室登校は適者生存から滑落しながらも、かろうじて勤勉さと学習意欲とまあまあ高額な学費とを持った者に開かれたセーフティネットだ。ところが彼のそれは誰もが認める容姿端麗さと多芸多才さを持った者だけに与えられる優遇措置である。
そんな全てに恵まれた男がログインボーナス感覚で出席日数を稼ぎながら笑顔で言い放つ「俺以外にもいるんだ。ここに登校する子」には、全ての文節に無神経さが行き届いていて、思わず頭の中がくらむように真白になる。
だから私は、初めて会ったその日から、もう既に雪宮剣優のことが嫌いだった。──なのに、
「あ、」
私の視界に偶然映り込んだ雪宮のスマートフォンはあまりに無防備な状態で卓上に転がっていた。あとから思えばあれは疑似餌だったのかもしれない。いずれにせよ、そのロック画面は一瞬で私の関心を掻っ攫った。なにせ、あの〈鳥男〉が写っていたのだから。
「『おやすみプンプン』だ、」
思わず口にしたタイトルに優男然とした雪宮の眉がピクリと反応する。
「よく知ってるね。読んだことある?」
彼の問いに私は小さくうなずいた。読んだことあるもなにも、単行本は全巻コンプリートしている。でも、ここで漫画トークを交わすほど私は彼に心を許していないし、許す気もなかった。
しかし、私の思惑など知る由もなく、彼は「マジ?」と食い気味にリアクションした。柔らかく穏やかな印象をまとっているくせに、そんな前のめりの反応を示すこともあるのか。驚く私をよそに彼は本心から生まれたであろうはにかみ混じりの微笑みを浮かべた。そしてしっとりと水分を含んだ形の良い唇の端を緩ませて言う。
「あの漫画、めっちゃ良いよね。一番好き」
──何言ってんだコイツ。
不意打ちで顔面に一発、パンチを食らったような衝撃だった。
目の前の男が一番好き、と評してはしゃぐそれは、今の彼のテンションとはまったく釣り合わないほどに暗く鬱屈しているストーリーのはずだ。
鳥の姿で描かれた主人公は初恋の呪いに囚われ続け、登場人物はどいつもこいつも自分勝手で、惨めに引っ掻き回された主人公の人生は、ひたすらに気の重いエンディングを迎える。アレはそういう漫画だ。
そんな物語を、その美しい顔で、初対面の女相手に絶賛するな。良いわけあるか。お前みたいな日なたの人間があの陰鬱な世界観を賞賛するなよ。
動揺した私は話題を変えようと、なけなしのトークスキルをひねり出して雪宮との会話を試みる。
「えっと、同じ作者だと、『ソラニン』とか映画化したよね」
「うーん、俺は映画だとエヴァの旧劇が好き」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。彼があまりに美しく、爽やかに、屈託なく笑ったから。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、通称『旧劇』。インターネット上で字面としては何度も目にしているが、他者の口から目の前でそのタイトルを発されるのは初めてだった。
『おやすみプンプン』と同じ作者で、実写映画化まで果たした『ソラニン』を押し退けてわざわざ彼が挙げたその作品は、あまりに彼の外見イメージから乖離している。
「特に鳥葬シーンが気に入っててさ、」
絶句、という言葉はこういう時のために存在するのだろう。
彼の言う〈鳥葬シーン〉とは、作品のメインヒロインが敵に鳥葬のようにして文字通り身体を貪られるという極めて不快で悪趣味なシーンだ。耳を疑った。それを「特に気に入ってる」?言うな。思ってても言うな。言うならせめてもっと親しくなってから言え。顔面国宝と露悪趣味の最悪なマッチングにめまいがする。
「っていうか、こういう系、好き?」
今さら聞くなよ、手遅れだから。
それでも雪宮は自分の趣味嗜好が相手に受け入れられるかなど微塵も気にしておらず、終始自信に満ちた表情を浮かべていた。そんな形で自己肯定感の高さを見せつける奴があるものか。やっぱり出会い頭の一言にも現れていたように、この男は自分の振る舞いに無神経で無頓着なのだろう。
それでいてその笑顔の裏にねっとりとした、どこか人を試すような挑戦的な気配を感じた私は身震いする。私の趣味嗜好なんてどうでもいいだろ。勘弁してくれ。
「──私も、好きだよ」
降参だ。白状する。
本当は私の趣味嗜好も極めて悪辣なのだ。
そしてそれを証明するかのように、実のところこの時、私はとっくに雪宮剣優に恋していた。
いくら外づらが良かろうと、この男もひとたび皮を剥げば私と同じ品性下劣な人間なのだと思わされてしまったから。それは同類への憐れみか、あるいは歪んだ自己愛なのか、わからないけれど恋をしていた。
「オススメあったら教えてよ。わりとなんでも大丈夫だから」
「なんでも、って?」
ここは潔癖清閑なる保健室だ。倫理観の崩れた血生臭い話は持ち込んでくれるなよ。
「なんでも は なんでも。強いて言うなら、救いが無ければ無いほど良いな」
「……雪宮くんって、容姿以外は最悪だね」
「あはは、それは文脈的に褒められてると思っていいのかな?」
「そういうところだよ」
雪宮剣優というジェットコースターは私の情緒を乗せて無自覚のまま発車する。彼の下がった目尻に沿って私はその魅力に勢いよく落ちていった。
「雪宮くん、次の登校いつ?」
「今週は火曜と水曜以外は登校するよ。午後で早退するけどね」
「じゃあ次会う時になんか貸すよ。……とびきり救いが無いやつ」
それが間違いだった。
なにも貸すべきではなかったし、そもそも言葉を交わしたことさえ誤りだった。
*
「雪宮、それ、あげようか?」
「え?」
「うん、だって、どうせ返せないでしょ」
私のせせら笑いが引っかかったのか、あるいは癪に触ったのか、ここまで頑なに視線を上げなかった雪宮がそこでようやくこちらを向いた。
私は眼鏡のレンズ越しでもわかるその力強い眼差しにひるむことなく、まだ五冊以上は入っているメゾン・マルジェラの紙袋を指さす。
「だって、もう会わないなら、返せない」
でしょ?と私は小さく首を傾げたが彼は何も言わぬままページを捲る手を完全に止めた。
「先生から聞いたよ。さすが我が校の誇り、雪宮剣優クンじゃん」
そう。やはりこの男は仲間でもなんでもなかったのだ。むしろ一度仲間として受け入れてしまった分、タチが悪い。
「サッカー、すごいんだね。そっちに専念するから登校ほとんどしなくなるんだって?」
「まぁ、今も真面目に毎日通ってるってわけじゃないけどね」
「雪宮、そういうの、もういいよ」
結局のところ、彼は持つ者で、私は持たざる者なのだ。
すべてを持つ者は、私が必死に縋り付く保健室登校すらも免除される。そもそも彼にとっては学校という小さな社会なんて縋り付く価値すら無いのかもしれない。でも、私は、私には、この小さく白い空間だけが今唯一ある社会との繋がりだ。
私はこんなにもこの小さな社会を手放すまいと必死なのに、この学校は雪宮剣優という広告塔を維持するためならきっといくらでも特別措置を作り出すだろう。
「今読んでるそれも、好きだって言ってた作品も、ただの気分転換にすぎないんでしょ?」
すべてを持つ男は、きっと私のようにフィクションに救いを求めたりはしない。だって、アンタは救いを求めるほど困ってないでしょ。私の貸したあれもこれも、気分転換のたかが娯楽のひとつ、なんでしょ?
「サッカー、モデル、学校の課題、悪趣味で刺激的な作品。さすがにそれだけ詰め込んでたら自分自身とじっくり向き合う時間なんて無いよね」
「どういうこと?」
心の濁りが棘となって彼の言葉に表れていた。雪宮は勢いをつけてわざとらしくパタンと音を立てるようにして借り物の漫画本を閉じる。普段優男の仮面を被っているわりに隠すどころか随分と露骨にイラついているのがなんだか面白かった。
「雪宮にとってはさ、サッカーやモデルの仕事すらも、現実逃避の一種だったりして。そうだよね?」
これは言いがかりであり、因縁であり、私の願望だ。
「いいよね、どれも没頭してる間は余計なこと考えなくてすむもんね」
そう。私は没頭を欲していたのだ。沈みこめればなんでもよかった。たまたま沈んだ先がフィクションで、その中でもとりわけ悪趣味なものを選んだというだけで。
たまたま才能があって目立ってしまっただけであって、彼にも、ありのままの自分と向き合わずにいるための現実逃避の手段がサッカーであり、モデル活動であってほしかった。
「ほんと、雪宮は私と違って器用に現実逃避するなぁ」
眼球の底が熱くなる。私は今にも泣き出しそうだった。私は私の落ち付け方を知らない。
雪宮、頼むから、夢も才能も持っていない私のこと、置いていかないでよ。私と一緒に先の見えない不安に苛まれていてよ。
「やめてくれない?」
バンッ!と爆発するように彼の怒りが漫画本を通して机に叩きつけられた。そして勢いよく立ち上がった彼はずんずんと私の前へと歩み出る。暴力の気配を感じて思わず身体を硬くした私を見下ろす雪宮の視線は冷たく光る刃を思わせた。
「勝手に俺のこと理解した気になられるの、マジで虫唾が走る」
握りこぶしや平手が私を襲うことはなかったけれど、そこには確実に、紳士の皮を剥がされ、怒りと嫌悪に顔を歪める短気な男の姿があった。目を逸らしてなどやるものか。剥き出しのその姿は、私が心底見たかった姿だから。
刃向かうように雪宮を睨みつける私に彼は言う。
「苗字さん、あんまりそういう目を男に向けないほうがいいよ、」
「なんで?」
彼は私の隣にゆっくりと腰を下ろす。このまま首を絞められるのかな、と思った。彼が好きだという物語はどれも女の首を締める描写があったから。
「その目、わからせてやりたくなる」
加害欲に濡れた瞳と、紳士のように微笑む口元は不均衡で歪で悪趣味。そしてあまりに美しい。
「……なら、わからせてやれば?」
それは負けん気からの挑発だったのか、純粋にその行為を望んでいたのか、自分でもよくわからなかった。
雪宮はもったりとした手つきで肌の質感を確かめるように指の背で私の頬の輪郭をなぞる。私を覗き込む瞳の暗さは罪の告白を促されているようにも思えた。懺悔室は暗いのに、保健室はまぶしいほどに白い。今、暗いのは、アンタの瞳と私の心だけだよ。
「……嫌なことと向き合わないための没頭。傷付かないための下劣さ。それって私だけなの?」
彼は闇に光を当てるかのごとく私の頬にかかる髪をすくい上げ、それをそのまま耳に掛けた。そして「キミと仲良くなってからずっと思ってたんだけどさ」と話し始めた。
「そうやって沈んだ気持ちを陰鬱なエンタメで上書きして誤魔化しながら自分の精神を保つの、賢いけど健全ではないよね」
雪宮のそういうところ、嫌いだよ。
やたらと正確に人のことを分析して、躊躇なくそれを口にする。正直さは美徳なんかじゃない。そのことを彼は知っているんだろうか。知ってても知らなくてもタチが悪いことには変わりない。
「……私はずっと一人でよかったのに。勝手に変な感情植え付けて、自分勝手に出ていかれるの、迷惑なんだけど」
「ほんと素直じゃないし、寂しがりだよね。俺とキミが似てようが似てなかろうが、結局人間は一人ぼっちなんだから気に病むだけ無駄だよ」
私の懺悔を聞いたって彼は決して自分の手の内を見せやしない。
「俺はキミになれないし、キミは俺になれない」
知ってるよ。でも、私は愚かにも期待を捨てきれないのだ。やっぱり私と同じなんじゃないか、って。ねえ、私のことを含めていいから、過去も未来も現在も、世界ぜんぶを嫌いでいて。
「貸してくれる作品でなんとなく察しはついてたけど、苗字さん、本当に面倒くさい性格してるよね」
そう言って雪宮は短く笑ったが、その言葉は雪宮自身の自己紹介にも聞こえた。知らずのうちに目尻の裾に滲んでしまった熱を彼のしなやかな指が拭う。
「でも、寄り添うくらいはしてあげる」
ソファーの座面で力なくだらりと転がる私の手に、絡めるでもなくただ重なるようにして雪宮の手が触れる。寄り添うにしてはあまりに質素で味気ない。でもこのやる気のない距離感がむしろなんだか心地良かった。
「……雪宮、サッカー、がんばれ」
「あれ?俺が本気でサッカーやるの反対なんじゃなかったの?」
「そのつもりだった。けど、雪宮がその道で成功したら私も救われそうな気がしたから応援してみようかなと思って」
「あのさあ、勝手に願掛けされても俺は責任取れないよ。自分のことは自分で救ってくれない?」
寄り添うと言ったくせに辛辣な正直さは健在だ。そういうところがやっぱり嫌いで、やっぱり愛おしい。
「でも、まぁ、善処はするよ」
気づいてた?──雪宮、アンタもたいがい素直じゃないよ。